2012年9月26日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年09月23日

哲学の歴史 07 理性の劇場』 加藤尚武編 (中央公論新社)

理性の劇場 →bookwebで購入

 中公版『哲学の歴史』の第7巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻は18世紀後半から19世紀にかけて隆盛したドイツ観念論をあつかう。カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと巨峰が連なり哲学史の中でもひときわ高く聳える山脈を形成している。

 ドイツ観念論の研究者は偏屈な人が多いのか、編者の意図といい意味でも悪い意味でもはずれた原稿が集まった印象がある。

 いい意味ではずれたのはヤコービ兄弟をあつかった「自然と言語の百科全書」というコラムである。コラムであるから編者はヤコービ兄弟にそれほど重 きを置いていなかったはずだが、章に昇格させていいくらい充実した内容で、ヤコービ兄弟が哲学史において重要な役割を果たしたことを教えてくれた。

 ゲーテに一章割かなかったことは惜しまれる。ゲーテをはずしたのは編者のこだわりかもしれないが、どの章でもゲーテに言及しており、せめてコラムとしてでもとりあげるべきではなかったか。

 不満はないではないが、要となるカントとヘーゲルの章が読みごたえがあるので本シリーズ中でも屈指の巻となっている。

「総論 カントとドイツ観念論」 加藤尚武

 編者はドイツ観念論は俗称であり、理想主義であるとか「デカルト以来の自我中心主義がヘーゲルで絶頂を迎えた」といった従来の見方を廃棄するもの の、ドイツ観念論というまとめ方を否定しているわけではない。カントの存在はあまりにも大きく、ドイツの哲学者はカントが残した課題の解決を迫られていた と見るからだ。

 その課題を編者は三つに要約する。

  1. 主観性と客観性の根源的統一はいかにして可能か
  2. すべての学問分野を統合する原理は何か
  3. 神に対応する理性的な「絶対者」の概念はどのように把握されるか

 この三つの課題をめぐってドイツの哲学者は半世紀にわたって悪戦苦闘するが、そこに陰に陽に顔を出すのがスピノザである。ドイツ観念論においてスピノザの存在はデカルトより遙かに大きい。

「� ヴォルフとドイツ啓蒙主義の暁」 小田部胤久

 ヴォルフはドイツ講壇哲学の大成者とされるが、カントの引き立て役としてしか名前が残っておらず一冊の邦訳もない。そのヴォルフを紹介した貴重な文章である。

 ヴォルフは1679年1月24日ブレスラウに生まれた。マクダレーネン・ギムナジウムで学んだが、ルター派とカトリックの反目を目にして数学の確実な証明に心を向けた。

 1699年、神学を学ぶためにイェーナ大学に入学しデカルト哲学と出会う。ライプツィヒ大学に移った後、1703年「数学的方法によって書かれた普遍的実践哲学」で教授資格を取得。1706年ライプニッツの推挙でハレ大学の数学自然学教授になる。

 ハレ大学は1694年にドイツ語で講義することを提唱したトマジウスが中心になって創設された大学である。トマジウスは哲学に数学的方法を用いる ことに反対していたので、ヴォルフはライプニッツの忠告にしたがい哲学の講義をおこなわなかったが、1709年からドイツ語で哲学の講義をはじめる。ヴォ ルフは講義の成果をつぎつぎにドイツ語で刊行したが、体系性と平明な論理が歓迎され彼が作ったドイツ語の術語が広まっていく。

 しかしハレ大学で支配的だった敬虔主義から決定論・無神論ではないかと批判され、1721年には「中国人の実践哲学」という講演が槍玉にあげられ る。1723年プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は「勉学中の若者に多大の損害をもたらす教えを述べた」としてヴォルフに国外退去を命ずる。 ヴォルフはヘッセン=カッセル方伯の招聘でマールブルク大学に移る。

 1728年からはラテン語著作の公刊をはじめ、ドイツ語圏以外でも読まれるようになる。ディドロの担当した『百科全書』の「哲学」の項目はヴォルフの体系を祖述したものだった。

 1740年プロイセンでフリードリヒ・ヴィルヘルム一世が没しフリードリヒ二世即位すると再びハレ大学に招聘される。1754年4月9日ハレで死去。76歳だった。

 ヴォルフの哲学はライプニッツの説をもとにスコラ哲学に匹敵する体系をつくりあげたとされているが、本章ではライプニッツの影響や体系性にはあまりふれず(こうした面はカントの章に紹介がある)、心理学とそこから派生した美学に話を絞っている。

 ヴォルフは心理学をあらわす言葉としてpneumatica、pneumatologiaではなくpsychologiaを広めた。ヴォルフは心 理学を経験的心理学と合理的心理学に二分し、経験的心理学は天文学を範とした実験的哲学の一部門、合理的心理学は経験的心理学があきらかにした命題を根拠 から説明する演繹部門とした。

 『経験的心理学』(1732)は第一部「認識能力」、第二部「欲求能力」にわかれ、「認識能力」は下位認識能力である感性と上位認識能力である知性にわかれる。

 この分類に触発されてバウムガルテン(1714-62)は美学aestheicaという学問を創始した。上位認識能力=知性に論理学があるのにならって、下位認識能力=感性を導く学問として構想したわけである。

