小寺信良の現象試考:「一億総クリエイター」という勘違いに至る道のり
ユーザーが生成するコンテンツ、User Generated Content(UGC)の創造が容易になり、「一億総クリエイター」時代が到来したと言われるが、それは本当だろうか。
先週、「コンテンツ学会」 の記念講演シリーズの一部として、「変質するContent Play」というタイトルで講演してきた。コンテンツを娯楽として楽しむという行為が、受動的な体系から消費者参加型の「Play」に変質してきた課程 で、本来は商行為の権利保護ルールであった著作権が、クリエイティブとは無関係な「利用」部分にまで関係してきた課程を整理したものである。
講演のあと参加者とのディスカッションで、またもう一歩深い議論となるタネをいくつかいただいた。ただ、なにぶん筆者は考えるのに時間がかかるタ イプなので、ディスカッションの中で丁々発止やり合いながら、打てば響くような答えがなかなか出せない。会議などでも話題が尽きそうになったとき、突然、 変な事を言い出して議論の方向性を混ぜっ返してしまうようなタイプなので、歯がゆい思いをされた方も多かったことだろう。
そこでこのコラムの場を借りて、もう一度ユーザーが生成するコンテンツ、すなわちUser Generated Content(UGC)の成立について考察してみたい。
娯楽の変遷と受け手の立ち位置
コンテンツとはそもそも何か。コンテンツ学会の設立総会でも、「コンテンツ」という輸入された概念ではなく、日本語として理解できる語に言い換え て議論すべき、という意見が出た。確かにコンテンツという言葉は大変便利なもので、なんでもかんでもその入れ物の中に放り込むことができる。だから総体と してハンドルが付けられ議論ができるという面もあるが、だからこそすべてのコンテンツに満足できる施策が出てこないとも言える。
ここではコンテンツを、人々が享受する「娯楽」という意味に絞って考えてみたい。
- 生の時代
人々が享受する娯楽の原点は、歌や踊りといった、生の実演である。これらの娯楽が発生した当初は、それを提供する側、享受する側の間で明らかな線 引きは存在しなかったであろう。大きな火を囲んで輪になり、その中で交互に楽み楽しませ、あるときは全員で楽しんだりしたものであったと想像される。
しかし人間社会が高度に分業化されていくに従って、娯楽を提供する専門家が登場する。役者や歌い手といったパフォーマー、作曲家、美術家といった 制作者が専業化していく。そこでは一対多の効率的な「興業」が行なわれるが、作り手と受け手が対峙することが可能な状況が保持されている。
- 実演記録の誕生
この関係性が壊れ始めるのが、記録メディアの登場以降である。この時代を便宜的に「記録の時代」と呼ぶことにする。フィルムによる映画産業、レ コードによる音楽販売という産業は、ほぼ同時に発生した。シネマトグラフによる初の上映が1895年、ベルリナーが発明した円盤式レコード及び再生装置グ ラモフォン(Gramophone)の製造販売会社「ベルリーナ・グラモフォン」が設立されたのも1895年である。
そもそも生ものであった芝居や演奏をメディアに記録してパッケージ化し、複製し、流通させることで、これらの「興業」は飛躍的に成長していった。 そして娯楽の作り手と受け手は、直接対峙することがなくなっていった。時間と空間を共有しない関係となり、両者の間に流通業、すなわちメディア産業界が割 り込んだのである。
ここでもう1つのパラダイムシフトが起こる。パトロンが変わったのだ。娯楽の作り手と受け手が直接対峙する時代では、作り手のパトロンは受け手で あった。王宮のお抱え音楽家も萱掛けの芝居小屋の役者も、同じである。しかしメディア産業の勃興をきっかけに、パトロンは受け手ではなく流通業者となっ た。
- 放送の誕生
そして「放送の時代」となる。日本でのラジオ放送の開始が1925年。関東大震災からわずか2年後の、大正14年のことである。テレビ放送はそれから約50年後、1953年に始まっている。
放送がもたらしたものは、娯楽享受の機会損失補てんである。映画は映画館に行かなければならず、レコードは蓄音機を買い、レコード盤を購入し続けなければならない。しかし放送は、家庭にいながらにして新しい娯楽を、無尽蔵に提供した。
「コンテンツシェア」という概念は、すでにこの時から生まれたはずである。ラジオのある家庭、テレビのある家庭にご近所が集まって一緒に楽しむということは、普通に行なわれた。
筆者の記憶の中には、カラーテレビの登場時における「コンテンツシェア」体験がある。新しもの好きだった祖父がカラーテレビを買い、夕方5時には 近所の子供たちが一同に集まって「ウルトラマン」を一緒に見たものだ。それまでモノクロ画面で見慣れていたシックなウルトラマンが、実は銀と赤だった衝撃 の事実は、瞬く間に子供たちの間で常識となった。
