2013年7月31日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2013年07月27日

『対岸』百々新(赤々舎)

沿岸 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「カスピ海を巡る5つの国の旅」

カスピ海が世界でいちばん大きな湖なのは知っていても、そこにいくつの国が面していて、それがどこの国なのかを言い当てられる人は少ないのではないか。

解答と言うと、東から時計回りに、トルクメニスタン、イラン、アゼルバイジャン、ロシア、カザフスタンの5国である。そうか、と思うものの、無惨な ほどそれ以上の感慨が浮かんでこない。多少の知識があるのはロシアとイランで、ほかの3国についてはどんな場所なのかイメージできない。

『対岸』はカスピ海に面したこの5国の沿岸で撮影されたもので、今年度の木村伊兵衛賞を受賞した。見たこともないような奇妙な様式のビル、派手でき らびやかだが、どこと特定しづらい装飾的な室内インテリア、岩山に建つ古いアパートから突きでた無数のパラボナ・アンテナ、湖に携帯電話をむけて撮影して いる黒装束の女性たち、天然ガスの採掘場なのか岩のあいだの夜空を昼間のように明るく照らすライト群……。

過去にこのエリアがこのように撮影されてきたことはあるだろうか。海外には、カスピ海に生きる人々の暮らしや産業を追ったコーヒーテーブルブック的 な写真集があるかもしれない。だがこれはカスピ海を撮った写真集ではない。写真家の関心は水域ではなく、そこに面した国々にある。

「対岸」というタイトルにもそれは現れている。「沿岸」ではなく「対岸」。湖の周りをめぐるのではなく、反対側に視線を投げかけるという意図が感じ られる。西の黒海も複数の国に囲まれているが、あちらはボスポラス海峡のところが開いている。だがカスピ海は流出する川のない完全に閉じた円の空間なの だ。

トルクメニスタンの対岸にはアゼルバイシャが、カザフスタンの対岸はイランが、ロシアの対岸にはトルクメニスタンとカザフスタンがある。東と西、北 と南が、この巨大な空隙を挟んで出会っているような不思議さを感じずにいられない。現代では対岸に行くことはなく、おそらく両岸を結ぶ空の便すらも少ない と思うが、かつては水運によって頻繁に行き来がされていただろう。

さて、ここから本題の写真に入りたいのだが、すでに書いたように私はそれぞれの国の文化についても、現在の国境線が引かれた事情についても知識を 持っていない。知識がないということは、写っているものの意味を読み込めないということ、表面的にしか見られないということだ。ということをまず告白して おくとして、単純に写真のおもしろさに惹かれてページを捲っていった。知らない土地に降り立ち、街を歩く。手がかりのないまま、幼い子供と同じように目を キョロキョロさせながら歩く。将来ともその地に行くことはないと思うから、これが最初で最後のような気持ちで一点一点に見入る。

国別にレイアウトされているので、どの写真がどこで撮られたかは一目瞭然である。だが写真を見ているときの私は、国ごとの差異を見いだそうとする意志と、差異がないことに肩入れしようとする意志とに引き裂かれている。そのどちらの気持ちにも嘘はない。

差異を見いだすのは知的な視線である。よく目をこらせば写真によっては、文字、人の顔、国家元首の肖像写真、宗教建築など、国を特定できる手がかりが見つかる。それを探しだして理解を深めようとする。

もう一方の視線は、それとはまったく逆で、どの国のあまり差がないなあ思いつつ見ている。こちらのほうが現在の自分に正直だろう。たとえばパリの エッフェル塔のようなよく知られたシンボリックなものがない。人種的な差もわからず、文化的な記号が見いだしにくい。その代りに共通して浮かび上がってく るのは、街路が雑然としていること、建築様式が独特なこと、経済的に豊かそうには見えないこと(道路がガタガタで、ゴミが散乱している)、土地も肥沃そう ではないこと(岩山や荒れ地が多い)……。

多少なりとも情感が感じられるのはロシアの章で、文化の厚みのようなものが伝わってくるが、ほかの4国はノイズが多く、文化的な記号が錯綜してい て、それが少しもほどけないことに圧倒される。自分のまったく知らない場所が、彼らにはとても親しい場所であるということに驚き打たれることは東京を歩い ていてもあるが、それが想像を超えるレベルにあり、圧倒的な「他者」との遭遇にめまいを覚える。

カスピ海と日本列島はほぼ面積が同じで、水域と陸地を逆転させると、閉じている島国=日本と、閉じている水域=カスピ海はポジネガの関係になる。そ れに気がついたとき、このプロジェクトの根っこにぶち当たったような気がした。もし「対岸」をキーワードに沿岸の5国を撮影したこれが世界初の試みだとし たら、日本の写真家だから発想できたということがあるかもしれない。世界最大の湖を挟んで5つの国がむきあっているという事実には、島国にいる私たちの想 像をかき立ててやまない何かある。ツボを押さえられたような刺激が走る。


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2013年07月27日

『脳に刻まれたモラルの起源』 金井良太 (岩波科学ライブラリ−)

脳に刻まれたモラルの起源 →紀伊國屋ウェブストアで購入

 道徳は長らく理性の働きと考えられてきたが、18世紀英国で同情心や共感といった感情の働きに根ざすという道徳感覚説が登場した。ハッチソン、ヒューム、アダム・スミスらで、特にヒュームは道徳を情念の働きと見なした。

 高級な理性の働きであるべき道徳を低級な感覚に、それもよりによって低級な中でも低級な情念に結びつけた道徳感覚説に対する反発は激しかった。カ ントの『実践理性批判』がたまたま道徳にかなっているように見える行為でも、道徳法則にもとづかない感情によって引き起こされた行為にすぎないなら道徳的 ではないとする厳格な道徳観を打ちだしたのは道徳感覚説に対する反論という側面があったといっていいだろう。

