2010年8月18日水曜日

asahi book

カバー文学を読め

2010年8月18日

■王様芥川 めちゃうま太宰

 鼎談(ていだん)にも参加した湯川潮音さんの最新作「Sweet Children O'Mine」はカバーアルバムの傑作 だ。オアシスやガンズ・アンド・ローゼズなどの、セックスでドラッグでロックンロールな暑苦しい曲を見事に換骨奪胎。フォークの森に住んでいる妖精ミュー ジックに昇華した。カバーするならこれぐらいしなきゃね、の好例だ。

 ポピュラー音楽の歴史は、カバーの歴史でもある。オリジナルをリスペクトしつつ大胆に変奏。かえって曲の奥深くにある本質が浮き上がる。それは、実は小説でも同じなのだ。「カバー文学」と呼ぶ(いま、名付けた)。

 日本のカバー文学の王様は、なんといっても芥川龍之介。「羅生門」や「鼻」「芋粥(いもがゆ)」など、平安朝の今昔物語からアイデアを得たものが多数ある。「芋粥」にはロシアの文豪ゴーゴリの影響もあるはずで、さすがの大読書人。

 太宰治は、実はカバーもめちゃくちゃうまい。「カチカチ山」「浦島さん」でのブラックな再解釈や、シェークスピアに挑んだ「新ハムレット」、「わたくしのさいかく、とでも振仮名(ふりがな)を附(つ)けたい気持ち」で書いた西鶴のカバー「新釈諸国噺(ばなし)」など。

■愛あふれる深読みゆえ

 中でもカバー文学の極北が「女の決闘」だ(いま、決めた)。

 元々は19世紀ドイツの小説家オイレンベルクが著した小品で、森鴎外が訳した。その訳本をカバーしたもので、分量が数倍に増え ている。出番のなかった牧師に最後、決めぜりふを言わせるなど、太宰ならではの技のデパート。原作者の「さして高いものでもない文名」をわずかにとどめて いるのが、鴎外、太宰の愛あふれる深読みのおかげなのだから、カバーのだいご味、ここに極まれり。

 その鴎外、芥川、太宰、そしてやはり中国古典文学のカバーの名手、中島敦(「山月記」「李陵」)を、現代の京都によみがえらせたのが森見登美彦の『【新釈】走れメロス 他四編』だ。

 洋モノではジョイス『ユリシーズ』がいい。ホメロス『オデュッセイア』を物語の枠組みとして借用し、もはやカバーを超えた域。 主人公はギリシャの英雄どころか、ダブリンの寝取られ亭主。革命さえ「分割払い方式でやってくれ」という反暴力平和主義のダメ男くん。だけど、友達になる なら、英雄より絶対こっちでしょうよ。

 作品は、すべて文庫で読める。(近藤康太郎)

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羅生門・鼻・芋粥・偸盗 (岩波文庫)

著者:芥川 竜之介

出版社:岩波書店   価格:¥ 399

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お伽草紙 (新潮文庫)

著者:太宰 治

出版社:新潮社   価格:¥ 540

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新ハムレット (新潮文庫)

著者:太宰 治

出版社:新潮社   価格:¥ 540

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お伽草紙・新釈諸国噺 (岩波文庫)

著者:太宰 治

出版社:岩波書店   価格:¥ 735

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李陵・山月記 (新潮文庫)

著者:中島 敦

出版社:新潮社   価格:¥ 380

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ユリシーズ 1 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

著者:ジェイムズ・ジョイス

出版社:集英社   価格:¥ 1,200

2010年8月17日火曜日

asahi shohyo 書評

縄文聖地巡礼 [著]坂本龍一、中沢新一

[掲載]週刊朝日2010年8月20日号

  • [評者]長薗安浩

■未来のあるべき方向性を探る旅

 あの9・11をきっかけに、ニューヨーク在住の坂本龍一は資本主義やグローバリズムの意味について深く再考しはじめた。中沢新一は日本にいて、事件が象徴しているものについて考え抜こうとした。

