2012年12月29日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2012年12月26日

哲学の歴史 09 反哲学と世紀末』 須藤訓任編 (中央公論新社)

反哲学と世紀末 →bookwebで購入

 中公版『哲学の歴史』の第9巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本巻はウィーン体制成立から第一次大戦までの百年間のドイツ語圏の哲学をあつかう。副題に「マルクス・ニーチェ・フロイト」とあるようにシリーズの中でも要となる巻だが、マルクス、ニーチェとフロイトは異なる文脈で登場する。

 本巻は12の章にわかれるが、第1章フォイエルバッハから第5章ニーチェまではヘーゲル主義が解体していく過程なのに対し、第6章の新カント学派 以降はヘーゲルという重しがとれた後に新しい哲学が簇生していく過程として語られている。マルクスとニーチェは反ヘーゲルという文脈から離れられないが、 フロイトは世紀末の精神科学の一つという位置づけなのだ。フロイト単独では哲学史になじみにくいが、ディルタイやジンメル、マックス・ヴェーバーらとなら べられることでしかるべき場所をえている。

「総論 マルクス・ニーチェ・フロイト」 須藤訓任

 ハイネは『ドイツ古典哲学の本質』でドイツ観念論は来るべき革命を予告するものだと高らかに宣言したが、予言とはうらはらにウィーン体制下の反動の時代が到来し、ヘーゲル学派自体も右派、左派、中央派に分裂したというところから語り起こしている。

 ウィーン体制は1848年の3月革命で終わるが、革命もドイツ統一成就せず、以後上からの改革がドイツ各地で進められ、1871年のプロイセンによる「上からの統一」をむかえることになる。

 この時期大学の外で新しい思想が芽吹きはじめる。本巻の前半に登場する6人の哲学者のうち、フォイエルバッハとショーペンハウアーは一応大学で教 えたが私講師にすぎず、ニーチェは短期間古典文献学の教授として教壇に立っただけだった。マルクス、エンゲルス、キルケゴールはジャーナリストである。

 彼らは大学と縁がなかっただけでなく社会においても片隅にいた。ショーペンハウアーとキルケゴールは親の遺産で食べていたし、フォイエルバッハは 女実業家だった妻に食べさせてもらっていた。エンゲルスは親の工場を嗣いで資本家になり、マルクスはそのエンゲルスに仕送りしてもらっていた。ニーチェは 早々に大学を辞め、わずかな年金で糊口をしのいでいた。独立した章はたてられていないが、シュティルナーにいたっては妻の持参金を食いつぶしたあげくに離 婚し、借金まみれになって貧窮死した。現代思想の源流と呼ばれる人たちはそろいもそろって穀つぶしばかりである。

 1871年の普仏戦争の勝利によって統一ドイツが誕生すると上からの近代化が急速に進み、ドイツはわずか40年で世界第二の工業国にのしあがっていく。急激な近代化は社会に歪みをもたらしたが、この慌ただしい時代に本巻後半で語られるさまざまな精神科学が誕生している。

「フォイエルバハ」 服部健二

 ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは1804年に南ドイツのバイエルン王国に産まれる。父親のパウルはバイエルン王国の刑法典を制定した法学者で、「法律なくして罰則なし」という罪刑法定主義は近代法学に大きな影響をあたえた人であるが、『バイエルン犯科帳』やカスパー・ハウザーの観察記録を出版している。

 フォイエルバッハは聖書を耽読し、わざわざユダヤ人のラビからヘブライ語を学ぶほどの敬虔な青年だった。最初宗教哲学と神学を学ぶが、後に哲学に 転じヘーゲルの講義を受けるようになる。キリスト教では宗教的情熱を満足させられないことに気づき、スピノザの汎神論に引かれるようになったのだ。

 1828年にエルランゲン大学の私講師になるが、1830年にフランスで七月革命が起こると触発されて『死および不死についての考察』を匿名で出版。敬虔主義やキリスト教国家を批判したのがたたって馘になる。

 親の遺産を食いつぶしながら物書き稼業をはじめるが、1837年に女性実業家のベルタ・レーヴと逆玉結婚し、ブルックベルク城の見晴らしのいい二階を書斎にして好きな研究に打ちこむようになる。