 だが現代の脳科学は道徳感覚説を復活させつつあるらしい。著者は本書の狙いをこう語っている。

 倫理観というのは、人間の脳の中にある根本的な道徳感情に由来する。人類が誕生し集団生活を行なうなかで、倫理的な感覚をもつ集団が生存に有利で あったがために、倫理観をもつ脳が自然選択によって選ばれてきた。現代の人間社会の倫理に根拠があるとすれば、それは進化の結果としての人間の脳の仕組に ある。脳という人類共通の基盤があるということは、実は人類に共通の倫理観というものが想定できる可能性を示している。倫理観は主観的なものかもしれない が、脳という視点で見れば、このような主観的な感情もまた科学研究の対象になる。

 チンパンジーからわかれて独自の道を歩みはじめたヒトは牙もたいした身体能力もなく、爪も貧弱だった。生存競争の激しいアフリカの原野で生きのびていくには集団で行動するしかなかった。

 集団生活をいとなむには共感能力やルールを尊重する能力、エゴイズムを抑制する利他的行動が必要だが、そうした能力は感情として発現する。道徳は感情に根ざすものであって、もはや理性の介在する余地はない。

 道徳の脳科学とはどのように研究をおこなうのだろうか。

 ハーバード大学のサンデル教授のTV講義でトロッコのジレンマや歩道橋のジレンマが広く知られるようになった。

 トロッコのジレンマとは五人の作業員が作業をしている線路にトロッコが突進している。このままだと五人全員が事故死してしまうが、分岐点を切換れ ば一人が作業している待避線にトロッコを進ませることができる。切換で一人が死ぬ代わりに五人を救うことができる。その行為は正しいかどうかというわけだ が、ほとんどの人は切換を正当な行為と認めるという。

 一方歩道橋のジレンマとは、作業中の五人の作業員に暴走トロッコの危険を知らせるために、線路またぐ歩道橋の上から一人の男を突き落とすことが正 しいかどうかを問う。一人の犠牲で五人を救うという点ではトロッコのジレンマと同じだが、人間を突き落とすという直接的な行為をしなければならないので、 大部分の人は正しくないと回答する。

 fMRIでジレンマを考えている被験者の脳を見たところ、突き落とし行為をともなう歩道橋のジレンマでは直感的・感情的機能にかかわる内側前頭回 が活動していたのに対し、ポイントの切換だけでいいトロッコのジレンマでは合理主義的認知制御機能にかかわる背外側前頭前野の活動性が高かった。マンガな どでは頭の中で天使と悪魔が戦っている図がよく描かれるが、似たような戦いが脳の中で実際におこなわれているのである。

 社会心理学では倫理観は以下の五つの道徳感情のバランスで決まるという説が有力で、各道徳感情の強さを点数化するMFQという質問が考案されている。

個人の尊厳
  1. 傷つけないこと
  2. 公平性
義務への拘束
  1. 内集団への忠誠
  2. 権威への敬意
  3. 神聖さ・純粋さ

 五つの道徳感情は「個人の尊厳」にかかわる最初の二つと、「義務への拘束」にかかわる後の三つにわけられるが、リベラルな信条の持主は「個人の尊厳」の点数が高く、保守的な信条の持主は「義務への拘束」の点数が高いことが知られている。

 fMRI画像から局所的な灰白質の量を推定するVBM解析という技術で調べたところ、「個人の尊厳」の点数が高い人ほど楔前部が小さく、「義務への拘束」の点数が高い人ほど梁下回と島皮質前部が大きいことがわかった。

 個人の倫理観はある程度脳の構造を反映しているらしい。ちなみに卒中や外傷などで腹内側前頭前野が損傷すると、異常なまでに功利的に判断するようになるそうである。

 道徳の脳科学的研究はまだはじまったばかりだが、目下のところ政治心理学の仮説を確認する方向で研究が進められているようである。

 政治心理学では政治的傾向とモラルファンデーションの関係を次のように分類している。


個人義務
宗教左派
リベラル
保守
リバタリアン

 「宗教左派」とはキリスト教原理主義のことであり、いかにもアメリカ的な分類である。アメリカ的な、あまりにもアメリカ的な政治心理学を卒業しなければ、本当の意味での道徳の脳科学ははじまらないのではないかという気もする。

 アメリカの政治文化にそれほど依存していない研究としては脳に対するホルモンの影響の研究がある。

 たとえばオキシトシンは母乳分泌や出産時の子宮収縮をうながすホルモンと考えられてきたが、家族の絆に一役買っていることがわかってきた。たとえば一夫一婦のネズミは一夫多妻のネズミより側坐核のオキシトシン受容体が多いという。

 オキシトシンは人間にも効いて、鼻先にスプレーで噴霧するだけで他者をより信頼するようになることが実験で確認されているが、家族など自分の属する集団への忠誠心も高めるので差別感情を引き起こす可能性もある。

 ちなみにアメリカでは吸引用のオキシトシンはFDAが母乳を出やすくする薬品として認可しており、通販で簡単に買うことができる。欲しい人は「Oxytocin spray」で検索するといい(30mlで60ドル前後)。

 オキシトシンに対する感受性はオキシトシン受容体遺伝子で決定され、楽観的かどうかはrs53576の、扁桃体の大きさはrs2254298Aの塩基配列で決まる。

 アメリカでは個人のゲノム解析が比較的安い費用で受けられるが、著者はwww.23andme.comというところを利用しているそうである。

 社会的つながりの広さと深さをソーシャルキャピタルというが、どれだけソーシャルキャピタルをもっているかを数量化するのは困難である。一つの指標として友人の数が考えられるが、友人をどう考えるかは人によって違い、質問の仕方によっても変わってしまう。

 著者は個人のソーシャルキャピタルの大きさを推定する目安としてフェイスブックの「友人」の数を使うことを提案している。「友人」として承認するかしないかという明示的な行動が基準となるので、単なるアンケート調査よりも客観性が高いというわけだ。

 学生を被験者としてフェイスブックの「友人」の数と脳の構造の関係を調べたところ、承認数の多い人ほど中側頭回と上側頭溝が大きく、扁桃体と嗅内皮質の体積も関連していることがわかったという。

 脳の皮質部分は加齢によって体積が減っていくが、扁桃体の大きさは変わらないので老人ほど扁桃体の比率が大きくなる。著者はヒトが老人になるにつれて保守化していくのは扁桃体の相対的大きさが増大していくことと関連があるのではないかと推定している。

