2011年5月31日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年04月29日

『声と文字』 大黒俊二 (岩波書店)

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 カロリング・ルネサンスのはじまった8世紀末からグーテンベルク前夜の15世紀前半まで、700年余の口語と文章語の関係を跡づけた本である。本 書は岩波書店から出ている「ヨーロッパの中世」シリーズの一冊で、著者の大黒氏は中世イタリアを中心に商業史を研究している人だそうである。

 これまで口語と文章語の関係というと11世紀に焦点をあわせた研究が多かった。11世紀以降文書の量が急増したことは諸王の文書発給数や書記局の 蠟の消費量の推移などの統計でも裏づけられている。文書が増えるにしたがい書体も変化した。一文字一文字わけて書く丸っこいカロリング小文字体に代わって 速書きのできるゴツゴツしたゴシック体が一般化した。11世紀は声中心社会から文字中心社会への変わり目にあたり「大分水嶺」とも呼ばれてきた。

 ところが本書は300年早いカロリング・ルネサンスを出発点に選んでいる。なぜ8世紀末なのか? 文章語に一大変革が起こり、口語との乖離が決定的となったのがこの時代だからである。

 ローマ帝国滅亡後、帝国の北辺では蛮族の話すゲルマン語が主流となったが、ガリア(フランス)より南では依然としてラテン語が話されていた。時代 がくだるにつれラテン語は崩れイタリア語、フランス語、スペイン語等々にわかれていくが、聖職者が説教や典礼で用いるラテン語は民衆もある時点までは理解 することができた。

 ラテン語がいつ民衆の理解できない言葉になったのかについては諸説があったが、現在では8世紀後半の数十年という短い期間に決定的な変化があったという見方が定説になっている。その直接の契機となったのがカロリング・ルネサンスである。

 民衆の日常語が変化していくと聖職者の話すラテン語も影響を受け、文章語としてのラテン語も徐々に変化していった。それはラテン語が崩れるということでもある。

 西ヨーロッパを統一しキリスト教の権威で統治していこうとしたシャルルマーニュは正しい教えを守るためにラテン語改革に乗りだした。聖職者のラテン語が乱れ地方地方で異なるようになったら何が正しい教えかわからなくなるからだ。

 シャルルマーニュはアーヘンの宮廷に学者を集めて正しいラテン語を定めるとともに、各修道院・各教区に学校を設立させ教育に力をいれた。聖書や典礼書の写し間違いは異端を産みかねないので学者にテキストを校訂させ、正確な写本を生産する体制を整えた。

 ラテン語の記法も一変した。各地で自然発生的に生まれていた小文字体を読みやすく洗練されたカロリング小文字体に統一し、見出しはローマ方形大文 字体、本文はカロリング小文字体という使いわけを創始し、単語の分かち書きを広めた。大文字だけで切れ目なく書かれていたラテン語は格段に読みやすくなっ た。

 その一方、ラテン語の純化は民衆語との断絶を決定的にした。民衆語はラテン語とつながりを失って独自の発展を加速し、イタリア語やフランス語、スペイン語等々に分化していった。

 本書の後半は大分水嶺以降を描くが、著者が注目するのは俗語の読み書き能力である。今日の感覚ではわかりにくいが、当時「文字を知る」とはラテン 語が書けることを意味した。大量の手稿を残したレオナルド・ダヴィンチが終生「文字を知らない」と自認していたことからわかるように、俗語の読み書き能力 はリテラシーには含まれていなかった。「文字を知らない」人の読み書き能力には幅があって、ラテン語の読みだけができる人や俗語の読み書きができる人、俗 語の読みだけができる灯とまでをも含んでいたのだ。著者はこうした読み書き能力を「実用的リテラシー」と呼んで狭義の(ラテン語の)リテラシーと区別して いる。

 中世後期の俗語のリテラシーとなると山本義隆氏の名著『一六世紀文化革命』と重なってくるが、著者は山本氏の本を意識して話題を取捨選択している ような印象を受ける。これはわたしの勘ぐりすぎなのかもしれないが、山本氏がとりあげている科学書などの話題は等閑視する代わりに、山本氏があまりふれな い商業革命や説経師の俗語の説教については多くのページをさいているようなのだ。

 意図したことなのかどうかはわからないけれども、本書は山本氏の『一六世紀文化革命』と補完しあう関係にあるようだ。同書とあわせ読むことによって中世の文章語の世界がより立体的に見えてくるだろう。

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kinokuniya shohyo 書評

2011年05月29日

『ミモロジック—言語的模倣論またはクラテュロスのもとへの旅』 ジェラール・ジュネット (書肆風の薔薇)