放送は、記録メディアとはまた違った意味で、作り手と受け手に壁を作った。放送、特にラジオの初期は、すべて生放送である。音楽も生演奏であり、 歌手も生で歌った。現在はコストの問題で録音されたものを流すのが一般的だが、当時は生演奏とレコード演奏をコストで比較するという概念がなかった。むし ろ放送で生演奏というのは、「だからこそ放送する価値があるもの」であったわけだ。
演奏をし、それを同時に視聴者が鑑賞するという点では、時間軸としては「メディア誕生以前」と同じである。ただ視聴者は、演奏者と直接対峙することがなく、双方は同じ空間には存在しない。
のちに放送用記録技術の発達で、時間軸もズレるというメディア産業と同じような構造を持ちうるようになったのだが、放送業者がいまだに「生」にこだわるのは、メディア産業ではどうやっても越えられない、作り手と受け手の「時間的同期」が可能だからである。
受け手の変質過程
- Content Play概念の発祥
作り手が供給し、受け手は一方的に受け取るだけという時代から、受け手に参加を求める娯楽が台頭したのは、1978年に登場した「スペースインベーダー」の頃だろう。この時代を「Playの時代」と名付けたい。
それ以前にも、業務用テレビゲームは存在した。だがそれらは、あくまでも時間つぶしであったり手慰みであったりというだけで、それそのものが目的化してはいない。
Play時代の特徴は、子供ばかりでなく大人も、Playすることを目的として行動したという点での転換があったことである。そして任天堂がファ ミリーコンピュータを発売したのが1983年。この頃に娯楽とは受動的享受から積極的享受へと転換し、上手くなればより楽しむことができるという、享受者 のスキルによって楽しみが差別化するという現象が発生することとなった。
- Play本末転倒時代の到来
インターネットの普及と光ディスク記録メディアの台頭は、90年代後半からほぼ時期を同じくしておこった。インターネットはデジタルデータを伝達 するわけだが、それはInfomationという意味での情報だけでなく、コンテンツそのものをデジタル化することで、伝送可能となった。
これによって起こったのが、コンテンツの収集である。映像、音楽に限らず、ソフトウェアですら収集の対象となった。内容をまったく鑑賞せず、ひた すら全話、全曲入手したり、特定ソフトウェアの全バージョンを収集する。これはコンテンツの社会的価値ではなく、単にネットでは珍しいという価値が、デジ タルデータに付加されることとなる。
むろんソフトウェアの違法コピー問題自体はそれ以前から存在したが、これらのネット取引行為が引き金となり、ネット上での著作権侵害問題が社会問 題化したと言えるだろう。しかしこの本末転倒現象は、現在はかなり縮小したと思われる。ありとあらゆるものがネット上で取引されるようになり、多くの消費 者は正規ルートのネット流通利用に流れていった。
- 一億総クリエイターの時代
90年代後半まで、ネットに参加するということは、「自分のホームページを持つ」ということであった。しかし99年に「2ちゃんねる」が誕生し、 自分のホームグラウンドをコミュニティに置くという行為が主流となっていく。03年に大手サービスプロバイダでは初めて@niftyが、ブログサービス 「ココログ」をスタートさせた。SNS最大手のMixiは、翌04年のスタートである。
筆者の認識では、ブログはホームページ作成をテンプレート化したものと考えていたが、最近は「はてな村」などと呼ばれるように、サービスごとにある種の特性を持つ共同体を形成するに至っている。広義の意味では、1つのCGMを形成しつつあると言えるかもしれない。
コンテンツ学会での議論では、この前に「コンテンツシェアの時代があるのではないか」という指摘があった。確かにコンテンツ再生がオンラインで可 能になって以降にYouTubeが発生、コンテンツシェアは1つの時代を名乗る重みを持つに足る。だが実はYouTubeの誕生は05年12月、著作権侵 害が問題になり始めたのは06年からのことである。時間軸としては、意外に最近なのだ。これは消費者をコンテンツの作り手側として観測するか、受け手とし て観測するかの立場の違いで、解釈が分かれる点もあろうと思われる。
さらに消費者が情報発信する課程で、簡単に著作物を引用できるようになったことが、事態を混乱させている。例えば何かテレビ番組の話題をブログの 日記に書くとして、その参考としてどこかにアップロードされた番組キャラクターの画像、さらにはそれそのものの動画まで貼り付けることが可能だ。
これは現行の著作権法に照らせば、消費者の好むと好まざるにかかわらず、私的利用の範囲を超えたコンテンツの違法な利用者扱いとなる。
User Generated Contentの本質
ネット上のコミュニティ内からコンテンツが産まれ、それが新しい産業母体になるのではないか。知財戦略の中でこの議論はもはや外せないものとなっ て久しい。確かにニコニコ動画が産んだムーブメント、初音ミクやMAD、踊ってみた、歌ってみた、といったアマチュアの表現活動が人を集め、テレビに変わ る新たな娯楽ソースとして機能し始めている。
