2011年6月30日木曜日

asahi food industry Kirin new beer koori on the rock

オンザロックで飲むビール キリン、コンビニで7月発売

2011年6月30日16時52分

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写真:キリンビールが発売する「アイスプラスビール」拡大キリンビールが発売する「アイスプラスビール」


 キリンビールは29日、氷を入れて飲むビール「アイスプラスビール」を7月27日、全国のコンビニエンスストアで夏季限定で発売すると発表した。ビールの新商品は約3年ぶり。節電での暑さ対策を追い風に、新しい飲み方を提案する。

 ビールは5度前後が適温とされるが、氷を入れると0度近くになる。氷が溶けると味が薄くなってコクが落ち、酸味や苦みを感じやすくなるといった弱点を克 服するため、かんきつ系の香りが特徴のカスケードホップを使うなどして濃いめの味に仕上げた。開発担当者は「バニラアイスを入れてもおいしい」と話す。

 近年、ビール系飲料の新商品は、出荷量が伸びている第3のビールに集中しており、「本家」のビールは少ない。キリンでは2008年以来となり、新しい飲み方とともに売り出すことで、販売増を図る。店頭の想定価格は350ミリリットル缶入りで217円程度。







2011年6月29日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2011年06月28日

『フィクションとディクション—ジャンル・物語論・文体』 ジェラール・ジュネット (水声社)

フィクションとディクション—ジャンル・物語論・文体 →bookwebで購入

 本書はジュネットがテクスト論三部作の後、1991年に出した文学論集である。表題にある「フィクション」とはもちろん虚構のことだが、「ディクション」diction とは語り方、言葉づかい、措辞をあらわす普通名詞である。

 『虚構と語り方』と訳そうと思えば訳せる本でジュネットは『アルシテクスト序説』で指摘されていた抒情詩がアリストテレスの『詩学』の基準では芸術とは見なされなかった問題に立ちもどっている。

 アリストテレスが芸術にあたえた定義は模倣(ミメーシス)であることだ。殺人や大災害が好きな人はめったにいないが、殺人や大災害を描いた映画や小説は多くの人に好まれる。映画や小説の中の殺人や大災害は殺人や大災害のミメーシスであって、現実の殺人や大災害ではないからだ。

 抒情詩が芸術と見なされなかったのは抒情詩の歌うものが感情のミメーシスではなく、詩人本人の真実の感情と考えられたからだ。抒情詩うんぬんなど という浮き世離れした話には興味がないという人がいるかもしれないが、ミメーシスを芸術性の基準にするならルソーの『告白』のような自伝や日本の私小説が 抒情詩も芸術——文学ではなくなるのである。

 ロマン主義時代の文芸学者は抒情詩を装われた感情を歌うとしてミメーシスにとりこもうとした。確かに多くの抒情詩は誇張された感情を歌うし、自伝 や私小説にも誇張はつきものだろう。しかし誇張のない抒情詩や自伝、私小説もないとはいえないし、歴史書やノンフィクション、論説、日記、書簡などが文学 とされることもある。スタンダールにいたってはナポレオン法典を文学と見なしている。抒情詩や自伝、私小説、事実を語った言説を文学にとりこむにはミメー シスとは別の基準が必要になるのである。

 そこで注目されたのが語り方である。ヴァレリーは普通の言語と詩の言語の違いを歩行と舞踏の違いになぞらえた。手段は同じでも普通の言語=歩行は なにかのためにおこなうのに対し、詩の言語=舞踏はそれ自体のためにおこなわれる。ローマン・ヤコブソンが言語の六つの機能の一つとした詩的機能も同様の 着眼である。普通の言語が意味をあらわす指示的機能に重きが置かれるのに対し、詩の言語はメッセージそれ自体に注意を集める詩的機能が重視されるというわ けだ。

 しかし詩なら脚韻、頭韻だったり音数律をとったりすることで特別な語り方であることがはっきりわかるが、散文ではそうはいかない。形式という目印のない散文の詩的機能とはどのようなものだろうか。