 2人がたどりついたのは、国家原理と経済のシステムが一体化した現況をいかに突き抜けるか、という命題だった。そのために必要 な想像力と思考の在処(ありか)を探そうと、二人は縄文人の記憶を訪ねる旅に出た。なぜなら、〈国家の先を考えるには、国家が生まれる前の状態の人間のも のの考え方や感受性が、どういうものであったかを知る必要がある〉と定めたからだ。旅は三内丸山遺跡からはじまり、諏訪、若狭・敦賀、奈良・紀伊田辺、山 口・鹿児島を巡って再び青森へ。

 こうして編まれた『縄文聖地巡礼』には、縄文文化の名残が写真とともにいくつも紹介されている。中国や朝鮮半島から渡ってきた 人々によって日本列島に国家がつくられる以前にあった縄文の古層にふれ、そこから縄文人の価値観を探る手法は、中沢が得意とする「アースダイビング」であ る。学術的にはあやしいアプローチに違いない。だが、諏訪大社上社前宮で意図せずに古代の意識にふれる体験をした私は、2人の推察に強く共感できた。

 矛盾したことを自分の中に引きうける術を知り、複数の価値を認めて暮らしていた縄文人。2人は彼らを礼賛する一方で、矛盾を許 さない一神教によって突き進んできた現在の資本主義のかたちを批判する。その象徴的な光景が敦賀半島に立つ美浜原発で、これをどうやって軌道修正できる か、と2人は対話を深める。そこから「旧石器のハイデッガー」なる新語が飛び出す。他にも「南方的」とか「非線形的」といったキー・ワードが登場し、未来 のあるべき方向性が探られていく。

 この本は、いわば縄文期に的をしぼった温故知新の一冊で、未来思索のヒント集である。決して流行(はやり)のパワースポット本ではないので、その点、お間違えなきよう。

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縄文聖地巡礼

著者:坂本 龍一・中沢 新一

出版社:木楽舎   価格:¥ 1,995

kinokuniya shohyo 書評

2010年08月13日

『ノルマン騎士の地中海興亡史』山辺 規子(白水社)

ノルマン騎士の地中海興亡史 →bookwebで購入

王(女王)を選ぶ際に諸侯たちは、外国人だから、異教徒だから、まだ幼いから、体がデカイだけで馬鹿だから、辞めさせ易いはずと甘く考える。しかし一旦王権を手にするや、したたかな才覚を現す者が歴史に名を残すのだ。

ノルマンのイメージがわかり辛い向きのために、まずはヨーロッパの主要なノルマン遺跡を挙げておこう。まず有名なのはモン・サン=ミッシェル。世界遺産で あってフランス観光の目玉のひとつ(因みにパリのオプションツアーで行くのは遠いし単調なバス旅だからあまりお勧めしない)。他には、シチリアのモンレ アーレ、パレルモのノルマン宮殿、バイユー刺繍、カンタベリーの地下聖堂、などが良く知られたところ。南イングランドにもノルマン系地名やノルマン様式教 会が多く残る。とりわけ退屈な世界史の授業で誰もが習ったであろう「ノルマン・コンクエスト」はノルマン王ウィリアム(ギヨーム)がヘイスティングスの戦 いでハロルド王を倒しイングランド王となる物語だが、難攻不落のこの国を征服したのは前にも後にもこの王ただひとり。前述のバイユー刺繍にはこの戦争物語が長さ70mの絵巻物のように描かれていて(マチルダ刺繍と現地では言う)、彼らの遠い先祖、北方ヴァイキングの元来非文字文化がこの語り様にあらわれているとするのはMusset著The Bayeux Tapestry(Boydell)。

そんな北方にいたノルマン人が、どのようにして遠くイタリア南部及びシチリア島を支配するに至るのか?それが本書で「事実は小説より奇なり」と紹介 し「起源においてきわめてロマンチック、影響においてきわめて重要だった」とエドワード・ギボンが語るロベール・ギスカールを中心とした物語だ。