ミモロジック →bookwebで購入

 井上ひさしの『私家版 日本語文法』 に「n音の問題」というおもしろい説が出てくる。英語のNo、not、フランス語のNon、ne、ドイツ語のNein、nichit、日本語の「ぬ」、 「ない」のように否定や拒絶の表現はなぜか n音が担うことが多いが、これは nという子音が舌を歯の裏に持ちあげて外界を遮断することで発せられる音だからなのだという。外界を拒絶する気持ちが n音に否定の意味合いをもたせたというわけだ。

 一瞬そうかなと思ってしまうが、引いて考えればインド・ヨーロッパ語族の一部の語派と日本語がたまたま n音で否定をあらわしているというだけのことであって、そうでない言語の方が多い。ドイツ語の Nameと日本語の「名前」の類似のように偶然の一致と考えるべきだろう。

 現代の言語学は音と意味の間につながりはないとする恣意性の原理を大前提にしており、「n音の問題」のような心理的語源論はすべて錯覚ということになる。

 しかしそうはいっても宮澤賢治の『無声慟哭』を n音を手がかりに読みとく井上の論旨は妙に説得力ありげに感じられる。われわれは音と意味の間には必然的なつながりがあると夢想する性向をもっているのだろうか。

 ジェラール・ジュネットは言葉は物のありようを反映するように形成されたとする立場を言語的模倣主義(ミモロジスム)と名づけ、本書において夢想の言語学というべきミモロジスム2500年間の歴史を跡づけている。

 ミモロジスムの嚆矢はプラトンの『クラテュロス』だが、同時に反ミモロジスムの発端でもある。というのもこの対話篇でソクラテスは物の名は物の本 性を反映した物だとするクラテュロスと対話するだけでなく、物の名は本性とは無関係に慣習によって決まるとするヘルモゲネスとも対話しているからだ。

 現実が一つである以上、物の本性を完璧に反映した言語はただ一つしかないが、ヘルモゲネスは複数の言語があるという相対主義によって唯一真性の言語という主張に反対する。

 プラトンはソクラテスにヘルモゲネスとクラテュロスの双方をやりこめさせ、どちらが正しいとも決めずに対話篇を終えている。プラトンはヘルモゲネ スとクラテュロスどちらの立場をよしとしたのか古来論議になっており、現代の註釈者はクラテュロスの背後にヘラクレイトスを見ているということだが、ジュ ネットはソクラテスがクラテュロスに反対しているのはすべての物が正しい名をもっているとする点であって、物は本性を反映した正しい名で名づけられるべき だとするクラテュロスの価値観自体は否定していないことに注目する。現実の言語が物の本性を十分反映していないなら、より反映するように言語を変えようと いう立場がありうるだろう。物と言語の間にズレがあるのはミモロジスムが間違っているのではなく、現実の言語の方に欠陥があるからだというわけだ。ジュ ネットはそのような立場を第二次ミモロジスムと名づける。『クラテュロス』はミモロジスムと反ミモロジスムのみならず、第二次ミモロジスムを先取りしてい る点でミモロジスムの歴史の発端に位置するテキストなのである。

 ミモロジスムの夢想というか妄想は単語のレベル、音素のレベル、文字表記のレベルで展開され、あきれるような話が次々と出てくるが、一番驚いたのは語順のレベルのミモロジスムで、これは新旧論争に係わっていた。

 古代崇拝のルネサンスが終わり本格的に近代がはじまると、近代人は古代人に匹敵するのではないか、いや近代人の方がすぐれているのではないかとい う主張が生まれ、古代人の方がすぐれているとする古代派との間に論争が起こった。言語においてはフランス語とラテン語の優劣論争が起り、その過程でフラン ス語はもっとも明晰な言語だというフランス語至上主義が確立していったが、争点となったのは語順だったのである。

 ラテン語は語尾の屈折によって文法的地位をあらわすので語順は自由だが、フランス語は動詞以外の屈折をほとんど失い、「主語-動詞-目的語」のように語順で文法的地位をあらわすので語順が固定されている。

 近代派の論者はフランス語の語順こそが思考の自然を反映したものだと主張する。語順的ミモロジスムである。ラテン語の学習では漢文の読み下しのよ うにラテン語の文をフランス語の語順に並べかえることもおこなわれていて、これを「構成する」と称した。そしてローマ人もフランス人と同じ語順で思考して いたと決めつけ、「フランス人は自分たちが思考するとおりに話すが、ローマ人は思考するのとは別様に話す」とか「キケロ、そしてあらゆるローマ人はラテン 語で話す前にフランス語で思考していた」などと称していた。ベイカーの『言語のレシピ』によれば「主語-動詞-目的語」型の言語は全世界の6000の言語のうち2500ほどしかなく、普遍的でもなんでもない。フランス語の明晰性とはこういう妄想が根拠だったのである。