 ジュネットは「フィクションとディクション」という巻頭論文では読者の受けとり方の問題という結論を出すが、これは問題提起と受けとるべきだろう。

 第二章「虚構の行為」では物語的虚構にもどり、サールの言語行為論を手がかりに虚構が虚構であるとはどういうことかを考察し、第三章「虚構的物語 言説、事実的物語言説」では『物語のディスクール』と『物語の詩学』で展開した自身の物語論を再検証し物語と事実をわかつ客観的な指標がないことを確認し ている。

 さて最後の「文体と意味作用」である。文学作品かどうかが語り方の問題となると文体とは何かを問わなければならない。ジュネットはシャルル・バイ イ、ピエール・ギロー、サルトル、ネルソン・グッドマンの文体の定義を次々に検討し、グッドマンに共感を示しながらも、「文やその諸要素のような言語に固 有のミクロ構造レベルに現れる——あるいは構造よりはむしろ織物 texture のレベルに現れる——言説の形式的な属性」という無難な結論に着地する。

 泰山鳴動しての感がなくもないが、むしろ重要なのは文体を標準的な語り方からのずれ、際立たせるための特異な語り方とする根強い見方に対する批判 だろう。標準からのずれという見方は文体要素が離散的にあらわれるというシュピッツァーやリファテールの文体観を結果し、文体の統計的分析に道を開くこと になる。ジュネットはプルーストの文体観に依拠しながら、文体は文体事象の集合ではなく一貫した世界観によって「形を歪められた統語法」だという見方を打 ちだす。

 スリジーのシンポジュウムで「神は細部に宿る」というモットーを引用した文体学者に対しジャン=ピエール・リシャールは「私ならこう言うところです、神は細部のあいだに宿ると」と切り返したというエピソードをジュネットは最後に紹介しているが、ポスト構造主義に向かったバルトに対し、あくまで構造主義にとどまったジュネットらしい締めくくりといえよう。

→bookwebで購入

2011年6月28日火曜日

asahi shohyo 書評

大津波と原発 [著]内田樹、中沢新一、平川克美

[掲載]2011年6月26日

表紙画像著者:内田 樹・中沢新一・平川克美  出版社:朝日新聞出版 価格:¥ 777


 この惨事に学び、この国は何をめざすべきか。皮相にとどまらず、思想、歴史、宗教を見すえ、本質的に議論しよう。そう考えた3人が、東日本大震災から約3週間後、インターネットで動画配信された番組で語り合った内容に、加筆したものだ。

 いまだ、復興の先頭に立つべき「政治」は混迷を極め、まして福島第一原発がもたらした被害の深刻さは、日々、明らかになるばか りだ。今回の震災は、われわれが頼ってきた「成長神話」と、原発という"クリーン"なエネルギーを使って未来を生きる「エコ幻想」が完全に終わったことを 告げるものだという3人の認識は、古びるどころか、さらに重さを増す。さあ、原発をどうする?

表紙画像

大津波と原発

著者:内田 樹・中沢新一・平川克美

出版社:朝日新聞出版   価格:¥ 777

asahi shohyo 書評

野生哲学—アメリカ・インディアンに学ぶ [著]管啓次郎、小池桂一

[掲載]2011年6月26日

表紙画像著者:管 啓次郎・小池 桂一  出版社:講談社 価格:¥ 840


 北アメリカ先住民の一つイロコイ族は、何事かを決めるときにはその決定 が与える影響を7世代先まで考慮しなければならないとしていたという。原発事故によって、われわれは当座の繁栄と引き換えにいかに割の合わないギャンブル に参加させられていたかを思い知らされた。掛け金は子孫の未来だったのである。

 震災前に書かれた本書は、極端な反科学主義に陥ることなく、抑制された筆致で、自然を征服しようとした先進国の文明の限界を問 うている。管啓次郎の本文とともに、小池桂一による46ページの描き下ろしマンガ「太陽の男と大地の女」を収録。新書判サイズとは思えないイメージの広が りに圧倒される。

asahi shohyo 書評

即興の解体/懐胎—演奏と演劇のアポリア [著]佐々木敦

[評者]奥泉光(作家・近畿大学教授)