 敬虔主義者はヴォルフの心身相関論を人間から自由奪う決定論と決めつけたが、ヴォルフは心身相関論を三つの類型にわけている。

  1. 心身の間に因果関係があるとするアリストテレス説
  2. 神の働きかけで心身が同時に変化するとする機会原因説(デカルト、マルブランシュ)
  3. 神があらかじめ打ち立てた調和により心身が各々の本性にもとづいて自律的に変化していくという予定調和説(ライプニッツ)

 ヴォルフは最後の予定調和説を採用するが、注目すべきはこの説明はあくまで合理的心理学上の仮説にすぎず、仮にこの仮説が間違っていたとしても経 験的心理学において明らかにされた事柄までもが否定されるわけではないとしたことだ。合理的心理学は斬新的により正しい説明を求めればよいというわけだ。

 カントはヴォルフを独断論と批判したが、当のヴォルフは独断的ではなかったらしい。

「� カント」 福谷茂

 カントは1724年ケーニヒスベルクに生まれた。ケーニヒスベルクは現在のポーランドのカリーニングラードにあたる。ドイツ騎士団が建設したハン ザ同盟の港町で、最盛期でも人口は5万を超えなかったが大学と不凍港をもち、スコットランド人、英国人、オランダ人、ユダヤ人などが集住する多文化多民族 都市だった。

 父ヨーハンはティルジット出身の馬具職人の親方でカントはスコットランド系と思いこんでいたが、明確な根拠はない。母アンナ・レギーナはニュールンベルクからの移住者の家系だった。両親は敬虔主義の信奉者で、カントの敬虔主義の影響のもとに育った。

 1732年敬虔主義者のシュルツが校長をつとめるコレギウム・フレデリキアヌムで古典語を学び、1740年ケーニヒスベルク大学に入学、恩師のクヌッツェンにニュートンを教えられる。ニュートン力学と啓蒙主義の影響で敬虔主義からは離れていった。

 1746年『活力測定考』を提出して卒業。住込みの家庭教師となってケーニヒスベルクの周辺を転々とする。

 1755年修士論文と教授資格申請論文を提出して私講師になり、自然哲学の論文をつぎつぎと発表して注目される。1762年ケーニヒスベルク大学の詩学教授のポストが空くが辞退する。他の大学から招聘されたこともあるがやはり辞退している。

 私講師は受講者の数による出来高払いだが、自然地理学の講義に聴講者がつめかけるなどカントの講義は人気があったので経済的には困らなかったようである。

 1770年ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学正教授になり、『感性界と叡智界の形式と原理について』を出版するが、これから『純粋理性批判』まで有名な沈黙の10年にはいる。

 『純粋理性批判』は大陸合理論とイギリス経験論の綜合といわれるが、本章の著者はニュートンらの自然学の成果を懐に含むことのできる形而上学の構築と位置づけている。形而上学とはドイツ・アリストテレス主義といわれるライプニッツ=ヴォルフの講壇哲学である。

 ルターがアリストテレスを憎悪したためにドイツのプロテスタント地域では形而上学が壊滅していた。ライプニッツが形而上学を復興させるために手本 としたのは皮肉なことにイエズス会士スアレスがアリストテレスとトマスを近世的に再編成した「第二スコラ哲学」であり、ヴォルフが大成した講壇哲学もスア レスの体系をもとにしていた。『純粋理性批判』はアリストテレスに淵源する古い講壇哲学と、デカルト、ロック、ニュートンらの新しい自然科学的哲学を無理 矢理に近い形で融合させる試みだった。そこがさまざまな解釈をうむ要因でもあり魅力でもある。

 1781年にやっと『純粋理性批判』の出版にこぎつけるが、最初はまったく理解されなかった。そこで『純粋理性批判』を要約した『プロレゴーメ ナ』(1783)や自作自解といわれるようになる『純粋理性批判』第二版(1787)を刊行し、しだいに理解者を増やしていった。

 カントは『純粋理性批判』を基礎に『人倫の形而上学の基礎づけ』と『自然学の形而上学的原理』を書きあげ、講壇哲学に対応した一応の体系を完成さ せるが、その後理性を主役にした独自の体系を構想するようになり『実践理性批判』(1788)と『判断力批判』(1790)を刊行する。

 1796年に大学を退職するが研究と著作はつづけ、1798年には神学部・法学部・医学部の下におかれていた哲学部を他の三学部と並び立たせることを主張した『諸学部の争い』を刊行している。

 1804年死去。80歳だった。カントは意外に多くの財産を残しており、「はじめて哲学で財産を残した男」ともいわれている。

 カントはヒュームによって掘り崩された因果律をア・プリオリな総合判断として再建しようとしたが、本章ではそもそもア・プリオリな総合判断はあり うるのかという視点から『純粋理性批判』を検討し、『実践理性批判』と『判断力批判』につなげていく。すこぶる見通しがよく、三批判をふりかえりやすい。

 本章で興味深いのは遺稿について立ち入った考察をくわえている点だ。カントは亡くなる直前まで思索と執筆をつづけたが、晩年はさすがに呆け気味で あり、遺稿は断片の集積だったこともあってきちんと論じた人はあまりいなかったのではないかと思う。本章の著者は遺稿を『純粋理性批判』と表裏をなすもの と位置づけ、今後のカント研究の重要なトピックになるとしている。