 エルランゲン大学でおこなった『論理学形而上学講義』では霊魂としての自然が弁証法的に展開するというヘーゲル論理学を祖述し、『近代哲学史講 義』ではカントの二元論を克服したフィヒテの「生命の立場」や自然を自己産出的な創造力ととらえるシェリング、なかんずく生命を学にもらたらしたヘーゲル を評価している。1934年に刊行した最初の哲学史では自然を数量化したデカルトよりも感性を重視したベイコンや自然の質を重視するスピノザ、活動的な力 の概念を「物質の運動の究極の根拠」としたライプニッツを重視し、『ピエール・ベール』では啓蒙思想期の科学者はキリスト教神学と結びつくことによって自 然を「単なる機械」に貶めたと批判している。フォイエルバッハの自然は生命力をはらんだ感性的な自然であって、近代科学が対象とする数量的・機械論的自然 とは別物だったのだ。

 『ピエール・ベール』でもう一つ重要なのはキリスト教神学は「人類を自然から疎外し、自然の身になって感じたり、考えたりする能力を奪った」としている点だ。近代科学による自然の「疎外」という考え方がすでにあらわれていたのである。

 1841年は主著である『キリスト教の本質』を刊行する。フォイエルバッハは疎外の論理を拡大し、宗教は人間の自己疎外であり、「人間は自分の像に似せて紙を創造した」とするおなじみのキリスト教批判を展開するわけだが、これが大きな反響を呼んだ。

 マルクスは当初「社会主義に哲学的基礎をあたえた」と絶賛するが、後に「フォイエルバッハに関するテーゼ」で自然を観照的直観の立場から見るだけで実践の対象ととらえない古い唯物論だと厳しく批判する。

 本章の著者はフォイエルバッハにとって実践は自然を支配するための活動ではなく美的・理論的直観と結びついた活動だったとして、フォイエルバッハの実践概念に近代化至上主義を越える可能性を見ている。

 フォイエルバッハは人間が宗教を作りだしたのは窮迫のためだとしたが、その窮迫は物質的豊かさで解決されるようなものではなく、有限者である人間の条件だった。フォイエルバッハは書いている。

 限界のないところ、時間のないところ、窮迫のないところ、そこにはいかなる質もエネルギーも精神も炎も愛もない。窮迫した存在者だけが必然的な存在者である。窮迫のない存在者は根拠のない存在者である。受苦することができる者だけが実存するに値する。

 フォイエルバッハがこんなに深い思想家だったとは思わなかった。マルクスによって乗り越えられたわけではなく、むしろこれから読み直されるべき人のようだ。

 1859年には妻の経営していた製陶工場が倒産しフォイエルバッハ家は困窮するが、友人たちやシラー財団、ニュールンベルクの社会主義者が援助し、病床に就きながらも1872年に安らかな死をむかえた。

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Posted by 加藤弘一 at 2012年12月26日 23:00 | Category : 哲学/思想/宗教





kinokuniya shohyo 書評

2012年12月28日

『受動喫煙の環境学—健康とタバコ社会のゆくえ』村田陽平(世界思想社)

受動喫煙の環境学—健康とタバコ社会のゆくえ →bookwebで購入

「ジェンダー地理学の興味深い実践例として」

 ふと考えてみたのだが、タバコを吸う女性とタバコを吸わない男性とでは、どちらが肩身の狭い思いをするのだろうか。

 今日の日本社会で考えてみると、特に女性の若年層における喫煙者の割合は、10年ほど前まで一貫して増加し続けてきたという。最近ではやや減少傾 向も見られるようだが、その背景には、女性の社会進出の影響もあるのだろう。もはや男性と同等かそれ以上に活躍するキャリアウーマンの姿はまったく珍しい ものではなくなったが、それとともに彼女らが過剰なストレスを抱え、その発散に嗜好品を求めるのだろうということも想像に難くはない。


 そう考えると、女性がタバコを吸っても以前ほどは肩身の狭い思いをしないようになりつつあるのかもしれない。だが、空間に関する分析を得意とする地理学 的な観点からするならば、やや異なった見解がもたらされる。それはすなわち、いわゆる「喫煙室」が、依然として男中心の「男らしい空間」であって、そこで はタバコを吸う女性は相変わらずに、肩身の狭い思いをし続けているかもしれないということである。


 あるいは、これも本書が的確に指摘しているように、タバコを吸うというふるまい自体が、そもそも「男らしさ」と強く結び付いてきたものなのだといってよ い。とりわけTVCMなどでも描かれているように、タバコを吸うことが「男らしさ」を演出するための重要なアイテムの一つとして位置づけられ、それゆえ に、タバコを吸わない男性たちは、長きにわたって「男らしくない」存在として、肩身の狭い思いをさせられてきた。