[掲載]2011年6月26日

表紙画像著者:佐々木敦  出版社:青土社 価格:¥ 2,520


■表現は「反復」か、探求誘う即興論

  即興演奏というと、新しい何かが次々産出されていくイメージがあるけれど、実際には既に知られたイディオムが繰り出されていくにすぎないのが普通である。 一方で、今まで誰にも知られず、また予期すらされていなかったことが起こるとしたら、それは真に驚くべきであり、その驚きが即興の場では何より求められて いる。そして、まさに驚くべきことに、それは実際に起こるのだ。となると表現者の課題は、驚くべき出来事をいかに意図的に組織するかになるわけだが、これ が根本的な困難を孕(はら)んでいるのは、何かを意図的に行うこと自体がすでに予期の外に出るのを不可能にしてしまう、その一事を考えても明らかだろう。

 本書で著者は、デレク・ベイリー、大友良英といった先鋭的演奏家の仕事、および日本の現代演劇に即しつつ、驚くべきことの出現 という即興の理念の実現可能性を理論的に探究して行く。記述は退屈さを厭(いと)わず徹底をきわめたあげく、結局それは無理だという、ある意味では最初か ら分かりきっていた結論に至り着く。だが、その否定の強さゆえに言葉は熱を孕んで、結論を超えて思考をさらに遠くへ運んでいくのが面白い。無理だと強烈に 確認することが、いや、まだ何かあるのではとの渇望を惹起(じゃっき)するのだ。

 ここで示された問題群は決して即興に限定されるものではない。自分の表現が退屈な「反復」にすぎないのではないかと疑う全ての 表現者に関わる問題である。小説家である評者は、自分の書きつつあるものが何かの「反復」であると感じながらいつも書いている。そしてそのことの意味を捉 え切れてはいない。

 本書の探求は、そもそも表現とは何かという水準にまで遡及(そきゅう)して、「反復」をめぐる思考へと人を誘うだろう。と同時に、フリージャズ以降の「前衛音楽」および現代日本語演劇の動向について、的を射た批評的知見を与えてくれる。

    ◇

 ささき・あつし 64年生まれ。批評家。著書に『ニッポンの思想』など。

表紙画像

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

著者:佐々木敦

出版社:講談社   価格:¥ 840

asahi shohyo 書評

紫式部の欲望 [著]酒井順子

[評者]楊逸(作家)

[掲載]2011年6月26日

表紙画像著者:酒井 順子  出版社:集英社 価格:¥ 1,365


■「したい」の塊、才女の素顔に迫る

 『源氏物語』——日本文学史上最高傑作である。読まなければと焦るものの、古典の持つ近寄り難いイメージや、54帖(じょう)・100万字というとてつもない長さなどの壁にぶち当たり、なかなか進まない状況に陥っていた。そんな時に本書に出会った。

 著者は、『源氏物語』のストーリーや時代背景をわかりやすく解説した上で、その構成、設定、展開ないし場面や人物の描写などと いった、半ば技術絡みのところにも着眼し、著者とされる紫式部を辿(たど)る無数の細い糸を一本一本手繰って、千年も前の「キャリアウーマン」の真の顔に 迫った。

 地位、才能、容姿——良い男とされるすべての条件を兼ね備えた王族の光源氏は、欲するままに、次々と平安の美女(醜女〈しこ め〉だったりもする)を物にし、人生を満喫していた。——そんな『源氏物語』のあらすじからは、豊かで男女関係においても極めて寛容で、現代よりも自由奔 放だったという印象を持つ。実際、もて男・光源氏のモデルとされる藤原道長は、紫式部とは恋仲であったともいわれているのだから、紫式部もきっと派手に遊 んだことだろう、と勝手に思い込んでいた。

 本書を開けば、目次に「嫉妬したい」「見られたい」「いじめたい」……、はらはらさせる文字が躍る。紫式部は「したい」の塊 だったという。しかしその所以(ゆえん)は決して派手に遊んでいたからではなかった。男性の世でもあった平安の世、いくら才能のある女性でも、男性に頼ら なければ独りで生きていける環境になかった。女であるつらさを喜怒哀楽の富んだ顔で、千年後の自由を享受する現代の女性たちに打ち明けているように感じな がら読み進んだ。紫式部も『源氏物語』もグッと身近にしてくれる一冊だ。