「� ハーマン」 栗原隆

 ハーマンと聞いてすぐにわかる人はあまりいないだろう。わたしも知らなかったが、カントの友人でソクラテスの無知やヒュームの懐疑を武器に啓蒙主義の理性崇拝に警鐘を鳴らした思想家で、カントとドイツ観念論に大きな影響をあたえたという。

 ハーマンは1730年ケーニヒスベルクに理髪外科医の息子として生まれた。1746年、ケーニヒスベルク大学にすすみ、カントの師であったクヌッ ツェンに哲学を学んだ。カントより6歳年少の後輩ということになる。在学中から『ダフネ』という雑誌を創刊し文筆活動をはじめるが、なんら資格をとること なく大学を修了する(当時は珍しくない)。

 住込みの家庭教師の後、1757年リガの商会にロンドンに派遣される。商談はまとまらなかったが、ハーマンは生計の当てもないままロンドンに一年間逗留した。異国で極貧生活を送りながら聖書を読みこんだことがハーマンの思想に大きかったといわれている。

 1759年『ソクラテス追想録』を刊行する。ソクラテスは啓蒙主義の英雄ともてはやされていたが、ハーマンはそれを逆手にとってソクラテスの仮面をかぶって啓蒙主義批判をおこなった。思考の手前の現実をキルケゴールに先立って実存と呼んだことも今日注目されている。

 カントから子供のための自然学読本を共同で書こうという提案があるが、啓蒙主義的な教科書という趣旨に反発し断っている。この前後のカント宛書簡 が残っているが、前批判期の自然学的神学の傾向を人間の有限性を忘れたと批判し、ヒュームの重要性を説いている。カントを「独断のまどろみ」から醒ました のはハーマンだった可能性がある。

 1762年『美学提要』と『愛言者(文献学者)の十字軍行』を刊行し、認識主体を対象の上に立てる科学は人間のたかぶりと批判する。啓蒙主義が斥けた聖書の美的世界や身体的比喩を肯定し、疾風怒濤とロマン主義の先駆けになったとされる。

 当時は文筆活動では生計を立てられなかったのでいろいろな職を転々としていたが、1767年カントの紹介で税関に勤務するようになりようやく生活が安定する。『純粋理性批判』は校正刷りで読みいち早く書評を書いている。

 1787年ガリツィン公爵夫人アマーリエに招待されミュンヘンにおもむき、デュッセルドルフに足を伸ばしてヤコービを訪ねている。1788年帰国間際に死亡。58歳だった。

 はじめて名前を知った思想家だが、ゲーテが『詩と真実』で高く評価したり、ヘーゲルが長文の書評を書いたり、現代神学から注目されたりしているそうである。

つづく

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kinokuniya shohyo 書評

2012年09月24日

『日本帝国の申し子』 エッカート (草思社)

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 著者のカーター・J・エッカートは朝鮮史を専門とするアメリカの歴史学者でハーバード大学コリアン・インスティチュート所長をつとめている。本書 は韓国近代史の基本図書とされている本で、副題に「高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945」とあるように、京城紡織株式会社をおこして大財閥となった高敞金氏の発展をたどりながら、韓国資本主義の起源が日本統治時代にあった ことを立証した研究である。

 高敞金氏といっても日本ではなじみがないが紡績業で成功をおさめた民族資本家で、1939年には南満洲紡績会社を設立し、役員も技術者も三千人の職工もすべて朝鮮人の大工場を奉天近郊に建設するまでになった。ちなみに韓国三大紙の一つである東亜日報と名門私立大学として知られる高麗大學校は金一族が創立したものである。

 エッカートは朴正煕時代の韓国に平和部隊の一員として滞在し、後に「漢江の奇跡」と呼ばれる目覚ましい経済発展を目にして朝鮮近代史を専攻することにしたという。

 韓国で通説となっていたのは朝鮮の資本主義の萌芽は17世紀に生まれたが、十分に成長する前に日韓併合によって富が収奪され、民族資本家の成長は 1945年の解放まで抑圧されたとするもので、いわゆる李朝資本主義萌芽説である。歴史教科書は今でもこの立場から書かれている。

 だが実証的な歴史学の観点からすると李朝資本主義萌芽説の誤りは明白だ。まず商業の規模が小さすぎたこと。16世紀から17世紀にかけて商業の発 達は見られたが、人口百万人の江戸のような大都市が生まれなかったために朝鮮の商人は三井や鴻池には遠くおよばなかったし、商業の発達が李朝の社会構造を 変えることもなかった。

 また資本が蓄積しただけでは資本主義は生まれない。資本主義には工業技術の発達が不可欠だが、李朝時代には見られなかった。

 商人資本の蓄積は小規模だっただけでなく、開国の動きに乗れず衰退していった。李朝の商人というと六矣塵と貢人と呼ばれた京城の特権商人と人蔘貿 易で財をなした開城商人が双璧だが、京城の特権商人は自国の白銅貨を貯めつづけたために1905年の貨幣改革で大打撃を受けた。開城商人は1898年以降 人蔘が完全に政府の統制下におかれると没落した。