 分煙化が進む前の、それも女性の社会進出が今ほど進んでいなかった頃の、オフィス空間に思いをはせるならば、それは隅々にまで、まさにタバコの煙と「男らしさ」の充満した空間であり、生存適応できないものを強烈に排除してしまうような空間であったと言えるだろう。


 またオフィス空間だけでなく、吸い殻が散乱し、歩行喫煙者が闊歩していたかつての路上空間もまた、過剰に「男らしさ」の充満した、排他的な空間であった ともいいうる。いわばそこは、子どもたちのような「喫煙弱者」にとっては、決してやさしい空間ではなかった(同様の点で、かつてのタクシー車内もそうした 空間であったと筆者は指摘している。この点は、まさに評者も、子ども時代にタクシーに乗るたびに気分が悪くなった記憶があるので、強く同意するところであ る)。


 このように本書は、今日の日本社会における受動喫煙防止に向けた取り組みとその立ち遅れている現状や問題点などを、ジェンダー地理学の観点に基づきつつ独自の視点から分析しているところに価値がある。


 タバコを吸う方も吸わない方も、お互いにより快適過ごせる空間を考えていくために、ぜひ読んで頂きたい一冊である。


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Posted by 辻 泉 at 2012年12月28日 02:52 | Category : 社会





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2012年12月28日

『ギャルと不思議ちゃん論—女の子たちの三十年戦争』松谷創一郎(原書房)

ギャルと不思議ちゃん論—女の子たちの三十年戦争 →bookwebで購入

「女子コミュニケーションの通史として」

 女子会という言葉がある。男子抜きで女子だけで気ままに集まる会合を意味しており、今や多くの人が知ることとなった言葉だが、先日、ツイッター上でその 裏側の定義ともいうべきものを見つけて、思わず笑ってしまった。すなわちそれは、「欠席裁判でいない女子の悪口をみんなで言い合う会」というものであっ た。

 この定義からも分かるように、女子のコミュニケーションにおいては、多数派(この場合、女子会の参加者)と少数派(同じく欠席者ないし非参加者) の間に線を引いて、前者は後者のことを「変だよね、変わっているよね」と噂することで同調圧力を保ち、後者も前者のことを「周りに流されてばかりでつまら ない人たち」と批判することで独自性を担保するという、いわば批判し合っているはずの両者の「共犯関係」ともいうべき関係性が存在しているということが重 要なのである。


 そして本書『ギャルと不思議ちゃん論』において、著者の松谷創一郎が看破したのは、女子コミュニケーションを理解する上では、その内容よりも、むしろこ うした「共犯関係」ともいうべき形式の方が重要であるということであった。すなわち、「多数派VS少数派」という形式のほうが長らく保たれてきており、そ の間では、コミュニケーションの内容がまるで180度入れ替わってしまったりもしてきたのだ。


 具体的に言うならば、1980年代に至るまでは、前期近代的な良妻賢母思想がほぼ残存し、多数派の女子とは、非性的な存在としての少女のことであり、むしろ性的に目覚めていたものたちは少数派として「不思議ちゃん」扱いされていた。


 それが、性愛的な快楽が席巻する1990年代を迎えると、むしろ性的に目覚めた(コ)ギャルたちこそが多数派に、そして少数派の「不思議ちゃん」こそはむしろ非性的な存在へと入れ替わっていくこととなったのである。


 こうした「多数派VS少数派」図式は、きわめて強固に、それも本書のサブタイトル(「女の子たちの三十年戦争」)が示すように長きにわたって、女子コミュニケーションを規定してきた。


 だが今後の展開については、さらに興味が惹かれるところもある。たとえば、著者も最後に示唆しているように、最近注目されている、きゃりーぱみゅぱみゅ などは、どちらかといえば「不思議ちゃん」に分類されるものと思われるが、かといって、かつての「不思議ちゃん」ほどマイナーではなく、むしろかなりメ ジャーな存在だと言ってよい。


 このように、「多数派VS少数派」を線引きするような共通の価値観(例えば性愛至上主義など)が弱り、個別細分化が進んでいくと、果たしてこの図式がど こまで続いていくのかという点については、疑問が生じてこざるを得ない面もあるし、事実そうした象徴とも言うべき女子たちが出現しつつある。


 しかしながら、こうした先々への視線を見開いてくれる上でも、そしてこれまでの女子コミュニケーションの整理された通史という点においても、本書は一読の価値のある著作といえるだろう。


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Posted by 辻 泉 at 2012年12月28日 03:38 | Category : 文化論