 身も蓋もない話ばかりであるが、カントが現代に生きていたら何と言うだろう。

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Posted by 加藤弘一 at 2013年07月27日 23:00 | Category : 心理/認知/身体/臨床




kinokuniya shohyo 書評

2013年07月28日

『対訳 ディキンソン詩集』エミリー・ディキンソン作・亀井俊介編(岩波文庫)

対訳 ディキンソン詩集 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ディキンソンの性格」

 筆者は、ディキンソンという詩人は昔からどうも苦手だった。頑固でマイペースなのはいいとして(詩人なんてだいたいそうだ)、言いたいことがある わりにいつまでも口をつぐんでいて、こっちが「どうかなさいましたか?」と言うのを待ってるようなところがどうも面倒くさいのである。もっと、どんどんい きましょうよ、歌いましょうよ、食べましょうよ、と言いたくなる。

 でも、授業でアメリカ詩をやるとなると、やっぱりとりあげないわけにはいかない人だ。仕方ないから、いかにもこの詩人らしいなるべく陰気な作品を 2、3選んで(自分で自分の葬式の場面を想像しながら実況中継するとか、「後悔」とは何かについてじくじく考えるといった詩)、なるべく足早に通りすぎる のである。

 ところが、学生さんの間でディキンソンは意外に人気なのである。ホイットマンよりよほど好まれている。短いからいいのか、陰気な人の方が共感しや すいのか、「ひきこもり」というのがアピールするのか、そのあたりはよくわからないのだが、そういうわけだから、今年の演習では夏学期に「一学期分ほぼぜ んぶディキンソン」という試みをやってみた。やっぱり陰気だった。でも、毎週毎週ディキンソンばかり読んでいると、陰気な中にもちょっとちがった輝きが見 えてくる。

 たとえば「私は苦悶の表情が好き」('I like a look of Agony')という、実に暗い出だしの作品がある。

I like a look of Agony,
Because I know it's true —
Men do not sham Convulsion,
Nor simulate, a Throe —

The Eyes glaze once — and that is Death —
Impossible to feign
The Beads upon the Forehead
By homely Anguish strung.

わたしは苦悶の表情が好き、
真実なのだと分かるから—
人は痙攣の真似などしない、
激痛を、装ったりもしない—

いったん眼がかすんできたら—それはもう死です—
見せかけることなどできはしない
質朴な苦悩をつらねた
額の汗のじゅず玉を。
(亀井訳)

本書の注釈にもあるように、この詩は従来、ディキンソンの「真実」に対するこだわりの強さを示すものと考えられてきた。たしかにそういうふうに読め る。しかも、そのことを妙に冷静な、奥深い意地悪さをたたえた皮肉な視点から語っている。ディキンソンの「偉さ」を示す重要な作品の一つと考えられてきた 所以である。

 そういう意味では「私は苦悶の表情が好き」というタイトルも、一見するほど暗いものではないのかもしれない。むしろ心がおだやかに落ち着いていく プロセスとも読める。「私は苦悶の表情が好き → だって苦悶は嘘をつかないから → だって真実がわかるから → 真実がわかることこそ心の糧」と言え るようになるためには、それなりの達観の境地に達している必要があろう。

 しかし、それだけだろうか。いくらディキンソンが現代人の想像の及ばない「遙かなる人」だったからと言って、この詩人をいたずらに神格化するのは よくないのではなかろうか(亀井氏の強調するポイントでもある)。たしかにディキンソンは、150年以上前のニューイングランドで引きこもり同然の生活を 送り、毎日詩を書くくらいしか楽しみがなかった女性だ。しかも、1700篇もの詩を書きながら生前に発表されたのはそのうちの10篇程度しかないという、 これ以上ないほどの�日陰者�の人生を全うした。しかし、だからと言って、私たちが彼女のことを「ごくふつうの人」として理解してはいけないいわれはな い。

 ディキンソン=「ふつうの人」説に則って考えてみよう。たとえばふつうの人なら「わたしは苦悶の表情が好き」なんてわざわざ常識外れのことを言う ときには、やっぱり、相手の人が「え?」とびっくりし、どぎまぎする様を期待したりするのではないだろうか。それでうまくいくと、「うふ」と笑ったりする のではないだろうか。そこには相手をびっくりさせてやろう、煙に巻いてやろう、という茶目っ気が読み取れる。とするなら、ディキンソンって、意外とふざけ た奴だったのかな?という考えもちらっと浮かぶ。だいたい'Men do not sham Convulsion'(「人は痙攣の真似などしない」)とか、'The Beads upon the Forehead/ By homely Anguish strung.'(「質朴な苦悩をつらねた/額の汗のじゅず玉を。」)といった部分など、Convulsion, Anguishといった用語もいかにも重たげだし、語りの言葉少なな感じもわざとらしくて、やりすぎのB級ホラー映画のようにも見える。この「やりすぎ 感」も、ディキンソンの個性の一部なのだ。グロテスクマニアで、注目を集めるのもけっこう好きで、ほとんど子供っぽいようなところがあった人なのではない だろうか。あるいは、そういうふうに思わせるところも魅力なのではないか。

 こんなふうに感じられるようになると、ディキンソンとの付き合いが前よりちょっとだけ楽になる気がする。ディキンソンの詩作品ですぐ目につくの は、「定義詩」と呼ばれる一群の作品である。詩の冒頭が'A is...'という定義の形ではじまり、その定義を深め展開するためにいろんな比喩が繰り出される。要するに、定義すること自体が詩になっているのだ。こ の選集にも'Exultation is the going,' '"Hope" is the thing with feathers—'といった作品がおさめられている。

 ひたすら定義するなんて、辞書みたいな人である。いかにも杓子定規で退屈な人と思える。でも、ディキンソンの定義癖には、意外と素っ頓狂なところ も含まれている。彼女の定義は、決してひとつの正解に達するために行われるわけではない。むしろ定義すればするほど、言葉がずれたり、変なイメージがわり こんできたり、それから一番大事なのは、定義しようとしている本人が、そんな作業のレールから外れて、何だか別の物語を語ってしまったりすることである。 今あげた「『希望』は羽根をつけた生き物—」('"Hope" is the thing with feathers—')などもその典型だし、この選集には入っていないが、'Fame is a Bee'という作品もそうだ。

Fame is a Bee.
 It has a song—
It has a sting—
 Ah, too, it has a wing.