 朝鮮の資本主義の担い手となったのは商人ではなく地主だった。開国後、地主層は米の日本への輸出で大儲けをした。投資先となる工業が未発達だったので儲けは農地の買収にまわされ大地主が続々と誕生した。

 高敞金氏の成功の基礎を作った金堯莢もそうした地主の一人だった。彼は貧乏儒者の三男坊だったが、地主の鄭氏と結婚したおかげで湖南平野の小地主 となった。米の集散地である茁浦と積出港である郡山港が近かったために米の輸出で財をなし、1924年には朝鮮で3番目に裕福な地主となった。金堯莢には 性洙と秊洙という二人の息子がいたがともに日本に留学させ、性洙は早稲田大学政治経済学部を、秊洙は京都帝国大学経済学部を卒業した。

 金性洙は留学時代の友人で東京高等工業学校(現在の東工大)で紡績技術を学んだ李康賢の勧めで1917年に倒産寸前だった京城繊紐株式会社を買収し、これを母体に翌々年京城紡織株式会社(以下、京紡)を設立した。

 京紡は設備を近代化するために株式を募集したが、土地信仰が根強く最初の200万円の募集のところ1/4しか集まらなかった。株式の募集はその後もおこなわれたがはかばかしくなく、株式が全額払いこまれたのは会社設立の14年後のことだった。

 草創期の京紡を支えたのは総督府の補助金と朝鮮殖産銀行の融資だった。1922年総督府は日本資本で釜山に設立された朝鮮紡織株式会社(以下、朝紡)と同額の補助金を出すことを決めた。補助金は1934年までつづき、総額は1935年の払込資本の1/4を上回っていた。

 銀行融資については朝鮮系の7銀行は弱体で高額長期融資は不可能な状態だった。京紡に救いの手をさしのべたのは1918年に日朝共同経済開発のた めに設立された朝鮮殖産銀行で、ここは和信百貨店の朴興植にも融資している。頭取の有賀光豊について「有賀氏は我々の会社を日本の会社と同じように支援し た」と京紡前会長の金容完が語った言葉が社史に残っている。

 技術についてはピアーズを凌駕していた豊田織機の織機を導入し、八木商店と伊藤忠が技術者を派遣した。新人は伊藤忠系の呉羽紡績で研修した。販売についても東洋綿花(三井物産)、八木商店、伊藤忠商事に依存していた。

 総督府が支援したといっても、京紡を日本の紡績会社のように育てるつもりはなかった。朝鮮人の会社はあくまで廉価品を製造する二流の企業にとどめ るつもりだった。しかし廉価品に特化したことで京紡は満洲市場に乗りだすことができた。満洲では安価な厚手の布地がもとめられたからである。

 1937年に日支事変がはじまると京紡は軍需品でさらに巨額の利益を上げた。1936年と37年の純利益は半期で6万円程度だったが、38年の上 半期には22万円、下半期には60万円と跳ね上がった。純利益は1939年にも増加の一途をたどり、40年下半期には70万円を超えた。1941年上半期 には80万円の大台に乗り、終戦までこのレベルが維持された。

 京紡財閥は日本の軍需産業の一翼をになっていったわけだが、だからといって日本の傀儡というわけではなかった。京紡の株主には日本人もいたが、1945年には全26万株のうち日本人は5.6%を所有しているにすぎなかった。

 エッカートは京紡を中心にした日本統治時代の朝鮮の経済発展の研究を次のように要約している。

 植民地時代の歴史のなかで、朝鮮経済史の研究者の目を最も引くものは、植民地であったにも関わらず工業が著しい発展を遂げたという事実である。そ の次に印象的で、しかもより興味深い事実は、植民地下という状況にありながら、多くの朝鮮人がその工業発展に積極的な役割を果たしたという点である。これ は趙自身がおこなった植民地時代の朝鮮人企業家に関する詳細な研究からも明らかだ(本人の意図とは異なるかもしれないが)。趙はそのような企業は日本帝国 のシステムの外部で、それに対抗して発展した「民族資本」であると主張することで、大きな矛盾に陥るのをかろうじて避けている。だが、そのような議論は問 題を解決するどころか、さらに多くの問題を提起するだけであり、しかもあとで見るように、実際に起こったこととは正反対なのである。

 京紡財閥は「漢江の奇跡」後の経済成長の波には乗れず二流の財閥にとどまったが、大財閥にのしあがっていったサムソン・グループの創業者の李秉 喆、楽喜グループの創業者の具仁會も、現代グループの創業者の鄭周永も地主の息子で、日本統治時代に起業した経済人である。彼らは日本統治時代には中小企 業の経営者にすぎなかったが、本格的な資本主義を体験し学んだ最初の世代だった。

 朝鮮の社会経済史という観点から見れば、彼らのような人物の出現は朝鮮資本家階級が成長したことを意味している。振り返ってみれば、植民地支配下の朝鮮は、こうした人々にとっての養成所であり、試練の場であったのである。

 妥当な見解だろう。

 エッカートは日本の植民地支配を美化するつもりはないと再三書いているが、韓国での反響は彼を当惑させるもので、完全な韓国語訳はいまだに出ていないという。困ったものである。