スタートは、またしてもノルマンディーのモン・サン=ミッシェル寺院。その威容は広く知られるところだが、ミカエルが降臨したのはなにもこの地にだ けには限らない。イタリア中部トスカーナ山中のガルガーノ(タルコフスキー「ノスタルジア」撮影に使用した場所だがこの映画でも主人公が故郷に帰ったと幻 想しているラストシーンに使われている点に本書との符牒を感じるがそれを検討する素材は目下手元にない)にもこの大天使は舞い降りた。それならばと 1016年には、ミカエル聖地巡礼のため40人ばかりのノルマン人巡礼団がこの地を訪れる。当時イタリアにおけるビザンツ帝国のプレゼンスはカラブリア、 プーリアの地域、それにナポリ、アマルフィなどに過ぎないところである。メッシーナ海峡の向こうではムスリムがシチリアを占拠している。北にはランゴバル ゴ人や教皇軍がいる。そういう時代。諸勢力はすべからく、魅力的な土地であるシチリア(「シチリアを理解しなければイタリアはわからない」とゲーテ)およ び南イタリアを手に入れたい欲望を抑えられない(Arnaldi//Italy and Its Invades//Harvard)。そうして殺戮のプロとしてのノルマン人に助けを求める。

イタリアにおける傭兵としてのノルマン人騎士がこうしてやおら表舞台に登場する。騎士と言っても実態は、戦勝後の略奪とレイプを専らの愉しみとする 乱暴な連中だ。海軍は持たないので陸伝いにやって来た。当然、現地住民にとっては害虫の様な存在だ。しかし戦争のプロたるノルマン人は、当初は傭兵とし て、次第に有力勢力として地盤を延ばし、遂にはアブルッツィの狼と結託するノルマン騎士レイヌルフにおいてイタリアの地に自らの地盤を築くことになる。

続くオートヴィル家の登場。鉄腕ギョームの活躍。シラクサの占拠。情勢はどんどんノルマン人に優位に運んで行く。勢力はいや増すばかり。本書の主人 公ロベール・ギスカールがアブルッツィの狼に師事し辣腕を研く。この戦いにおいてレオIX世にビザンツの援軍が到着しなかった事は、東西教会大シスマの引 き金を引くことになるだろう。ノルマンの不敗神話のはじまり。シチリア各地では連戦連勝。遂にはパレルモ陥落に至る。ムスリム打倒の後にはビザンツを血祭 りに上げよう、と気炎を上げる。この勢いは後に十字軍へも繋がることだろう。

物語は続く。武勇を誇ったロベール・ギスカールも終に戦死。紆余曲折の挙句、気高い男ルッジェーロII世が王位に就く。このときシチリア王戴冠式で 使用されたマント(ウィーン美術史美術館所蔵)が極めてふるっているのだ!ブロンドの髪と見事な髭をたくわえた長身のノルマン王が、シチリアの地で絢爛な ビザンチンモザイクの教会の中でイスラムのマントを羽織る!これほど刺激的な光景は他に想像できようか!バイユーで生まれたノルマン王の歴史がこのマント に結実している。1130年クリスマスの日にパレルモ大聖堂で行われたこの戴冠式は教科書だけでは学べないヨーロッパ文化の深さと面白さを象徴して余りあ る(桝屋訳//イスラム美術//岩波)。

最後にノルマンディーについて書こう。ヴァイキングである事を止めたノルマン人がキリスト教に帰依したニュー・フォロンティーアでありこの物語の主 人公たちの真の故郷だ。ノルマンディーと言えば、有名なのはカマンベールチーズ。表皮が白いうちは若すぎるから少し茶色くなった頃合い(賞味期限2週間を 切ったころ)がちょうど良し。日本人の「新鮮=うまい」の信仰はチーズには全く当てはまらないのだ。赤ワインでも勿論構わないが、ここはご当地同士の組み 合わせでシードル・ブリュットと一緒に味わいながら本書を読むのがよろしい。歴史書だからといって肩肘張る必要はない。


(官公庁営業部 林茂)


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2010年08月13日

『西欧中世の社会と教会−教会史から中世を読む−』リチャ−ド・ウィリアム・サザン著(八坂書房)

西欧中世の社会と教会−教会史から中世を読む− →bookwebで購入

「教会の歴史からみる中世史」

 ウェーバーは、組織をアンシュタルトとセクトに分類した。アンシュタルトは人々が生まれ落ちるように加入させられる組織であり、セクトは人々が自主的な 意志をもって参加する組織である。アンシュタルトの代表的な組織が教会と国家であるが、本書は教会と国家が一体的なアンシュタルトであった中世を通じて、 教会の歴史を(ということは国家の歴史ということだが)追跡する。「近代国家が逃れようのない社会であるのと同様に、教会も[中世においては]逃れようの ない社会であった」(p.7)ためである。