 指で、和風の装丁の表紙に触れながらページを捲(めく)る、そんな読み心地もまた、たまらない。

    ◇

 さかい・じゅんこ 66年生まれ。『負け犬の遠吠(ぼ)え』で婦人公論文芸賞。『女流阿房列車』など。

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紫式部の欲望

著者:酒井 順子

出版社:集英社   価格:¥ 1,365

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負け犬の遠吠え (講談社文庫)

著者:酒井 順子

出版社:講談社   価格:¥ 600

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女流阿房列車

著者:酒井 順子

出版社:新潮社   価格:¥ 1,575

asahi shohyo 書評

世界文学とは何か? [著]デイヴィッド・ダムロッシュ

[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)

[掲載]2011年6月26日

表紙画像著者:デイヴィッド・ダムロッシュ  出版社:国書刊行会 価格:¥ 5,880


■正典でなく結節点、翻訳通して豊かに

  大きな問いである。世界文学と聞いて、すでに編まれた全集を思い浮かべる人も多いだろう。戦後しばらくはまだ、日本文学と対置される形で欧米の文学を中心 にした世界文学全集が出版されていた。本書で「NATO文学」との揶揄(やゆ)も紹介されているが、もっぱら英仏露独の言語で書かれたテクストが文学的教 養の正典を形作り、大学の外国語文学コースにもかろうじてそれらの言語が残っているのは、NATO以前の、帝国主義時代からの流れだといえよう。

 そんななか、今年完結した池澤夏樹個人選による世界文学全集が辺境や女性に目配りしたラインナップを示して評判を呼んだことは記憶に新しい。あの全集には日本語作家の作品も含まれていた。世界文学が常に日本の外にあるわけではない、のだ。

 それにしても、文学作品は無数に存在する。何からアプローチすればいいのだろう? 本書の著者は、新しい正典を定めようとはし ない。むしろ、世界文学そのものが「一つの読みのモード」であり、時代や社会、読者によって自在に変わる可能性を持つことを示そうとする。世界文学は絶え ず更新され、読者からの働きかけを受けつつ読者の「いま」にも働きかける、という考え方は柔軟で魅力的だ。そこには正典ではなく、カフカのテクストのよう にさまざまな議論の結節点となる作品が存在する。読者はまず、自分の足がかりとなる結節点を見いだし、そこから読書の幅を拡(ひろ)げていけばいいのだ。

 世界文学は翻訳によって読者とつながっている。本書では作品を転生させる翻訳の功罪にも紙数が割かれている。翻訳がテクストを 変身させ、さらに流通が加工を施していく。たとえばゲーテの秘書だったエッカーマンの記した『ゲーテとの対話』が、中身はそのままゲーテ著『エッカーマン との対話』という本に変えられてしまったり。もしくは、グアテマラの先住民がおかれた状況を世界に知らしめたリゴベルタ・メンチュウの著書と、その英語版 がかなり違っていたり。さまざまな形で受容先の社会への「同化」を目指す翻訳は、明治以降の日本でも珍しくなかったはずだ。ただ、ダムロッシュは必ずしも 同化翻訳を否定しない。自身は比較文学者として多言語に精通し、原書に当たりつつ翻訳を検証してみせながら「世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品で ある」というテーゼを掲げる彼は、多くの作品がまさに翻訳のおかげで後世に残ったと考えている。

 教養としての世界文学から、「いま」を示す指標としての世界文学へ。ダイナミックな「読み」の磁場に、まずは飛び込んでみたい。

    ◇

 秋草俊一郎ほか訳/David Damrosch コロンビア大学教授を経てハーバード大学教授。元アメリカ比較文学会会長。世界文学に関する多くの著書がある。

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世界文学とは何か?

著者:デイヴィッド・ダムロッシュ

出版社:国書刊行会   価格:¥ 5,880

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ゲーテとの対話 上 (岩波文庫 赤 409-1)

著者:エッカーマン

出版社:岩波書店   価格:¥ 840

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ゲーテとの対話 中 (岩波文庫 赤 409-2)

著者:エッカーマン

出版社:岩波書店   価格:¥ 840

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ゲーテとの対話 下 (岩波文庫 赤 409-3)

著者:エッカーマン

出版社:岩波書店   価格:¥ 840