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2012年9月25日火曜日

asahi shohyo 書評

「熊本方式」で犬猫殺処分減らせ 獣医師、活動を本に

[掲載]2012年09月21日

取り組みに参加するペットショップ。責任を持ち、飼ってもらえるよう客と話し合う=熊本市中央区水前寺5丁目 拡大画像を見る
取り組みに参加するペットショップ。責任を持ち、飼ってもらえるよう客と話し合う=熊本市中央区水前寺5丁目

表紙画像 著者:松田光太郎  出版社:熊日サービス開発 価格:¥ 1,050

 全国どこでもなかなか減らない犬猫の殺処分。そんな中、処分数をゼロに近づける活動で成果をあげ、全国的に注目されているのが「熊本方式」。他の地域とは何が違うのか。9月20日からは動物愛護週間。「殺処分ゼロの理由(わけ)」 (熊日出版)を出版した熊本市動物愛護推進協議会の松田光太郎会長(61)にあらためて取り組みを聞いた。
  「本当に飼えないの?」「誰かに譲れないんですか」。市動物愛護センターに犬を殺処分して欲しいという飼い主に、職員は厳しく問いかける。決して安易に受 け入れない。松田さんは「嫌われてもいい。泣かせるくらい、飼い主に『何をしているんだ』と問うべきなんだ」と強く指導する。
 同協議会は市動物愛護センターと協力し、殺処分を減らす活動をしている。2002年、市が動物愛護団体や市獣医師会、ペット販売業者などに呼びかけて設立。獣医師の松田さんは06年から会長を務めている。
 松田さんは「最初からうまくいっていたわけではない」という。初めての顔合わせ。行政に不満を持つ団体、無理難題ばかりを言ってくると感じている行政側……。気まずい雰囲気が漂った。ただ、「動物が好きな気持ちは同じだった。時間をかけて本音で話せるようになった」。
  本音の会議は白熱する。長い時は4時間に及ぶこともあるが、そこから様々な取り組みが生まれる。センターに預けられた犬を引き取る条件として、避妊・去勢 手術に同意してもらわなければ譲渡しない「引き取り手を選ぶ」仕組み、犬の首輪に連絡先をつけてセンターに持ち込まれる数を減らす「迷子札運動」など。無 責任な考えを持つ飼い主には厳しい言葉をかけて意識の変化を促す。
 協議会メンバーのペットショップ「アリタ」の田中陽子店長は「安易なペットの販売はしない」という。だから店頭には客から要望があった犬しか置かない。流行の人気種を買おうとする客とはとことん話し合う。大型犬で大丈夫か、かわいいだけでおもちゃ扱いにならないか。
 客のニーズによってはセンターの譲渡会を紹介する。3年前、子犬を飼うには将来が心配という愛犬を亡くした老夫婦に「譲渡会には10歳くらいの犬がいる」と伝えた。老夫婦は今も譲渡会で引き取った犬と生活しているという。
 こうした活動は徐々に実を結ぶ。センターに持ち込まれる犬の数は減り、持ち主に返される数は増加。01年度に567匹だった犬の殺処分数は09年度は1匹になった。「立場を越えた協力ができたからこそ、ここまでできた」と松田さんは振り返る。
 これらの活動は熊本方式として評価され、09年度の日本動物大賞を受賞。そうした活動をまとめ出版した。今では毎年、全国の自治体など40〜50団体が視察に訪れるという。
 協議会の現在の大きな問題は猫。センターには対処できないほどの子猫が持ち込まれており、今年5月には初の譲渡会を開いた。まずは避妊・去勢手術と迷子札、室内飼いの徹底を呼びかけている。
 「無理だから放棄、かわいそうだから餌を。安易な行動が生む結果に責任を持てますか」(山本恭介)

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殺処分ゼロの理由(わけ) 熊本方式と呼ばれて

著者:松田光太郎/ 出版社:熊日サービス開発/ 価格:¥1,050/ 発売時期: 2012年03月

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植物からの警告 [著]湯浅浩史

[文]西條博子  [掲載]2012年09月28日

表紙画像 著者:湯浅浩史  出版社:筑摩書房 価格:¥ 840

 海外50以上の国で植物の生態を調査する学者が、植物を通じた環境の変動を、南アフリカやギアナ高地、イースター島など9カ国を例に検証する。
  日本では中国原産のモウソウチクが関東以西の里山を侵食し、日本本来の景観を変えるほどだという。現在、山村の高齢化によって里山の手入れがなされていな いことが原因の一つ。モウソウチクは根が浅いため、雨が降れば斜面が雪崩のような地滑りを起こす場合がある。実際に四国でそのような例があった。モウソウ チクの手入れは、国土保全のために国家的に取り組むべきものだと指摘する。
 マダガスカルではバオバブの若木が育っていない。新しい住民に、生活 に必要な樹皮をまるごとはがされ倒れていく。かつては海だったオーストラリアの西部では地下の塩分が地表付近に溶け出し、ユーカリの林が白く立ち枯れてし まっている。人間が森を切り拓いて、土地の保水力をなくしたからだ。生態系の変化と同時に、そのきっかけが人間の行動であることも伝えている。

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著者:湯浅浩史/ 出版社:筑摩書房/ 価格:¥840/ 発売時期: 2012年07月