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2012年12月28日

『日本はなぜ敗れるか—敗因21カ条』山本七平(角川書店)

日本はなぜ敗れるか—敗因21カ条 →bookwebで購入

「「安倍晋三"想定外"内閣」成立時にこそ読み返すべき著作」

 先日行われた衆院選の結果、自民党が圧勝し、安倍晋三氏が再び首相の座につくこととなった。選挙での勝利それ自体については、大方の予想通りであったも のの、その後彼らが進めようとしている政策の内容は、この社会の多くの人々が期待していたようなものというより、むしろ温め続けてきた念願を、自分勝手に でも押し通そうというものに見えざるを得ない。

 果たして、震災からも復興もままならない今日の日本社会において、憲法の改正が喫緊の最重要課題なのかどうかは疑問が残る(もちろん、そうした意見を持つ人たちが一定数いることは確かだとしても)。


 この点において、今後安倍内閣が無理にでもこうした政策を押し通そうとするならば、この社会は、2010年3月11日に引き続いて、様々な「想定外」の事象に見舞われ続けるのではないか、といっても過言ではないだろう。


 さて、日本社会のこうした状況を振り返るとき、やはり先の大戦に関するいわゆる「失敗の研究」の蓄積を顧みることが重要だという思いを強くする。その中でも、私が選んだのは、山本七平氏の『日本はなぜ敗れるのか—敗因21カ条』である。


 本書は、長らく未刊行であった雑誌掲載論文が、2004年に著作の形にまとめられたものだが、その内容は1970年代後半に書かれたものでありながら、未だに今日の日本社会にとって有益なものである。


 サブタイトルにもある「敗因21カ条」とは、本書でも山本氏が大きく依拠している、小松真一氏の『虜人日記』から引用したものである。同書は、小松氏が 文官として戦地に赴き、さらに捕虜となった経験を踏まえて書かれた、戦争体験談と反省記であり、きわめて客観的に書かれたその内容に対して、山本氏は高い 評価を与えながら、日本の敗戦の原因について分析を進めている。


 その内容のどれもが、今日の社会においてもなお当てはまってしまうところが多く、いかにこの社会が進歩のないままに今日に至ってしまっているのかをまざまざと思い知らされるのだが、特に評者の印象に残ったのは、「第二章 バシー海峡」の内容であった。


 すなわち、「21カ条」の中の第15条では「バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」と触れているのだが、よく知られたミッドウェー海戦や南方諸島の敗戦で はなく、むしろ多くの人々にとっては馴染みのない「バシー海峡の損害」を重視しているところにこそ、この小松氏の指摘の的確さが表れているのだという。


 詳細は本書をお読みいただきたいが、そこでは、台湾とフィリピンの間の「バシー海峡」こそが補給路として最重点を置くべきところだったにもかかわらず軽 視され、むしろ先に例示したような決戦における敗戦に見えるような事象は、兵站が延び切ったことによる半ば当然の結果なのだという指摘がなされている。だ からこそ、忘れてはならないのは、そうした敗戦以上にも、「バシー海峡」という補給路を十分に確保できなかったことなのだ。


 恥ずかしながら私も本書を手に取るまで、「バシー海峡」という地名とその重要性を十分に理解していなかったのだが、そのように本当は極めて重要でありながら、跡形もなく忘れされていってしまうことがらが、この社会には多すぎるように思えてならない。


 とりわけ、福島第一原子力発電所事故の影響が、未だに続いている今日において、まるで何ごともなかったかのように、原発の新設や維持に向けた政策が打ち出される状況を目の当たりにすると、その思いを強くせざるを得ない。


 本書を、今このタイミングにこそ、多くの人々にお読みいただきたいと思う。


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Posted by 辻 泉 at 2012年12月28日 04:18 | Category : 歴史






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2012年12月27日

『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』 マーチャント (文春文庫)

アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ →bookwebで購入

 先日NHKの「コズミック・フロント」で「古代ギリシャ 驚異の天文コンピューター」という番組が放映された。

 1900年にギリシアのアンティキテラ島の沖合で古代の沈没船が発見された。大理石やブロンズの彫像など貴重な遺物が引きあげられ、独立して間もないギリシアに熱狂をもたらしたが、その中に緑青で覆われたブロンズの破片が何片かあった。

 ブロンズの破片は「アンティキテラの機械」と呼ばれることになるが、美術品ではなかったので長らく倉庫で腐食されるにまかされていた。

 しかしデレク・デ・ソーラー・プライスがX線写真をもとに複雑な歯車機構を復元し、カレンダー・コンピュータではないかという説を1974年に「ギリシア人からの歯車」という論文で発表したために一部で注目を集めることとなった。

