2008年12月9日火曜日

asahi shohyo 書評

芸術崇拝の思想—政教分離とヨーロッパの新しい神 [著]松宮秀治

[掲載]2008年12月7日

  • [評者]柄谷行人(評論家)

■国家と資本が生み出した「宗教」

  近代以前には、職人はいたが、芸術家はいなかった。彼らの仕事は芸術と見なされなかった。たとえば寺社・教会の装飾や彫刻は元来礼拝の対象であった。それ らを芸術として崇拝するのは、近代に起こってきた現象なのだ。もっとも、そういわれても、誰も驚かないだろう。人々は昔と違って、芸術を評価できるように なってきたことを誇らしく思い、美術館に赴く自分たちは、何と文化的に洗練されてきたのか、と思うだけだから。したがって、芸術の歴史だけを見ていたので は、「芸術崇拝」がどうして起こってきたのか、そして、それが何を意味するのかがわからないのである。

 本書は、芸術崇拝が西洋における近代国家の形成の過程で生じたことを明らかにするものである。通常、芸術崇拝はロマン主義にお いて生じた、また、ロマン主義から民族性を重視する思想が出てきた、と考えられている。しかし、著者は、芸術崇拝は啓蒙(けいもう)主義から生じたと考え る。また、ロマン主義を啓蒙主義の対立物ではなく、啓蒙主義のなかに胚胎(はいたい)する要素だと見る。さらに、啓蒙主義は絶対主義王政を基礎づけるイデ オロギーとして機能したという。たとえば「啓蒙専制君主」と呼ばれる体制があったが、むしろそれこそ啓蒙主義の本来のあり方である、と。

 啓蒙主義は宗教を斥(しりぞ)ける。ゆえに、教会を超える専制的王権を確立するには、啓蒙主義が必要だった。ところが、宗教な しには、多数の臣民を統合することができない。国家が宗教のかわりに見いだしたものが芸術宗教(芸術崇拝)であり、その「神殿」が美術館である。つまり、 芸術崇拝は、ヨーロッパの近代国家にとって不可欠なものとして出てきたのである。啓蒙主義やロマン主義といった概念で考えているかぎり、芸術が根本的に近 代国家の産物であることがわからない。本書はそのことを明確に示した。

 芸術崇拝および美術館は世界各地に広がった。日本でも明治以来普及した。それは国民国家の形成に大きな役割を果たしたのであ る。現在、国民国家が十分に確立した地域では、もはや芸術(文学・美術・演劇・建築)は不可欠ではないようにみえる。しかし、今も国家は「芸術」のために 膨大な金をつぎこんでいる。その必要があるからだ。

 これに加えて、「芸術崇拝」が近代資本主義の産物でもあるということを忘れてはならない。たとえば、作品の「芸術的価値」は経 済的価値と区別される。しかし、現に、経済的な価値をもつからこそ芸術の価値は高く、それゆえ芸術家の地位も職人より高いのである。近年の美術界では、芸 術的価値と経済的な価値を区別することもしなくなっている。作品の価値は完全に市場の価格ではかられている。作品が最後に納められる神殿であったはずの美 術館は、経営難のため、作品を市場に売りに出している。しかし、こうした事態は「芸術宗教」を解体するものではない。芸術が根本的に国家と資本の下にある ことを見ないなら、反芸術を志向することは、純粋芸術を求めることと同様に不毛である。

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まつみや・ひではる 41年生まれ。早稲田大大学院博士課程を経て06年まで立命館大勤務。著書に『ミュージアムの思想』など。

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