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精神論ぬきの電力入門 [著]澤昭裕

[評者]原真人(本社編集委員)  [掲載]2012年09月23日   [ジャンル]社会 

表紙画像 著者:澤昭裕  出版社:新潮社 価格:¥ 735

■実情を解説 あり方を問う

 原発事故のあと、エネルギー政策論議はある意味で自由度を失って いる。「脱原発」の世論が一気に広がり、比較検討されるべき原発再稼働論は討論の場から排除された。だが国民生活の「インフラ中のインフラ」の電気は、ど のような姿を理想とするにせよ、目の前の現実や生活と切り離して考えられはしない。
 本書は政策を熟知する元官僚の著者が、電力の実情をやさしく解説しつつ、そのあり方を問いかける入門書だ。そのために、さまざまな論点について読者に「不都合な真実」やデータもつきつける。
 例えば、電力会社間の競争を促せば料金は下がると言われる「発送電分離」や「電力自由化」。欧米での導入例ではむしろ値上がりした国が多い。まして電気が足りない現状の日本で導入すれば、間違いなく料金は上がるという。
 異論反論がある向きは著者に「精神論ぬき」で論戦を挑んでほしい。「いつでも受けて立つ」という気迫のこもった、内容の濃い新書だ。
    ◇
新潮新書・735円

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著者:澤昭裕/ 出版社:新潮社/ 価格:¥735/ 発売時期: 2012年08月

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プラトン—理想国の現在 [著]納富信留

[評者]鷲田清一(大谷大学教授・哲学)  [掲載]2012年09月23日   [ジャンル]政治 人文 

表紙画像 著者:納富信留  出版社:慶應義塾大学出版会 価格:¥ 2,940

■「正義なす理由」に迫る意義

 「理想」という語は、明治の初頭にプラトンの「イデア」の訳と して造語され、「観念」という訳語とともに爆発的に広まった。「理想」は今日では青臭い夢想か、「理想の家庭」「理想的な体重」といった豊かな社会の個人 的願望の表現としてしか受けとめられないが、この語がたどった歴史をひもとけば、日本近代史の一路はあぶり出せるはずだ。
 納富が本書で問うのは、プラトンの対話篇(へん)の頂とされる『ポリテイア』が『理想国』の表題で抄訳として出版され、続々と解説書が現れ、やがて戦後、それがアカデミズムの議論へと撤退してゆく過程とその意味である。
  のちにマルクス主義哲学者となる古在由重と、戦後A級戦犯容疑者として公職追放されたのち総理大臣となった岸信介とが、ともに国家主義者・鹿子木員信のプ ラトン講義に大きな感銘を受けたと述懐していることは、この国における『ポリテイア』の受容のされ方を象徴する。この書は明治以来、設計主義的な社会改革 理論、つまり社会主義の起源、ユートピア思想の原型、民主主義を超える哲人政治思想などとして、一方で国家主義の、他方で社会主義の系譜で解釈されてき た。プラトン思想に潜む全体主義については、戦後ヨーロッパではポパーらが激しく批判したが、日本ではそうした総括はほとんどなしに、非政治的解釈へと逆 流する。
 背景には、正しい共同体のあり方を説く『ポリテイア』が政治哲学の書か倫理学の書かという論争がある。納富はこの二者択一を排し、議論 の骨格はポリスと魂の類比にあり、そこから「正義はなぜなされねばならないか」という問いに執拗(しつよう)に迫る点に、現代正義論を超えるこの書の意義 があるとする。そしてこの問題を解かずして、倫理を外しても利益や快を追求する現代人の「貪欲(どんよく)さ」と市民としての「正しい生き方」との溝は埋 まらない、と。
    ◇
慶応義塾大学出版会・2940円/のうとみ・のぶる 65年生まれ。慶応大学教授。専門は西洋古代哲学。

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プラトン 理想国の現在

著者:納富信留/ 出版社:慶應義塾大学出版会/ 価格:¥2,940/ 発売時期: 2012年07月

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2012年9月21日金曜日

asahi shohyo 書評

ヤノマミ[著]国分拓

[評者]最相葉月(ノンフィクションライター)