名声とは蜂
 歌をうたうし
針があるし
 ああ それに 羽根もあるし

'Ah, too'とあるように、語り手はこの最後の行で思ってもみなかったことを口にしてしまう。蜂(Bee)はあくまで名声(Fame)を説明するために導きこ まれた比喩だったのに、この比喩がほんとうに生命を吹き込まれて勝手にぶんぶん飛び始めるのだ。そんなふうに目の前を飛び出した蜂を見て、「あらら、飛ん でる」と語り手本人がびっくりしている。まだ詩は終わっていないというのに。いや、この「びっくり」のおかげで詩が終わるのだ。一種の即興詩なのである。

 茶目っ気にあふれ、ちょっと子供っぽくて、悪のりも好き、しかもけっこう気まぐれ……そんなイメージが湧いてくると、毎日真っ白い服を着こんで家 にこもった宗教的隠遁者という像も少しうすらぐかもしれない。どうだろう。これなら少しお付き合いしてみていいかな、という人も増えるだろうか。


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Posted by 阿部公彦 at 2013年07月28日 20:18 | Category :



kinokuniya shohyo 書評

2013年07月28日

『ヒトの心はどう進化したのか』 鈴木光太郎 (ちくま新書)

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 ヒトはチンパンジーとの共通祖先から600万年前にわかれ、独自の道を歩みはじめたが、1万年前に農耕牧畜生活をはじめるまでは狩猟採集生活をつ づけていた。600万年を24時間に見立てると、農耕牧畜時代は最後の2分半にすぎず、それまでの23時間57分30秒は狩猟採集で食べていた。ヒトの身 体は脳も含めて狩猟採集生活に適応するように進化してきたのである。

 現代人も持久走のような有酸素運動を長時間つづけていると、ランナーズハイと呼ばれる特別な快感を感じ、大きな達成感を得るが、走ることが快感な のは脳内にそうした報酬系が組みこまれているからである。ジョギングやマラソンにはまるのはサバンナで獲物を長時間追いかけたり、肉食獣から逃げ回ってい た生活の名残なのだ。

 本書は副題に「狩猟採集生活が生んだもの」とあるように、ヒトの心の進化を狩猟採集生活から見ようという試みである。

 著者の鈴木光太郎氏は実験心理学が専門で、人類学者でも、人類学者を取材したジャーナリストでもないが、人類学関係の本の翻訳を多数手がけており、その経験をもとに本書を執筆したという。

 著者が翻訳した本のうち入手可能ものとしてはベリング『ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能』、ボイヤー『神はなぜいるのか? 宗教の進化的起源』、テイラー『われらはチンパンジ−にあらず ヒト遺伝子の探求』、ウィンストン『人間の本能 心にひそむ進化の過去』、カートライト『進化心理学入門』などがある。これだけの本を手がけていれば専門家に準じるといっても差し支えないかもしれない。

 本書は三部にわかれる。

 第一部「ヒトをヒトたらしめているもの」は全体の半分を占めるが、ヒトの進化史のおさらいである。第二部「狩猟採集生活が生んだもの」は1/4ほどの分量で、本書の中心をなす。第三部「ヒトの間で生きる」は「心の理論」の解説である。

 はっきりいって第一部と第三部はどこかで読んだ話ばかりである。「火」をあらわす言葉が日本語の「ヒ」、朝鮮語の「プル」、中国語の「フォ」、英 語の「ファイアー」、ドイツ語の「フォイアー」、フランス語の「フー」、スペイン語の「フェゴ」のようにf音、p音ではじまる傾向があるのは、息を吹きか けて火を起こしたことと関係があるのではないかというような著者独自の見解もあるが、自分で研究したり取材して書いたのではない弱みが出てしまった。もっ ともこの分野の本をはじめて読む人には軽く読めていいかもしれない。

 さて第二部であるが、著者は狩猟採集生活がヒトに残した影響を家畜と遊びという二つのテーマで論じている。

 まず家畜であるが、家畜化した年代を推定すると犬が飛び抜けて古く1万5千年前、他の家畜はもっとも古い山羊、羊、牛、豚でも9千年から8千年前の農耕牧畜生活の移行期、それ以外は農耕牧畜生活が確立した後になる。

 狩猟採集時代からヒトとつきあっているのは犬だけなのである。世界中で犬のいない文化や社会はほとんどないということだが、ヒトと犬の関係はそれだけ深いのだ。

 犬の原種は狼である。1万5千年前の遺跡からヒトといっしょに埋葬された犬の骨が見つかっているから、おそらくそれ以前から狼の家畜化がはじまっていたのだろう。

 長年の選別の結果、犬は感情表現が豊かに進化し、犬の方でもヒトの感情を読みとれるようになった。飼主のあくびが犬に伝染することが確認されているが、飼われている動物であくびが伝染することがわかっているのは犬とチンパンジーだけだそうである。

 犬はヒトの言葉も理解し、最大で250語を聞きわける。習得単語の数では並のチンパンジーをはるかに凌駕している。バウリンガルのような玩具が可能なのは犬だからこそなのだ。

 次に遊びであるが、遊びをするのはヒトだけではない。猫科の肉食獣など、狩猟をする動物は子供時代に遊びを通じて狩りをおぼえるのだ。遊びでは本気を出さず手加減するのもヒトと共通である(本気でとっくみあったら仲間を殺してしまう)。

 ではヒト特有の遊びとは何だろうか?