 中世の教会は、国家であった。それは国家のすべての装置、すなわち法律、法廷、税金、徴税人、巨大な行政機構、キリスト教世界の市民と内外の敵に対する生殺与奪の力を備えていた(p.8)。

 しかし問題は教会には警察権力がそなわっていなかったことである。人々を罰することができるとしても、それには世俗の君主に依存するか、破門するしかなかったのである。そのため教会と世俗の君主のあいだで長い微妙な力関係がつづくことになる。

 この書物はこの長い力関係の歴史を、教会と教会に属する人物を主人公として描くものである。時代的には、(一)初期−700〜1050年頃。西 ヨーロッパがギリシア語圏やイスラーム世界に比較すると、さまざまな側面で劣っていた時代。(二)成長の時代−1050〜1300年頃。ヨーロッパが拡大 し、スコラ哲学によって教義的にも確立された時代。(三)不穏な時代−1300〜1550年頃。新しい思想や異端が登場して、教会の権威が揺らぎ始めた時 代に区分される。

 このすべての時代を通じて、政治的な中心人物はローマ教皇(第四章)であり、世俗の君主にたいして教皇の権利を確立するために「コンスタンティヌ スの寄進状」という偽文書が利用されたことに始まり、シャルルマーニュの戴冠、頻繁に開催された公会議、教皇による特権の付与と裁判、首位権をめぐるハイ ンリヒ四世との抗争、贖宥の頻発、叙任権闘争と、教皇をめぐる歴史は、中世の政治史そのものである。

 第二の主人公は司教と大司教(第五章)であり、世俗世界における教皇の代理人として権力をほしいままにした。この章では、北フランスの大司教、イングランドの大司教、ドイツの司教、北イタリアの司教一族などについて司教個人の実際の在り方が活写される。

 たとえばドイツのリエージュの司教アンリ・ド・ゲルドルは、自堕落で、読み書きもできない人物だったが、家系がよかったので任命された。彼は「聖 職者の服をまとった政治的官吏にすぎなかった」(p.226)。生活はひどいものであり、二二ケ月のあいだに、修道女たちに一四人の私生児を生ませたこと を「食後の自慢の種」(p.227)にするような人物だった。そしてこれらの私生児には教会の聖職祿を与えられたのである。

 第三の主人公は修道士たち(第六章)である。修道院が設立されたのは、修道士たちに戦わせるためだった。「修道士たちは、自然界の戦いとまったく 同じように現実的で、自然界の戦い以上に大切な戦いに従事していた。彼らは超自然的な敵を土地から追い払うために戦っていたのである」(p.256)。こ の戦いが必要となったのは、世俗の君主や貴族たちに贖罪が課せられたためだった。

 たとえば九二三年のソワソン戦いに参戦したすべての人々は三年間の贖罪を命じられた。この贖罪には毎年四〇日を一期として三期ずつ、すなわち一年 の三分の一は、「パンと塩と水だけで過ごすように命じるものだった」(p.258)。これでは貴族たちの生活は停止してしまう。そのため「自分の代わりに 金を支払って誰か別の者に贖いをさせることができる者」たちは多額の金を支払って、修道士たちに代理で贖罪をさせたのであり、こうして修道院が設立され、 繁栄したのだった。

 しかし修道院のこうした在り方に満足できない修道士たちは、新しい修道院を開くことなる。都会に近い場所に開設されたアウグスティノ修道参事会 と、僻地に建造されて土地の開拓に力をいれたシトー派の修道院である。しかし皮肉なことに、シトー派の修道院は、その開拓と労働によって富を積み、世俗的 な修道院と同じ状況に堕落するのだった。

 これに飽きたらない修道士たちは、托鉢修道会を組織した。ドミニコ会とフランシスコ会である。この托鉢修道会の大きな特徴は、大学と結びついて、 神学を専門の研究する人々を養ったことである。「托鉢修道会に加わった大学教師たちは聖職祿をあさる闘争を放棄し、学問的仕事に専念することができ た」(p.338)。中世末期の神学者の多くは、こうした身分で研究に献身することができたのである。