 2005年からトニー・フリースが率いる国際チームがCT画像やCG技術などハイテク調査をおこない、太陽と月の位置ばかりか日食・月食まで予測できるアナログ・コンピュータであることを明らかにし世界的な話題となった。

 番組はフリースの国際チームを中心に「アンティキテラの機械」の精巧なメカニズムとその背景になった古代天文学、製作者はアルキメデス学派の流れをくむ人々ではないかという仮説を手際よくまとめていた。

 「アンティキテラの機械」についてもっと知りたくて本書を読んだが、番組では描かれなかった研究者たちの人間ドラマがみっちり書きこんであって面白かった。

 番組ではプライスからいきなりフリースの国際チームに飛んでいたが、その間の26年間にハイテクを使うまでもなくほとんど解明が済んでいたのである。

 本書には「アンティキテラの機械」の謎にとり憑かれた研究者が何人も登場するが、前半の主人公がプライスなら、後半の主人公はマイケル・ライトである。

 ライトはロンドン科学博物館工学部門の学芸員だった。ビザンティンの歯車付日時計の購入にかかわったことから古代ギリシアの歯車技術がイスラムに伝わったというプライス説を知り、「アンティキテラの機械」に関心を持つようになる。

 ライトは一介の学芸員だったし、博物館の方針が調査研究から入館者サービスに重点を置くようになったので公務として「アンティキテラの機械」にか かわることはできなかったが、シドニー大学の天体物理学者であるアラン・ブロムリーが「アンティキテラの機械」の調査をはじめると知り、助手になることを 申しでる。有給休暇を使い、滞在費は自費でまかなうという完全な持出しである。

 工作の得意なライトは原始的なX線断層撮影機を自作し、微妙な調整の必要な現像も自分でやるという手間をかけ、4年がかりで700枚余のX線写真 を撮影するが、あまりにも「アンティキテラの機械」に打ちこみすぎたために妻に離婚を言いわたされ、自宅から放りだされてしまう。

 しかも苦心して撮影・現像した写真はすべてブロムリーがシドニーに持ち帰ってしまい、論文が発表されることもなかった。

 ブロムリーが論文を書かなかった理由は5年後にわかる。彼は死病にかかり、研究をつづけるどころではなかったのだ。

 2000年11月ライトはシドニーを訪れ、自分が撮影したフィルムを受けとるが、ブロムリーはまだ「アンティキテラの機械」に未練があり、最も鮮明な写真はわたさなかった。ライトがすべての資料を受けとるのはブロムリーが亡くなった後の2003年のことである。

 フリースの国際チームが2005年9月から調査をはじめることはわかっていたのでライトは大急ぎで研究を進め、論文を次々と発表しはじめる。

 フリースは2006年11月にハイテク調査の結果をアテネで大々的に発表するイベントを開くが、ライトに敬意を表して講演を依頼したところ、ライ トはローテクでほぼ同じ結論に達していてライトの独演会になりかけたという。もちろんハイテク調査だからわかったことも多いが、ローテク恐るべしである。

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Posted by 加藤弘一 at 2012年12月27日 23:00 | Category :







2012年12月28日金曜日

asahi shohyo 書評

本当は怖い韓国の歴史 [著]豊田有恒

[文]朝日新聞社広告局  [掲載]2012年12月19日

表紙画像 著者:豊田有恒  出版社:祥伝社 価格:¥ 840

■韓流歴史ドラマから見えない悲惨で残酷な歴史の真実を描く

 「冬のソナタ」に代表される韓流 (ハンリュウ)ドラマは、最近では韓流歴史ドラマへとブームが移りつつある。ドラマに登場する人物は日本女性に限らず男性にも人気を博している。さて、本 書は韓国通であり、次々に韓国をテーマとした著作を出版してきた著者が明らかにする韓国の「本当の歴史」である。著者は言う。
 「王朝が滅びるたびに、多くの人々が異国へ強制連行され、婦女は犯され、多くが殺されるという歴史の連続だった」。著者は古代から近代に至る韓国の歴史をドラマと重ね合わせて解説する。
  本書を一読すると、この国が、我々には想像もつかない悲惨な過去を歩んできたことが分かる。その国民性は、有史以来2年に1回、これまで960回も異民族 の侵略を受けた歴史と無関係ではない。実際の歴史はドラマで描かれるよりもはるかに過酷であった。それだけに現在、放映されている韓流歴史ドラマは自国の 悲惨な歴史を塗り替えたいという願望を満足させるカタルシスの役目を果たしていると著者は指摘する。近くて遠い国、韓国を正しく理解するために、ぜひとも 読んでおきたい。