 著者はごっこ遊びとボール投げと性差だという。

 ごっこ遊びは「心の理論」で可能になるが、ボール投げができるのもヒトだけだ。ものを投げるだけなら類人猿にもできるが、ヒト のような細かなコントロールは不可能である。もちろんこれは石を投げて獲物をしとめるという狩猟生活の中ではぐくまれてきた能力だ。投げる、命中させるこ とが快感になり、さまざまなスポーツが誕生した。

 最後に性差であるが、ヒトのように遊びに性差がある動物は他にいない。おそらく男が狩猟をし、女が採集をするという狩猟採集時代の分業から生まれたものだろう。

 性差は身体能力だけでなく、認知能力に見られる。地理的認知では男は距離や方向を手がかりとするのに対し、女はランドマークに頼る傾向がある。男が狩猟で遠出をするのに対し、女は近場で採集をするという分業から差が生じたものと考えられる。

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Posted by 加藤弘一 at 2013年07月28日 23:00 | Category :



2013年7月30日火曜日

asahi shohyo 書評

幸福の文法—幸福論の系譜、わからないものの思想史 [著]合田正人

[評者]鷲田清一(大谷大学教授・哲学)  [掲載]2013年07月28日   [ジャンル]人文 

表紙画像 著者:合田正人  出版社:河出書房新社 価格:¥ 1,575

■「問い」を問い直すラジカルな人間論

 「幸福だった」というふうに、幸福は失ってはじめてわかる。あるとき幸福を感じても幸福感というものは長続きせずに凡庸な日常へとすぐに均(なら)されてしまう。幸福への問いは難儀なものだ。
  幸福というテーマは、西洋の歴史において、19世紀までずっと哲学思想の核心にあった。ところが20世紀も四半世紀過ぎたころから、不幸論はわずかながら あっても、幸福へのパスポートのようなマニュアル本はあっても、幸福の思想は消えてしまう。世界大戦、アウシュビッツ、スターリン体制下での粛清、ヒロシ マ・ナガサキなどの"殲滅(せんめつ)"がくり返され、人間性というものが再起不能なまでのダメージを受けたということがあるのだろうか。
 ところが昨今、「国民総幸福量」(GNH)という国家発展の評価軸や、「幸福経済学」という名の実証研究など、幸福論のインフレーションが起こりつつある。それらを横目で見ながら、著者は、幸福の思想史に正面から取り組む。
 まず、古代ギリシャの幸福観をいくつかの原型に分類し、近代西欧社会へのそれらの残響を細かに確認しつつ、いくつかの系譜とそれらの交叉(こうさ)を描きだす。この見取り図はとても勉強になる。
  次に、19世紀末から1930年にかけて出版された、ヒルティ、アラン、ラッセルの3大幸福論を読み解く。多くの人がきれいごとばかり書かれているのだろ うと読まずして思い込み、正面から論じられることもめったになかった3書の学史的ないし政治的な背景を仔細(しさい)に探ることで、これらを歴史の文脈の なかへ置き戻す。
 最後に、「幸福とは何か」「人はいつ幸福となるか」といった問いが無意味である理由が論じられる。人間の本質とか本性といった ものを前提として、その属性として幸福を語ることはできず、逆に、幸福という「何だか分からないもの」への問いが人間性なるものの問いなおしを促すのだ、 と。
 人びとが深く執着してきた幸福という観念が、社会のなかでいわば疑似餌(ルアー)のような役割を果たさせられてきた事実に対抗するかのよう に、著者は「『幸福』という語は、人知れず生まれて消えてゆく個体のあるかなきかの、しかし無限な『特異性』の肯定である」と書きつける。
 わた したちは「私」という自己理解を溢(あふ)れ出る波動のようなものとして、いつもすでに他者たちのそれと細部にいたるまで交差しあい干渉しあっており、そ の界面に浮かび上がる波紋の一つとして幸不幸はあるということだろうか。幸福論はここで、遊牧民のように異郷を旅してきたこの哲学者ならではのラジカル (根底的)な人間論となっている。
    ◇
 河出ブックス・1575円/ごうだ・まさと 57年生まれ。明治大学教授(哲学・思想史)。著書に『レヴィナスを読む』『ジャンケレヴィッチ』など、訳書にレヴィナス『存在の彼方(かなた)へ』、メルロポンティ『ヒューマニズムとテロル』など。

この記事に関する関連書籍

幸福の文法

著者:合田正人/ 出版社:河出書房新社/ 価格:¥1,575/ 発売時期: 2013年06月

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レヴィナスを読む

著者:合田正人/ 出版社:筑摩書房/ 価格:¥1,365/ 発売時期: 2011年08月

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ジャンケレヴィッチ 境界のラプソディー

著者:合田正人/ 出版社:みすず書房/ 価格:¥6,510/ 発売時期: 2003年08月

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存在の彼方ヘ

著者:レヴィナス,E.(エマニュエル)、合田正人/ 出版社:講談社/ 価格:¥1,470/ 発売時期: 1999年07月

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ヒューマニズムとテロル 共産主義の問題に関する試論

著者:モーリス・メルロ=ポンティ、合田正人、木田元/ 出版社:みすず書房/ 価格:¥3,150/ 発売時期: 2002年07月

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asahi shohyo 書評

ヨーロッパ文明の正体—何が資本主義を駆動させたか [著]下田淳

[評者]水野和夫(日本大学教授・経済学)  [掲載]2013年07月28日   [ジャンル]経済 

表紙画像 著者:下田淳  出版社:筑摩書房 価格:¥ 1,680

■解明の鍵は「棲み分け」にあり

 鉈(なた)で一刀両断されたような良い意味での重い読後感が残り、あらゆるものを数値と結びつけて考えたがる「理系バカ」が支配する現代社会から脱しなければ、日本の未来はないという著者の主張にとても共感できる。
 ヨーロッパ文明は12世紀に始まり、これを解明する鍵は「棲(す)み分け」にあるとするのが本書の核心である。とりわけ富の棲み分けと職の棲み分けが農村に「貨幣関係のネットワーク」を成立させ、資本主義をもたらしたという。
  そして、資本主義を効率化させていったのが「時間・空間の能動的棲み分け」だった。これは聖俗の棲み分けに他ならない。「教会という空間を整理整頓して礼 拝のみの空間とし、礼拝の時間と俗生活の時間をタイムスケジュール化して分離する」からである。この棲み分けは必然的に「均一化」と「排除」を生み、空間 を棲み分けて最終的に到達したのがナショナリズムだった。資本主義およびナショナリズムを理解するにはキリスト教、とくにカトリックの理解が不可欠だとい うことがよく理解できる。
 なぜ非西欧では日本だけが明治維新で西欧化に成功したのかについても説得的である。日本でも江戸時代から富、職の棲み分けがある程度は行われていたからだと、具体例を挙げて証明している。
 富の棲み分けは理系人間、すなわち「職人」という技術者を重用し、17世紀の「科学革命」へと繋(つな)がって、あらゆるものを数値化していった。
  しかし、「理系バカ」が主導する「理系資本主義」はもはや限界に達し、ここから日本が脱することから始めなければいけないと本書は主張する。「過度」と 「速さ」の理系型ではなく「適度」「遅さ」の「文系資本主義」の道をとれというのだ。18歳のとき数学ができないという理由だけで文系コースに進んだ評者 としては、再チャレンジのチャンスだと勇気が湧いてきた。
    ◇
 筑摩選書・1680円/しもだ・じゅん 60年生まれ。宇都宮大学教授。歴史家。『ドイツ近世の聖性と権力』