 しかしこうした修道会のありかたにも満足できない人々が登場する。たとえばベギン派の女性たちは、両親からうけついだ遺産を持ちあって、都市の片 隅にいささかの住宅を購入し、そこで「結婚の災い」から避難し、尊敬する指導者のもとで、霊的な生活を送ることを好んだのだった。またオランダのヘール ト・フローテは、同じく世俗的な生活を送りながら、霊的な目的を追求する「共同生活信心会」を設立した。しかし教会はこうした在り方を容認することができ ず、女性たちを結婚させるか、既存の修道会に参加させることを求めたのだった。

 中世を通じて、聖性を追求する運動が次第に堕落し、ついに世俗的な人々のうちにしか、霊性をみいだすことができなくなるまでの歴史は、読んでいて いろいろなことを考えさせてくれる。初期の砂漠の修道士たちの記述がないことと(これは修道院のありかたの手本となった生活だった)、文献リストがないこ とが少しもの足りないが、目配りのよい教会史としてお勧めできる。

【書誌情報】
■西欧中世の社会と教会−教会史から中世を読む−
■リチャ−ド・ウィリアム・サザン著
■上條敏子訳
■八坂書房
■2007/04
■423,49p / 21cm / A5
■ISBN 9784896948882
■定価 5040円

●目次
第1章 教会と社会
第2章 時代区分
第3章 キリスト教世界の分裂
第4章 教皇権
第5章 司教と大司教
第6章 修道会
第7章 周縁の修道会と、修道会に対するアンチ・テーゼとしての宗教運動



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asahi government books culture kokkai toshokan national library of Japan CO2 bug mushikui

本の虫食い、CO2で防げ 国立国会図書館の対策奏功

2010年8月17日

写真:二酸化炭素を送り込むテント。本を納めた段ボールごと成虫や卵を駆除できる=国立国会図書館二酸化炭素を送り込むテント。本を納めた段ボールごと成虫や卵を駆除できる=国立国会図書館

  書籍類の虫食い被害防止に、国立国会図書館が本格的に取り組んでいる。外部から持ち込まれた書籍類が虫に食われたり、虫の餌となるカビが広がったりという 被害が急増。二酸化炭素ガスで虫や卵を窒息させる手法を採り入れ、効果が出ている。同図書館は国内外の他の図書館にもノウハウを提供している。

 8月上旬、地下1階に用意された大型保温テントに66箱の段ボールが運びこまれた。脇に置いた6本のボンベから、濃度60%の二酸化炭素ガスが流し込まれた。

 段ボールの中身は、個人や団体が所蔵していた1930〜40年代の和紙製の書籍や小冊子だ。同図書館資料保存課の中島尚子さんは「室温25度、濃度60%で2週間燻蒸(くんじょう)すると、成虫はもちろん、目に見えない卵まで駆除できます」と話す。

 同図書館の書庫の大半は閉架で、これまで虫食い被害は数件しかなく、外部からの害虫の侵入はあまり警戒されてこなかったという。

 ところが、2006年に館内一斉調査をすると、過去に古書店から購入した和紙の巻物2本が、保管ケース内で繁殖した甲虫の一種「シバンムシ」の幼虫に食べられているのが見つかった。

 07年には書庫内でカビが発生した。カビは本そのものを傷めるだけでなく、虫の餌にもなる。

 調査の結果、外部から持ち込まれる本や、ホコリに付着した虫やカビが、図書館内で増殖する可能性があることがわかった。

これまでは、虫が見つかった本を取り出し、化学薬品で駆除してきた。二酸化炭素は人や環境への影響も少なく、低費用で済む。書庫に入れる前に、段ボールごと一斉駆除できるのが最大のメリットという。

同図書館は、こうしたノウハウをホームページや論文で国内外に紹介している。(高田英)





asahi shohyo 書評

宗教とは何か [著]テリー・イーグルトン

[掲載]2010年8月8日

  • [評者]柄谷行人(評論家)

■「神学」の復活 宗教批判を批判

  本書は、イギリスのマルクス主義者・文芸批評家として知られる著者が書いた宗教論である。著者はつぎのようにいう。《およそ似つかわしくない人たち(わた し自身もそのひとり)が、なぜ、突如として神について語るようになったのか?》。これは著者だけではない。これまでポストモダンな現代思想の下で黙殺され てきた「神学」が今や、流行の主題となっているのである。この背景には、宗教が政治的に重要な要素となってきた現実がある。