[掲載] 2012年09月21日

表紙画像 著者:国分拓  出版社:NHK出版 価格:¥ 1,785

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■森で産まれ、森を食べ、森に食べられる暮らし

 不穏な報に接した。8月末、ブラジルとの国境 に近いベネズエラの密林地帯に住む先住民、ヤノマミ族が違法金採掘業者に大量虐殺されたというのである。狩猟用の弓矢とナイフ以外になんの武器ももたない 彼らの村が上空のヘリコプターから家屋もろとも焼き払われ、狩りに出ていた3人を除く80人が殺されたのだという。
 ヤノマミの集落は、両国の国 境に沿って広がる奥アマゾンのヤノマミ族保護区に200以上点在し、総人口はおよそ2.5万から3万人といわれている。豊かな森林や鉱物資源に恵まれてい るため、過去にも森林伐採業者や金採掘業者によって土地を追われたり殺されたりする事件はたびたび起きていた。だが、これほどの規模の殺戮(さつりく)が 報じられたのは今世紀に入って初めてではないか。
 ベネズエラ政府が証拠は見つからなかったとして虐殺を否定する一方、こんな短期間で調査できる はずがないと疑問を呈する報道もある。何がどうなっているのかと気にかけていたところ、なんと、そもそもこの情報を世界に向けて発信した英国のNGOが独 自に調査を行った結果、第一報を撤回した。ただし、「別の村だった可能性は残されている」と示唆しつつ。
 いったい何が起きているのか--。自分の中にもあるモンゴロイドの原初的なDNAが傷つけられたような気がして、書棚にあったヤノマミの写真集やルポルタージュを取り出して読み直した。2011年に大宅賞を受賞した、国分拓著「ヤノマミ」もその中の一冊だ。
  本書は、世界で初めて150日間に及ぶヤノマミとの同居生活に成功して制作されたNHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」(09年) のディレクターが、番組では伝えきれなかったエピソードを織り交ぜながら綴(つづ)った取材記録である。番組も十分に刺激的だったが、まったく未知の原始 的な世界に文明の側にいる取材者が踏みこんでいく内面の軌跡を赤裸に吐露した本書は、番組以上に揺さぶられる内容だった。
 07年11月、取材班 が軽飛行機で降り立ったのは、ブラジル北部の密林地帯にあるワトリキという人口167人の村だった。ワトリキとは、ヤノマミの言葉で風の地を意味する。 シャボノと呼ばれる円形の家屋に間借りすることを許された著者らは、微風や旋風、突風など、様々な風を肌に感じながら、これまで報じられたことのないヤノ マミのありのままの生活に密着した。
 ただ、その取材ぶりはちょっぴり情けない。天井から落ちてきた虫に驚愕(きょうがく)の声をあげ、ヤノマミ たちに「アハフー、アハフー」と笑われる。森を歩けば蚊やアブやダニに襲われ、夜、用を足そうと外に出ると目の前を横断するムカデの巨大さに驚いてまたぐ ことさえできない。ヤノマミには、人間という意味があり、よそから来た者をナプ(ヤノマミ以外の人間、あるいは人間以下の者の意)と呼んで蔑(さげす)む 風習がある。著者らもナプと呼ばれ、「お前たちは敵なのか、災いを持ってきたのか」と凄(すご)まれるたび、恐怖に身を縮めた。
 彼らと同じもの を食べる現地食主義に徹すると決めたものの、バナナとタロ芋ではすぐに空腹になり、カロリーメイトやカップラーメンを隠れて食べてしまう。慢性的な栄養不 良で体はふらふら。男たちの狩りに同行するものの、歩くスピードについていけず置いてけぼりになる。そのたびに、「ワイハ!(待ってくれ)」「ワッシム (疲れて歩けない)」と叫ぶものだから、菅井カメラマンが「スガイ・ワッシム」と呼ばれるようになったという件(くだり)には思わず爆笑してしまった。
 いや、失礼。つまり、都会暮らしに慣れたひ弱な日本人の感覚そのままに取材しているからこそ、著者らの驚きや戸惑いや恐怖心を通して、ヤノマミの暮らしぶりや彼らの精神生活のありようが生き生きと伝わってくるのである。
  奔放に見えるヤノマミの暮らしにも、ルールや掟(おきて)はある。性にはおおらかだが、結婚は近親間を避けるためにいとこ同士までしか認められない。人が 死ぬと遺品を燃やして名前もすべて忘れ、死者の話は一切しない。獲物は解体して公平に分配するが、腹を裂いて胎児がいたら、食べずにそのまま土に還(か え)す。
 〈ヤノマミの世界では、人も動物も、人間も精霊も、生も死も、全てが一つの大きな空間の中で一体となっているのだ。優劣とか善悪とか主従ではなく、ただ在るものとして繫(つな)がっているのだ〉。
 そんな感慨に至るのも、森の深い闇を幾夜も経験し、彼らの笑い声や災いを取り除くため精霊と交信するシャーマンの祈りに耳を澄ましたからこそだろう。
  カメラがどこまで踏み込むかについては、葛藤の連続である。ワトリキでは年に一度、死者を掘り起こし、その骨をバナナと煮込んで食べる祭りがある。これは どうしてもフィルムに収めたい。何度も交渉を試みるが、最終的には命の保証はできないといわれて恐れをなし、撮影を断念してしまう。
 一方、同居 100日を経て撮影に成功したのが、わずか14歳の少女が出産したばかりの嬰児(えいじ)を自らの手で殺(あや)める場面である。撮影までの経緯に目を瞠 (みは)った。家系図をつくろうと血縁関係を調べていくうちに、ヤノマミは避妊の知識をもたないのに、ワトリキには年子のきょうだいや身体障害者がいない のはなぜかと疑問を抱くようになる。なんらかの産児調整が行われていることは過去の文献からも明らかだったが、これをなんとかカメラに収めることができな いものか。妊娠した女性がいるたび声をかけて出産の機会をうかがった結果、ある夜突然、女たちに「こっちへ来い」と呼ばれて撮影を許されたのである。