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2013年7月29日月曜日

asahi shohyo 書評

バカに民主主義は無理なのか? [著] 長山靖生

[評者]市川真人(文芸批評家・早稲田大学准教授)

[掲載] 2013年07月26日

表紙画像 著者:長山靖生  出版社:光文社 価格:¥ 861

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■理想的ではない社会で最悪ではない選択をするために

 7月の参議院選挙が終わって、2012 年の暮れから続いた民主党中心から自民党中心への政権交代期も終わった。参議院の半数が改選された2010年の前回選挙からここまでが一続きの流れだった と言ってもよいし、民主党が大きく議席を伸ばして自民党からの政権交代への道筋をつけた2007年の参議院選挙から6年間が終わった、と言ってもよいだろ う。「一度やらせてみてください」という2009年衆議院選挙の民主党のキャッチコピーを踏まえれば、有権者たちが民主党に「やらせて」みてからダメだっ たと判断して自民党に戻すまでの4年間だった、ということになる。
 民主党政権のどこがどうダメだったのか——無謀な大言壮語だったのか、野党の 立場や有権者からは見えぬ困難や計算違いがどのようにあったのか、実力不足か、まれに見る天災が襲った不運なのか……等々——は、有権者各自が判断する、 あるいはすでにしたところだろう(リベラル政権の成立に長らく期待して、いまも期待せずにはいられぬ身から見てすら、報じられる民主党政権の姿は内輪モメ だけでもため息が出るほど酷〈ひど〉かったけれど)。だが、個別の判断はさておき、「やらせてみた」4年間が意味あるものになるためには、「やってみた (やらせてみてもらった)」民主党自身と、官僚はじめ彼らと連携して政治にあたった者たちが、(責任を問う/問われるを棚上げしてでも)可能なかぎり客観 的に把握し記述する必要がある。あまたの失敗を繰り返しながら電球を発明したトーマス・エジソンはじめ、多くの先人たちが失敗を"うまくいかない方法の発 見"と捉えてきたことでもわかるとおり、"ただの失敗"と忘却することこそ、失敗をもっとも無意味な失敗に留めるからだ。
    ◇ 
 そのことは、"ダメだった"と判断した有権者にとっても同様だ。
  仮に「やらせてみた」のが失敗だったとして、単に"やらせた相手が悪かった"から元に戻せばよい、という話ではあるまい。それでは、選挙民としての失敗も "ただの失敗"で終わってしまい、経験として積まれない。そもそも「やらせてみた」理由が、直前に政権を担った自民党の第1次安倍政権および麻生政権に納 得いかなかったからであるのなら、もとに戻すときには"自分たちの判断がまちがっていて、あなた方が正しかった"のか、それとも"あなたたちの方がまだマ シだった"という相対判断なのかを考えない限り、エジソンのような"うまくいかない方法"を発見できずに終わるだろう。
 だが、結論が前者と後者 のいずれであっても、(「やらせてみた」もふくめて)そこに共通するのは、それらの判断と選択が、主権行使の一定期間の白紙委任"を前提とする代議制の前 提の下で行われていることだ。それが議会制民主主義の前提と言うべきものであることは確認するまでもないだろう。だが、前近代的な封建制から、制限選挙を 伴うとはいえ天皇を戴(いただ)く事実上の君主制だった戦前と占領下にあった終戦直後を経て、この国の議会制民主主義下で実質的に初めての経験とすら言え る長期間の政権交代は(わずか8か月しか存在しなかった1993年の細川護熙内閣は、選挙制度改革以外のことをほとんどしなかった)、そうした制度をあら ためて考える、初めての契機でもありはしまいか。いったい、選挙とそれに基づいた今日の民主主義とは、いかなるものであるのだろうか。

