和同開珎に量産工程 平城京で「種銭」、地方へ配給か
平城京で見つかった和同開珎の種銭用の鋳型。種銭を造り、地方へ配給していたと考えられる=奈良文化財研究所提供
和銅開珎の大量生産のイメージ
奈良時代に流通した国内最古級の貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」(銅銭)は、平城京(奈良市)で鋳造の元となる「種銭(たねせん)」を造った後、こ の「種銭」が地方の銅生産地に配給され、大量生産された可能性があることが国立文化財機構奈良文化財研究所の調査でわかった。平城京で過去に出土した鋳型 が「種銭」用だったことが最近の分析で明らかになった。規格を統一するため、中央に「種銭」の官営工房を置いていたとみられる。
奈文研によると、和同開珎の鋳型の破片数百点が79年に平城京の中心部から見つかった。鋳型は730年代に造られたもので、場所は平城宮から約1 キロしか離れていなかった。平城京内の「造幣局」について記述した文献がなかったため、これまではニセ銭造りの跡とみられてきた。
しかし、奈文研の松村恵司・都城発掘調査部長が07年度に実施した実験で、銭を鋳造した場合、完成品の大きさが原型より1.78%収縮することが 解明された。この数値を元に松村部長が79年出土の鋳型について再計算したところ、本物の和同開珎(平均直径2.45センチ)より一回り大きい銭(同 2.53センチ)ができることがわかった。さらにこの銭から再び型を取って銭を造り、側面を磨くなどして仕上げると、本物とほぼ同じ大きさになった。
ニセ銭の場合は、本物から型を取るため本物より一回り小さくなるという。この結果から、出土した鋳型は「種銭」用だったと判断した。
和同開珎を製造する際は、まず木を彫った原型銭を粘土に押しあてて鋳型とし、「種銭」の元となる母銭を造ったとみられる。原型銭は見つかっていな いが、平城京からは以前、母銭とみられる和同開珎1枚が見つかっている。直径は2.59センチで、「種銭」よりさらに一回り大きい。
730年代には銅の生産地がそばにある山口県下関市や、都に近い京都府木津川市の2カ所に「鋳銭司(ちゅうせんし)」と呼ばれる造幣局があった。原 料の銅を都まで運ぶにはかなりの労力がいるため、中央で「種銭」を製造した後、生産地に送り、現地で大量生産したらしい。「種銭」用の鋳型自体は地方に送 らず、中央で厳重に管理していたとみられる。中央にも銭を管理する「鋳銭寮(ちゅうせんりょう)」と呼ばれる役所があったが、詳しい役割はわかっていな かった。
松村部長は「鋳銭寮が自ら種銭を造り、地方へ供給していたのだろう。大量発行した和同開珎の規格を全国一律で維持するためにはなくてはならない措置だった」と推察している。(渡義人)
〈栄原永遠男・大阪市立大大学院教授(日本古代史)の話〉これまで地方のあちこちに鋳銭司が置かれたことはわかっていたが、どうしてそういう体制 が可能だったのかよくわかっていなかった。貨幣を造るうえでは、国家が一元管理することが重要。和同開珎を大量生産するシステムが見えてきたことは非常に 興味深い。
〈和同開珎〉和銅元(708)年に武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)で見つかった自然銅が朝廷へ献上されたのを機に造られた貨幣で、今年で発行 1300年を迎えた。8〜10世紀に国家が発行した皇朝十二銭のうち最も古い。円形で穴があり、時計回りに4文字が記されている。平城京造営の資金をひね り出すのが発行の目的とみられ、造られた量は不明。ニセ銭造りも横行し、畿内やその周辺以外ではあまり流通しなかったとされる。これまでに全国から約5千 枚が出土しているが、うち約3千枚は平城京内。かつては「日本最古の貨幣」とされてきたが、現在では飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)などで出土した7世紀後 半の富本銭(ふほんせん)が最古と考えられている。
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