 テレビでは子どもに手をかける瞬間は編集されていたと記憶するが、本書のほうは容赦ない。著者とカメラマンの正気を失う寸前のような精神の昂(たか)ぶりを背景に描かれる子殺しの場面は、読んでいるこちらも窒息しそうなほど心が搔(か)き乱された。
  ただし、子殺し、というのはあくまでも部外者の認識だ。ヤノマミにとって、生まれたばかりの子どもは精霊であり、母親に抱き上げられて初めて人間になる。 人間として迎え入れるか否かは母親が判断する。迎え入れないならば自らの手で殺め、亡骸(なきがら)をバナナの皮で包んで白蟻(しろあり)の巣に納める。 白蟻が全てを食べ尽くしたあと、巣とともに燃やし、精霊のまま天に返すのである。
 〈森で産まれ、森を食べ、森に食べられる〉。「森の摂理」としかいいようのない彼らの真理を前にして、部外者が自分たちの倫理観や死生観を持ち込むことがどれほど傲慢(ごうまん)であるかと思い知らされる。
  もしかすると、たとえ夫であっても立ち入ることの許されない女だけの秘儀の撮影を許されたのは、狩りもできない「ナプ」と侮蔑された著者らが、彼女たちに は男とみなされなかったからなのかもしれない。著者らには気の毒な話かもしれないが、これを生涯に一度あるかないかのシャッターチャンスと捉えてカメラを 回し続けたカメラマンと、心身のバランスを崩しかけながらもすべての場面に寄り添い続けた著者の執念に、凄(すさ)まじいジャーナリスト魂を見た。「暴力 性と無垢(むく)さ」を併せもつ人間のわからなさをわからないまま提示するドキュメンタリーの力を改めて認識する思いだった。
 だからこそ、ヤノ マミ社会を支える一方で破壊もする「文明」とは何かと問わずにはいられない。本書では、先住民の保護にあたる政府機関が設置した保健所の職員が、てんかん のために森に捨てられた子どもを育てていることが紹介されている。子どもたちへの予防接種や医薬品の提供も進んでいるという。こうした現代医療によって子 どもの死亡率が減る一方、精霊のまま天に返される嬰児が増えたという皮肉な現象をどう受け止めればいいのだろうか。ヤノマミの文脈にはなかった医療の介入 は、やがて精霊による治療を破壊してしまうのかもしれない。
 それ以上に気がかりなのは、ヤノマミ自身の変容である。自らの意志で村を出てポルトガル語を学び、文明の品々と共に村に私有やプライバシーの概念を持ち込む。後半に描かれた、ブラジル社会を知る若者と長老の対立などは、先住民社会で起きていることの氷山の一角だろう。
  だからといって、多様性の保全を大義名分に掲げ、彼らを文明の枠外に留(とど)めることが果たして彼らの望むところなのか。これまで宣教師やNGOの職員 たちがどれほど説得しても暮らしを変えようとしなかったヤノマミが、自らの力で内側から変わっていく。未開と文明はもはや対立するものではなく、相対した 瞬間からその境界を互いの温度差によってじわじわと溶かしながらいつのまにか融合しているものなのかもしれない。
 著者らはたしかに、「何かが崩壊しようとしている寸前の、小さな裂け目」を記録したのである。
 ブラジルではこのところ保護区の撤廃論議が盛んで、最大の理由はやはり資源にあるという。冒頭のような真偽不明の事件が世界に向けて発信されるのも、ヤノマミをめぐるさまざまな駆け引きが今も水面下で展開されているからなのだろう。
  「あとがき」には、自分たちができるのは、ヤノマミたちが望む生き方を全うできるよう、友人として手を差し伸べることだと記されている。彼らが望むのであ れば、保護区存続運動の力になりたい、ともある。友人、とはヤノマミの言葉ではなんというのだろう。こんなありふれた日本語が、遠く離れた人と人のかけが えのない物語を照らし、結ぶ、やさしい言葉だとは思いもしなかった。
         ☆
 余談になるが、私がヤノマミの存在を初めて 知ったのは、1990年代の半ば頃だ。ブラジルからヤノマミの村に入って取材をした写真家・長倉洋海さんの『人間が好き アマゾン先住民からの伝言』に収 録された子どもたちの笑顔に魅了され、当時編集に携わっていた中学生向け新聞に写真をお借りすべく長倉さんにお目にかかって話を聞いた。
 ヤノマ ミに接することができる外部の人間は限られ、ごく少数の宣教師や非政府組織の職員であること。シャーマンがいて毎日のように精霊と交信して病や災いを取り 除こうと祈りを捧げていること。数万人もの金採掘業者が村に押し入ってマラリアなどの伝染病が蔓延(まんえん)した時期があったこと。おみやげにはパンツ が喜ばれるので量販店でまとめ買いして持っていくこと、等々、どれも鮮烈なエピソードばかりだった。同じモンゴロイドとして親近感を抱いたのはこのときで ある。
 医師で探検家の関野吉晴さんが、ベネズエラ側のヤノマミの村を再訪したのも同じ頃だったろうか。アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸 を経てベーリング海峡を渡り、南米最南端まで広がった行程を人力だけで遡行(そこう)する旅『グレートジャーニー』の途上である。彼らと同じものを食べる 暮らしを送った関野さんは「ヨシ」と親しく呼ばれるようになるが、いつしか、地球の裏側の悪霊の世界から来たと信じられてしまう。彼らが自分をどう扱うの か、最後の最後まで気が気でなかったという話にドキドキしたことが思い出される。
 これらはまだ電子化されていないが、90年代のヤノマミの暮らしを知るには格好の参考資料である。ぜひ読んでみてほしい。  

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