 ■約半数が棄権する選挙

  『バカに民主主義は無理なのか?』という扇情的なタイトルの本書は、現代の代議制民主主義について、たとえば次のように言う。「選挙制度の最大の欠陥は、 立候補した人間のなかからしか、われわれの代表を選べないという点にある」つまり「出したい人ではなく、出たい人からしか選べない」。
 なるほ ど、とひざを打つ人も少なからずいるはずだ。どの政党、どの候補者であれ、街頭演説や氏名を連呼する選挙カーに対する、あの既視感と倦怠(けんたい)は、 結局のところ、候補者たちの誰もが「俺が俺が」と自己主張する凡庸さと決して無関係ではないだろう。といって、「謙虚で静謐(せいひつ)な生活を好むよう な人は、選挙には立候補しない」のだから(たとえ周囲に推されて立候補した人であっても、選挙というフォーマットに乗った瞬間に、謙虚さや静謐を身にまと うことは難しくなる)、そういう人を選ぶことは現状の選挙では容易ではない。"恥ずかしげもなく立候補する権力欲と自己主張の持ち主など、自分たちの代表 に認めたくない"と考えるひとがいたとして、それが選挙である限り、そう考えるひとたちの選択肢は"自己主張するひとのなかから消去法的に選ぶ"か"棄権 する"かのいずれかになる(その"出口なし"を解決するためには、積極的な棄権を選挙結果に反映するシステムを作るほかない)。
 今回の参議院選 挙で言えば投票率は50%そこそこで(戦後に参議院が発足して以来3番目に低い52.61%だった。過去の投票率は、高かったのが1980年の 74.54%を筆頭に70%台が4回、低いのは50%台が10回。95年の第17回の44.52%を最低に、92年以降はずっと50%台以下が続いてい る)、比例代表で自民党の得票率が34.7%、民主党のそれが13.4%なのだから、全政党中最多得票だった前者でも全有権者の約18.3%、後者に至っ ては約7%程度しかいない。
 といって、"だから、選挙は民意を正確に反映していない"という紋切り型をここで繰り返したいわけではないし、"風 が吹いた"だの"吹かなかった"だのと、無党派層の動向を惜しみたいわけでもない(「小泉旋風」が吹き荒れたことになっている01年の参院選でも、投票率 は56.44%で最多得票の自民党の得票率は38.57%、つまり全有権者の21.8%が投票したに過ぎないのだから、棄権した43.56%の半分でしか ない)。
 人々の半数近くが選挙に行かない/行きたくないことがここまで常態化し、全有権者の1/4とか1/5の得票によって選挙制度も包含する "憲法"改定の発議すらも可能な議席数が得られてしまうなら、"行かないヤツが悪い""行けば変わる"等々と変わらぬ繰り言を続けるだけでなく、ごく一部 の民意しか反映できない制度そのものを問う方が合理的というものだ。勉強ができない子どもに向かって"勉強しないお前が悪い"とか"やればできるようにな る"とか"やってもらわないと困る"と言うことは、一度や二度ならあってもよいが、そのお小言を半世紀続けてもできないままならば、勉強の仕方を問い返す か、勉強そのものが向いていないと別の道を探してやるか、どちらかが必要なのと同じことだ。
    ◇ 
 考えてみれば、1945年の普 通選挙以後に生まれ育った私たちは、選挙による代議制こそが民主主義の唯一無二の手段であると信じているフシがある。戦前の選挙が25歳以上の男性のみを 対象としたものだったり時期によって納税条件があったり、そもそも主権が国民にあると明記されていなかったり、さらには議会選挙すら存在しなかった時代を 思えば、そう信じても無理はない(し、実際それらよりはマシだろう)。
 だが『バカに民主主義は無理なのか?』は、「選挙に行くことだけが政治参加なのか」と、「『民主主義』の可能性と限界について」考えることから始めようとする。
  いわく、「民主主義は、そもそも問題がある制度だということも、昔から言われてきた」と。デモクラシーの由来を持つ古代ギリシャでは「民衆はバカだと思わ れており、その『バカ』が口を出す」悪政のひとつとして民主主義が捉えられていたし、ある程度民主主義が達成されたと考えられている国でも、徹底した民意 の反映を望む者にとっては「現行の議会制民主主義では十分に民衆の意見が反映されていない」と感じられる半面(民衆が多種多様で利害も相互に対立する以 上、当たり前だ)、「民衆の不見識のために『正しい選択』が行われず、社会が混乱している」という不満も生じる。エリート官僚を含む知識人による「行き過 ぎた民主主義批判」が生じる危うさがある一方で、「見かけは民主的であるような体裁をとりながら、実際には寡頭制」になる危惧もある(政治家の世襲制度は 事実上の寡頭制だと言うこともできる)。

 ■まるで「同意の表明システム」

 なかで、今日の私たちにまず興味く映るの は、20世紀前半のオーストリアの経済学・社会科学者のJ・A・シュムペーターを引用して著者の語る「選挙制度とは、『民衆の声を政治に届かせるデモクラ ティックな形態ではなく、上位権力が要求する同意の表明システムに過ぎない』」というくだりだ。
 行為としての"選挙"とは、議員(およびときに 彼らがその時点で所属する政党)を選ぶ行為以上でも以下でもない。彼らはしばしば"マニフェスト"等の名で政策を掲げるがそれがそのまま実行されることの めったにないことも、政策や政党を変えても任期中の議員が議席を失うわけではないことも、結果的に、選ばれているのが第一に"人"であることを示してい る。そうして、その"人"が能力や人格ですらなく"人"そのものであることは、公約した政策を実行できぬ力量不足が露呈してもその議員が辞職するわけでは ないことに明らかだし(その場合、間違っていたのは議員ではなく政策だった、ということになる)、最善を尽くすという前提=名目で「選挙で勝ったのだから 在任期間に何をしてもよいだろう」的な傲岸不遜(ごうがんふそん)な勘違いが導かれることも、よくある光景だ。
 そうした不都合は、すべて、「選 挙によって選ばれた議員たち(の多数派)で構成される政府の行うことである」という理由によって、有権者たちを納得させることで埋め合わされる。その議員 たちに投票した者たちは(自分たちが選んだのだから、という理由で)もちろんのこと、落選した候補者に投票した者たちも(自分たちは少数派なのだから、と いう理由で)渋々とであれ納得するか、一歩引いたところから反対を表明する(させられる)ことになる。しかも、少なくない"国務大臣"や"委員"たちが自 身の専門外の役職に就き、専門家である官僚らの用意した原稿をもとに答弁を行う現状を見れば、いよいよそれは儀式めいてくる。原始の王から前近代の封建君 主たちが、"占い"や"言霊""血統"あるいは"武力"などを駆使して自身の権力の正当性を示そうと試みたのと同様に、議会制民主主義はしばしば、上位権 力である者たちの振る舞いを「主権者」であるはずの者たちに納得させる儀式として機能するわけで、"言葉(政策)"ではなく"人"で選ばれた"議員"なら ぬ"儀員"とは、しばしば、そこで演じる"役者"たちの別名であるだろう。「同意の表明システム」というのは、そのような意味においてである。
    ◇
  このように考えれば、一般には"主権者である国民の、(ときに、ほとんど唯一無二の)政治参加の方法"のように感じられる現状の"選挙"と"代議制"が、 けっして唯一無二のものでなどないばかりか、ときに逆方向の力として機能するものであることがわかる。もちろんそのことが選挙や代議制のすべての意義を否 定するものでなどないが(もとより1から10まで個々の有権者の願望や意志と合致する代議員などいるはずがない以上、意見を反映することと同じくらいに意 見を無視あるいは抑圧することも代議制の目的のひとつだ)、あくまでそれは、あまたありうる制度のなかのひとつ、弱点を多々持った"ひとつだけしか選べな いとしたら、現時点で相対的にマシ"だったものでしかない。
 代議制が最大に機能するのは、その政府に対して主権者たちが"NO"を突き付ける瞬 間と、それを前提にした権力監視システムとしてだ(『バカに民主主義は無理なのか?』はそれを、政府が自然法に反する行為を繰り返した場合に国民が行使す る"革命権"と結びつけている)。とすれば、投票率が下がり続けて50%台前半をうろうろする(地方選挙の場合はしばしば下回る)選挙の「棄権率」は、現 行の代議員と候補者に対する否認であると同時にそれ以上に、現行の制度に対する不信任なのではないか。明治維新以後に輸入され、民主主義を担保するものと 考えられ続けてきた"選挙=最強"の民主主義観は、決して唯一無二のものではない。なにしろそれは、今日のような各人が身につけたモバイル端末で構成され た電子ネットワークの情報環境など夢にも思えなかった当時のシステムで、馬車や鉄道で運ばれる郵便や新聞が最良の通信手段だった時代の技術なのだ。21世 紀の私たちが、そのシステムに縛られ続ける必要が、どこにあるだろうか。「選挙制度改革」が、"一票の格差"の問題や議員定数の問題に矮小(わいしょう) 化され、投票率をここまで下げて選挙を虚しくさせてきたこの国の議会政治と政治家たちのありかたや選ばれかたについて踏み込もうとしないこと自体が、有権 者の想像力を狭いところに押し込めている幻影なのだ。
 「選挙に行っても何も変わらないよ」という呟(つぶや)きを、従来のようにただの怠惰と捉 えるのでも、百年たって結局、失望しか生まなかった「選挙に行けば変わる」という明治以来の夢を共有しつづけることでもなく、(まして、そのような制度で 選ばれた代議士たちが、彼らを選ぶ制度の根幹にある憲法を変えようとしているならばよけい)私たちはそろそろ、考え始めなければならない。