一方、課題として、いかにそれをビジネスとして回していけるか、というところが解決できていない。コミュニティの参加者が、コンテンツがお金に変わることを嫌う傾向にあるからだが、どこかでお金を産むフェーズを作らなければ、コミュニティの場が長期間維持できなくなる。
単に楽しむ側、一方的な娯楽受動者からすれば、そんなものは一過性のものであって、次に面白いものが出てくれば単にそれに乗り換えるだけにしか過ぎない。しかし娯楽を提供したいと思う側からすれば、人が集まる場の存続性は大きな問題だ。
アマチュアの娯楽提供者側としては、それでプロになろう、食えるようになろうという傾向のそれほど強くないというのが、ネット時代の特徴であろう。つまりこれらのコミュニティは、プロへの登竜門として開かれているわけではない。漫画家の出版社持ち込みとは違うのだ。
なぜならば学生やニートの人は別にして、多くのアマチュアクリエイターは別に本業を持っており、そこからの収益を趣味としてクリエイティブ行為に 回すという、「セルフパトロンシステム」で動いているからである。中にはプロのクリエイターなんだけど、自分のやりたいことをやるために、本業とは別のも のを無償で提供するというケースも存在するだろう。
CGMからコンテンツが産み出されるというケースは、過去2ちゃんねるに顕著な事例が多い。ただ娯楽という視点から見れば、CGMがコンテンツを 産むのではなく、「場に参加することそのものがコンテンツ化している」という方が正しいだろう。例えば嫌儲(けんちょ)という考え方も、この点を理解しな ければ解釈が難しい。
つまり、商業物として独立することが可能なコンテンツは、それを切り出せば「発生する」と言えるのだが、そのコンテンツが産み出される課程自体を 多くの人が共有する事ができる。これまで商業コンテンツとして制作されるものは、制作に関わるスタッフしかその成立過程に立ち会うことが許されなかったの だが、CGMではそれができるわけだ。
実際にCGM内で何かを制作しているのは、1人もしくは数人に過ぎない。しかし成立過程を共有する者全員が、アイデアを出したり、さらに言えば雰 囲気や流れを作ったという意味での貢献はあり得る。これは、コンテンツそのものが人の共同体を形成している状況だ。その中から成果物だけを商業作品として 取り出してしまうと、コミューン総体としてのコンテンツが壊れてしまうことになる。そこに対する抵抗が、嫌儲という形で現われるのであろうと推測される。 これでは、単に「全員に分け前を与える」ということでは解決できないはずである。
筆者の考えでは、成果物だけ抜き出して商業コンテンツ化する、すなわち旧来のメディアにパッケージングして大量販売を行なうというビジネスモデル 自体が、古くさい方法に向かっての逆行ではないかという気がする。それをやりたいのは流通者だけで、本人たちは積極的にそれを望んでいないのだから、これ はもう仕方がない。もし無理にやるとしたら、ある意味ネット権が構想したような、著作権を強制的に許諾権から報酬請求権に転換するような事でもしなけれ ば、難しいということになる。
そもそも商業物としてのクオリティを持ち、権利処理が可能なUser Generated Contentは、数としてはものすごく少ないのではないかと思う。ニコニコモンズでUGMとしての実験が始まっており、筆者もいくつか素材を提供して状 況を観察しているが、全くのアマチュアが模倣でも内輪受けではない、独立したコンテンツにたどり着くまでは、嘆息するほど相当に遠い道のりであるように思 える。一億総クリエイターなどは、ただの幻想である。
さらにUGCは常にアンコントローラブルで、自然発生的に生まれてくるだけなので、計画的生産などは不可能だ。どちらかと言えば「採集」に近い。それでは事業計画にならないだろう。
むしろその成果物そのものを売ろうとするよりも、個人でクリエイターとして立って行く能力があり、そのつもりもある人間をゲットする場、もしくは そういう人間を育成する場として方向づけたほうがいい。そしてプロのクリエイターとして仕事をする気のあるものに対して、作品を発注していくというパトロ ンシステムのほうが、自然だろうと思う。
小寺信良氏は映像系エンジニア/アナリスト。テレビ番組の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけたのち、CGアーティスト として独立。そのユニークな文章と鋭いツッコミが人気を博し、さまざまな媒体で執筆活動を行っている。最新著作は小寺氏と津田大介氏がさまざまな識者と対 談した内容を編集した対話集「CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ」(翔泳社) amazonで購入)。
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