 宗教が「突如として」復活してきたのは、ソ連が崩壊し資本主義経済のグローバル化が進んだ1990年代である。すなわち、一方 で社会主義の理念が消え、他方でナショナリズムも機能しなくなってからである。その結果、宗教はそれまで社会主義やナショナリズムが引き受けていた諸問題 を引き受けるようになった。そのあらわれが宗教的原理主義である。それはイスラム教だけでなく、キリスト教・ヒンドゥー教などにもある。それに対して、英 米で支配的となった論調は、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』のように、宗教を非科学的妄想として斥(しりぞ)けるものである。本書が何よりも 標的とするのは、その種の宗教批判である。

 確かに、宗教によって現実的諸問題を解決することはできない。しかし、宗教的運動が、少なくとも世界資本主義の下にある悲惨な 現実に根ざしているのに対して、宗教批判者らはまったくそれを無視している。というより、彼らの宗教批判は、グローバル資本主義に対抗する運動を抑圧する ためにこそ必要なのである。かくして、著者はむしろ宗教を擁護する。そこには、宗教の中に、抑圧された者たちのため息(マルクス)がある、という消極的な 理由だけではなく、もっと積極的な理由がある。それは、普遍宗教には、社会主義の核心となる倫理性が開示されているということだ。それを取りもどすことな しに、社会主義の再活性化はありえない。ゆえに、著者にとって、宗教の擁護とは社会主義の擁護にほかならないのである。

    ◇

 大橋洋一ほか訳/Terry Eagleton 43年生まれ。英国の批評家。『文学とは何か』など。

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宗教とは何か

著者:テリー・イーグルトン

出版社:青土社   価格:¥ 2,520

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神は妄想である—宗教との決別

著者:リチャード・ドーキンス

出版社:早川書房   価格:¥ 2,625

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文学とは何か—現代批評理論への招待

著者:テリー イーグルトン・大橋 洋一・Terry Eagleton

出版社:岩波書店   価格:¥ 4,200

asahi shohyo 書評

ともいきの思想 [著]阿部珠理

[掲載]週刊朝日2010年8月20日号

  • [評者]谷本束

■癒やしスポットでは手に入らない言葉

  アメリカインディアンの言葉はしばしば、心に沁みいるような響きをもっている。癒やしを求めて彼らの土地を訪れる人も多いと聞く。アメリカ先住民研究の第 一人者が、ラコタ族との交流の中で出会った言葉と、背景にある「ともいき(共生)」の思想、現代に生きる彼らの姿をつづっている。

 他者を助ける気前の良さ、寛大さが徳とされるラコタには、ギブ・アウェイ(与え尽くし)という儀式がある。子供の成人や病気回 復などの折に、持っているものを集まった人にあげてしまうのだが、来たい人が勝手に来るので数が読めない。ギフトが足りるか心配する著者にラコタ女性が答 えた言葉が、「足りることになっている」。心をこめて準備すれば足りるのだ、と。日本人からするとそんないいかげんな、と思うが、実際、過不足なく儀式は 無事に終わる。

 大切なもの、必要なものも無理に手に入れたりはしない。「持つに相応しい時期がきたら、自然とその人の元に来る」からだ。世界 は自分以外の何ものかの力が働いて動く、人の力など知れたもの。そういう静かで謙虚な姿勢がそこここにある。物事をいつも思い通りに進めようとゴリゴリ やっている私たちが、本当のところ、賢いかどうか。

 著者の目は、ラコタの困難な現実も真っ直ぐとらえている。アメリカ最貧地区の一つで、高い失業率、犯罪など深刻な問題がうずま く。平気で金を無心する人、教祖サマのようにふるまう胡散くさいメディスンマン、有名な父祖の偉業を売り物にして金を稼ぐ子孫もいる。浄化だ、癒やしだと 先住民を特別な存在のようにもてはやす人々にとっては幻滅かもしれない。

 優れた思想、哲学というものは癒やしのスポットに行けば手に入る、そんなお安いものではないだろう。聖も邪もあわせ持つ普通の 人々が、生活の中から長い時間をかけてつかみとった叡智なのだ。言葉の後ろにある人々の喜びや苦悩、絶望と再生がどっしりと快い重さを与えて、言葉の本当 の価値を伝えている。