 インド・ヨーロッパ語族が発見され比較言語学が確立するとただ一つの完全な言語というミモロジスムの大前提が説得力を失い、学問の場面からはミモ ロジスムは姿を消す。代わりに台頭してきたのが民族精神である。言葉は現実を模倣しているかどうかではなく、民族精神を反映しているかどうかが問われるよ うになったのだ。

 一方、文学の世界ではミモロジスムは生き残り、詩学の源泉でありつづける。たとえばマラルメだが、ただしそこには罠がある。

 英語教師として生計をたてていたマラルメは『英語の単語』という学習参考書を上梓したが、同書には参考書らしからぬ以下のようなミモロジスム的夢想が展開されていた。

  • bは大きさないし丸さを意味する。
  • pは積み重ね、停滞、ときには激しく明確な行為をあらわす。
  • fは強くしっかりとした締めつけをあらわす。flは飛翔を、またそこから修辞的な転位によって光、流れをあらわす。frは戦いないし遠ざかることをあらわす。
  • gは欲望をあらわす。glは満たされた欲望を、またそこから喜び、光、滑らかさ、増大をあらわす。grは欲望された対象の獲得、押しつぶすことをあらわす。

 こんな参考書が役に立つとは思えないが、クリステヴァは『詩的言語の革命』第二部で『英語の単語』を参照しながら「デ・ゼッサントのための散文」の音素レベルでの解読をおこなった。

 ジュネットはクリステヴァとは名指さないものの、「マラルメの詩編に『英語の単語』で述べられた象徴的な諸価値を当てはめようとすることほど、彼の「無意識下の」詩学に反することはない」と斥けている。ジュネットが注目するのはむしろ「詩の危機」の以下の条だ。

 矛盾したことに、jour(昼)に暗い響きが、nuit(夜)に明るい響きが当てられているという倒錯には、まったく失意を禁じ得ない。輝きをあ らわす言葉にはきらめいたものであって欲しいし、逆の場合にはくすんだものであって欲しい。少なくとも明暗の単純な交替に関してはそう願いたい。ただしも しそのとおりになったならば、詩句は存在しなくなるであろうということを認識しておく必要がある。詩句は言語の欠陥を哲学的に補う高次の補完なのだ。

 マラルメは単語のレベルではミモロジスムが成りたたないが、詩句のレベルでは実現可能だとしている。これはまさしく最初にふれた第二次ミモロジスムである。暗いひびきのjourという語を詩句の中で明るく輝かせることがマラルメの詩作なのだ。

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kinokuniya shohyo 書評

2011年05月30日

『可視化された帝国−近代日本の行幸啓』原 武史(みすず書房)

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「「想像の共同体」ではなく「可視化された帝国」」

「目からウロコが落ちる」という言葉があるが、私にとって、本書を読んだ時の感想もそれに近いものがあった。
 本書の骨子は、ベネディクト・アンダーソン流の「想像の共同体」論を、近代日本の実情に照らし合わせながら、批判していくところにある。 アンダーソンの『想像の共同体』は、近代史や歴史的な文化研究を志す者にとって、いわばバイブルの一つだが、その内容とは、国民国家の成立にメディアが果たした役割を指摘したものといえるだろう。

 すなわち、それまで時空間的に独立していた国内の各地方が、新聞や書籍といった出版メディアが登場したことで、共通の言語を用いて、あたかも一つ の問題関心を共有するような感覚を覚えるようになり、それが国民国家としての統一につながっていった、というものである。日本においても、明治期の近代国 家の成立過程を批判的にとらえる立場から、よく引用されてきた文献である。

 しかしながら、著者の原武史に言わせれば、明治期における近代国家の成立に、「想像の共同体」論を直輸入するのは、あまりにも当てはまりが悪いと いう。というのも、アンダーソンの議論は、メディアの中でも特に出版メディア(聖書や新聞など)に着目して、それによる「想像の共同体」の成立が国民国家 の制度化に先行していたとするものだが、日本社会においては、それに相当するメディアは存在しなかったのではないかという。

 たしかに近代日本において、新聞の発行部数が急伸していくのは、はやくても1877(明治10)年の西南戦争、もしくはその後の日清・日露戦争時の戦勝報道を欲してのこと、といわれており、やや時代的には後のことのように思える。