 ■「バカ」に込められた意味は

  そんなとき、『バカに民主主義は無理なのか?』はとても示唆的かつ実践的な一冊になる。タイトルのインパクトとは逆に、同書はひどく真面目な本だ(そう書 いてしまうと、あえて扇情的な題名をつけて興味を引こうとした著者の意図を裏切るようで悪いけれども)。先に引用した「出たい人からしか選べない」問題を はじめ、世襲政治家やポピュリストといった巷間言われる問題や、「バカが選挙権を持っていいのか」という疑問以上に深刻なのは「バカが政治をやっていいの か」であり、「嘘つきや私利私欲の徒でも、かしこければ政治を任せていいのか」という入りやすい問いを間口に、民主制が幕末の日本に移入された経緯からそ の根源としての古代ギリシャの民主制に遡(さかのぼ)ってプラトンやアリストテレスに学び、ホッブズの議会制民主主義やロックとルソーの社会契約論、そし て日本の議会制民主主義が根付いてゆく歴史に至るまでを、わかりやすく整理してゆく。同時に、日本国憲法の成立過程やその理念、社会的指導者層が暗黙のう ちに大衆を見下し、大衆が自分たちを拒絶しないものとしてのファシストやポピュリストたちに引きつけられてゆく構図、そして戦後の日本政治のありかたなど が、わかりやすく語られてゆく。
 そのような同書の出発点であり終着点は、繰り返すが、「『民主主義』の可能性と限界について」つまりは"民主主 義とはなにか"にある。そしてその一端を著者は、「民主主義にいいところがあるとしたら、それはこの制度が『われわれが生きている世の中は理想的ではな い』ことがわかりやすいところだ」という。それは、単に制度やその制度で選ばれた政治家たちが「理想的ではない」からだけではなく、私たち自身が「愚か で、欲張りで、ずるく、卑怯(ひきょう)未練なところを持っている」「完璧ではない」存在であり、そういう人間の代表者たちが行う政治もまた、「ひどく愚 かで、ひどく強欲で、ひどくずるいもの」でありうるのだ、と。
 かつてギリシャのプラトンが「哲人政治(最高善の認識に達し、知的にも倫理的にも 完成された存在による至上の専制)」を夢見たころは、まだ世界は狭かったし、人間の数も少なかった。社会を支える奴隷たちは、そもそも民主主義の枠から外 されていた。人々が知りうる情報量や視野に収めなければならない世界も、ずっと小さかった。
 けれども、人口も規模も情報流通の量も速度もはるか に肥大した今日の社会でそのような"哲人"を求めようとすれば、それはジョージ・オーウェル的な非人間的「ビッグ・ブラザー」にならざるをえないし(そう すればよいというのではない、むろん)、それに対して私たち個々人は、相対的により矮小たらざるをえない。そして、だからこそ、自分たちの無知と無力を見 つめながら、考えていかなくてはならない。
 終章で著者は書く。「代議制民主主義は、まだるっこしい。異なる意見にも冷静に耳を傾け、粘り強く調 整を行わなければ、何も決められない。その過程で、さまざまな妥協を強いられる『バカ』は、その手続きに堪えられない。/しかし、あきらめてしまっては、 望みは達成できない。(…)そんな面倒なことはイヤだ、と利害調整抜きの断行を唱えるヒーローを望む者は、自分のなけなしの権利が、何の前触れもなく消滅 するのを知るだろう」
 そのことは、『バカに民主主義は無理なのか?』という書名を見て、政治家や有権者を「バカ」と感じてシニカルに同意した者 にも、自分が「バカ」に含まれると感じて面罵されたと苛立(いらだ)った者にも、"そうだよ、無理だよ"と諦めようとした者にも、同等に響いてくる。「バ カ」とは知能や知識といった能力や、まして学歴や社会的地位のことではない。自分のいまの限界を超えて知ろうとしないこと、いまの枠組みを離れて考えよう としないこと、思考を感情を肯定するための道具として使って省みないこと、その態度こそが「バカ」なのだ。私たちは誰もが常に「バカ」に陥り、しかし「バ カ」でなくなる契機を持っている。民主主義はそのことについて考えさせる、最大の契機のひとつであるはずだ。

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