 では、何が日本の近代国家の成立に貢献したメディアであったのか。この点について原は、西南戦争時に兵員の輸送手段として注目され、日清・日露戦争時にはさらにその路線網を伸ばしつつあった鉄道に注目をする。

 近年では、メディアといえば、情報を伝達する手段と捉えられることが多いため、鉄道がメディアというのはやや違和感を覚えるかもしれない。だが、 かつては、新聞輸送列車や郵便車というものが存在していたように、鉄道も情報を伝達する手段のひとつであったし、そもそも「人々を結びつける技術的な手 段」という点においては、鉄道もメディアの一つである(余談だが、メディア論の古典ともいえる、マクルーハン『メディア論』の冒頭にも、鉄道がメディアで あるという説明が登場する)。

 その上で原は、鉄道を用いた天皇の行幸啓が、明治期の国民国家成立に果たした役割を分析している。いわばそれは、出版メディアの受容が「想像の共 同体」の存在を人々に知覚させたというよりも、むしろ天皇の「お召し列車」が通過する際に、「地元の人々が動員されてきれいに整列し、決められた時間どお りに走る列車に向かって、いっせいに敬礼する」(P68)ようなふるまいが拡がっていくとともに、「帝国」が「可視化」されながら成立していったのではな いかという指摘である。
 
 明治期の日本においては、後発的な近代化を急速に成し遂げる必要があったという点からすれば、「想像の共同体」に先行して「可視化された帝国」の成立が急速に進められていたという主張の方が理にかなっているといえるだろう。


 本書では、さらに大正期、昭和期の行幸啓にまで焦点が当てられており、「常識」に従えば天皇制論、あるいは政治学の文献として読むべき著作なのだろう が、私は「鉄道文化論」として興味深く読んだ。著者の原武史氏も本業は政治学者だが、近年では、「鉄道に詳しい大学の先生」ということで有名だろう。

 あるいは、政治学者と鉄道ファンであることが、別々のこととして語らなければならないような今日の社会の方が、どこか間違っているのであって、実 はそれほどに、この社会と鉄道との関係が根深い(にもかかわらず、そのことが驚くほど知られていない)ということを教えてくれる一冊でもある。


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2011年5月27日金曜日

asahi culture science astronomy 45billion years Itokawa

小惑星イトカワ45億年前に誕生か はやぶさ微粒子分析

2011年5月26日21時50分

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写真:イオンビームで切断された小惑星イトカワの微粒子。真ん中の「板」の断面を観察して内部構造を調べる=岡山大/宇宙機構提供拡大イオンビームで切断された小惑星イトカワの微粒子。真ん中の「板」の断面を観察して内部構造を調べる=岡山大/宇宙機構提供

 小惑星探査機「はやぶさ」が地球に持ち帰った微粒子の分析結果から、小惑星イトカワは約45億年前にうまれたことがわかった。北海道大学などが26日、千葉県で開催中の日本地球惑星科学連合大会で報告した。

 北海道大学など複数の研究チームは、含まれる元素の組成や、X線CTを使って解析した3次元構造、風化の痕跡などについて分析。微粒子が確かにイトカワ起源で、同じタイプの隕石(いんせき)ができた年代から、うまれた時期を絞り込んだ。

 岡山大学・地球物質科学研究センターのチームは、イオンビームで微粒子の1粒を約10マイクロメートルの厚さに輪切りにする様子を写した画像を公表し た。中村栄三教授(地球化学)は「粒子の中に極めて高い温度を経験した鉱物学的記録が残っていた。700〜900度まで上がっていた」と述べた。(松尾一 郎)







kinokuniya shohyo 書評

2011年05月26日

『考える力が身につく社会学入門』浅野智彦編(中経出版)

考える力が身につく社会学入門 →bookwebで購入

「パワーアップした社会学入門テキスト」

今回は、以前の当ブログ(2005年11月 )で取り上げた『図解 社会学のことが面白いほどわかる本』のリニューアル版とでも呼ぶべき本をご紹介します。

前作『図解〜』について、「あまり根気のない人でもとりあえず読みきれる程度の、日本語で分かりやすく書かれたテキストがほしい」という(虫のよい)ニー ズに応えうる数少ないテキストのひとつとしてご紹介しましたが、今回のこの本は、同じ執筆陣(加藤篤志、苫米地伸、岩田考、菊池裕生)によって書かれてお り、前作の良さをそのままに温存しつつ、更にパワーアップしているように見えます。

どの点がパワーアップしていると見えるのか、3点挙げておきたいと思います。

まず、取り上げられる時事的なトピックや事例が一部刷新されています。心理主義化、婚活、ベーシック・インカム、江原啓之、など前作では登場しな かったものが出てきています。やはり何といっても、初学者に対しては、最近目につく話題や言葉について社会学がどう語れるのか、「基本的な視点を教えたか ら、あとは自分で考えて」というよりも、具体的な記述を通してアプローチの仕方を示した方がよいように思います。

次に、構成がシンプルになったこと。前作の後半に位置していた、ルールと権力、「政治的無関心」(以上『図解〜』第6章)、グローバリゼーション、 ナショナリズム(以上『図解〜』第7章)、社会学史(『図解〜』エピローグ)の部分がカットされ、5つの章にすっきりとまとめられています(「勝ち組/負 け組」および社会保障については第4章に吸収される形になっています)。どのような議論を経て構成が変更されたのかわからないのですが、私が一読して抱い た印象は、先に述べた「あまり根気のない人(読者)」が退屈してしまいそうな部分をさらに省いた、という印象でした。こんなことを言うと、カットされたト ピックを専門とする研究者の方々に怒られてしまいそうなのですが(もちろん、そのトピック自体が退屈だというのではありません)、思い切って内容を絞るこ とで、全体として約1割の分量を減らし、なおかつ(少なくとも私が顔をあわせているような)学生がいかにも関心をもちそうなトピックや事例に余裕をもって ふれることができるようになったのではないでしょうか。

そしてこのようにして生まれた若干の紙幅の余裕が効いているのでしょうか、単に新しいトピックや事例が登場するというだけでなく、論述そのものが差 し替えられて、より踏み込んでいる部分があります。たとえば、自殺を取り上げている部分(第5章)では、前作では、自殺の原因もしくは社会的背景に関する 推論の域にとどまる内容であったのに対して、今回の内容は、男性の自殺率の高さに着目して解釈を試みたり(もちろんこれはあくまでも着眼点のひとつなので しょうが)、精神疾患(うつ病)との関連を指摘したうえで、社会的なサポートのあり方というテーマ圏にまで目配りするなど、いっそう充実した感がありま す。

このようなわけで、今年度の入門授業(学部1年生対象)でも、社会学をまったく知らない人にも勧められる一番手の一冊として推薦しました。やはり、魅力は健在、といったところでしょうか。


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2011年5月26日木曜日

asahi local art culture tanko Chikuho tankou kiokuisan

筑豊の炭鉱画、国内初の「記憶遺産」に 山本作兵衛作

2011年5月25日23時45分

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写真:山本作兵衛の絵「寝掘り」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供拡大山本作兵衛の絵「寝掘り」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供

写真:山本作兵衛の絵「坐り掘り」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供拡大山本作兵衛の絵「坐り掘り」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供

写真:山本作兵衛の絵「ボタ山とボタ函 スキップ」=田川市石炭・歴史博物館拡大山本作兵衛の絵「ボタ山とボタ函 スキップ」=田川市石炭・歴史博物館

写真:山本作兵衛の「函なぐれ」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供拡大山本作兵衛の「函なぐれ」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供

写真:山本作兵衛の絵「立ち掘り」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供拡大山本作兵衛の絵「立ち掘り」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供

写真:山本作兵衛=橋本正勝さん提供拡大山本作兵衛=橋本正勝さん提供

写真:山本作兵衛の絵「石けり ケンケン輪とり」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供拡大山本作兵衛の絵「石けり ケンケン輪とり」=福岡県田川市石炭・歴史博物館提供

 世界の人々の営みを記録した歴史的文書などの保存と振興をめざすユネスコの「世界記憶遺産」に25日、福岡県田川市などが所有・保管する炭鉱記録画家、 山本作兵衛(1892〜1984)の絵画や日記などが登録された。同日、英マンチェスターで開かれた国際諮問委員会を経て、ユネスコ事務局長が承認した。 記憶遺産への登録は国内では初めて。

 記憶遺産は1992年に始まった事業。これまでに、フランスの手書き版「人権宣言」やアンネの日記など76カ国193件が登録されている。

 山本作兵衛は現在の福岡県飯塚市生まれ。7歳ごろから父について炭鉱で働き始め、採炭夫や鍛冶工として、筑豊地域の中小の炭鉱で働いた。63歳で炭鉱の 警備員として働き始めたころ、孫らに当時の生活を伝えようと炭鉱の絵を描き始めるようになった。92歳で亡くなるまで描いた絵は2千枚近いと言われる。

 申請していたのは、田川市が所有・保管する絵画585点、日記6点、雑記帳や原稿など36点と、山本家が所有し福岡県立大(田川市)が保管する絵画4点、日記59点、原稿など7点で、計697点。