この記事に関する関連書籍

本当は怖い韓国の歴史

著者:豊田有恒/ 出版社:祥伝社/ 価格:¥840/ 発売時期: 2012年11月

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老けない生き方、暮らし方 [著]吉沢久子

[文]朝日新聞社広告局  [掲載]2012年12月19日

表紙画像 著者:吉沢久子  出版社:主婦の友社 価格:¥ 1,470

■人に頼らず、自分で生きるために必要な勇気と覚悟を教える

 著者には「人生の達人」という言 葉がふさわしい。戦争や震災を経て、94年を生きぬき、現役の生活評論家であり、ひとり暮らしを満喫している。心身が元気というだけではない。本書が紹介 するように、そのライフスタイル、すなわち自由で闊達(かったつ)な暮らしぶりが見事なのである。本書には、その題名通り、こんな風に年を取りたいと思わ せる秘密と魅力がつまっている。人生は年を重ねれば重ねるほど、味わい深くなることを、まさに実感させてくれるのである。
 来し方を振り返り「ひ とりで暮らせる、自立した人間でいたいとも、思い続けてきました」と言える人はそう多くはないだろう。91歳のときに脳のMRIを撮影したところ、70代 から老けていないだけではなく、むしろこの10年で右脳と左脳のバランスが良くなったという診断結果が出たこともうなずける。「やらなければならないこと から逃げずに、でも、夢はずっともち続ける」「いい人生のしまい方を考えることは、結局今をどう生きるかを考えることでもある」といった珠玉の言葉が読み 手の胸を打つ。

この記事に関する関連書籍

達人 吉沢久子 老けない 生き方、暮らし方

著者:吉沢久子/ 出版社:主婦の友社/ 価格:¥1,470/ 発売時期: 2012年11月

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簡単でヘルシーな一人ごはん [著]�畑康子・�畑真希子・福原洋子

[文]朝日新聞社広告局  [掲載]2012年12月19日

表紙画像 著者:高畑康子、高畑真希子、福原洋子  出版社:ペガサス 価格:¥ 1,470

■体の中から元気になる玄米と野菜中心のヘルシー料理

 学生から高齢者まで、老若男女を問わ ず、一人暮らしの人が増えている。外食や既製の総菜などは便利だが、いつもそれでは健康上、問題があるし、かといって、一人暮らしで手間ひまかけた料理は 面倒だ。そこで、楽しみながら手軽に作れ、おいしくて健康にもいい、そんな料理を紹介したのが本書である。最大の特徴は、玄米や分づき米のご飯と、野菜を まるごと使った料理が中心だということ。著者の一人、福原洋子氏が園長を務める幼稚園では、給食に発芽玄米ご飯、味噌(みそ)汁、煮物、和(あ)え物、納 豆という徹底した和食を取り入れ、高い評価を得てきた。玄米と野菜に青魚を加えた伝統的な和食で、体の中から健康になってほしい、というのが著者たちの思 いだ。
 一人暮らしを対象にしているだけあって、ご飯や麺類など主食のメニューが充実している。また主菜は、豆腐の鉄板焼きなど、簡単に作れるも のばかり。小松菜と油揚げの煮びたしなど、豊富な副菜の数々もうれしい。混ぜご飯だけ作り、あとは既製の総菜で、といった利用法も時にはいいだろう。調理 初心者の男性にもおすすめしたい一冊だ。

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簡単でヘルシーな一人ごはん

著者:高畑康子、高畑真希子、福原洋子/ 出版社:ペガサス/ 価格:¥1,470/ 発売時期: 2012年11月

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古書店、細やかに結ぶ縁 福岡・北九州の商店街に開店

[文]原口晋也  [掲載]2012年12月25日

来店客のない間、垣松さんはメールでの問い合わせに丁寧に返信したり、本の汚れを拭き取ったり=北九州市門司区老松町の中央市場内 拡大画像を見る
来店客のない間、垣松さんはメールでの問い合わせに丁寧に返信したり、本の汚れを拭き取ったり=北九州市門司区老松町の中央市場内

 福岡県北九州市の門司港地区の中心部から外れた商店街「中央市場」にこの夏、小さな古書店がオープンした。「古書肆(こしょし)らるしびすと」。 フランス語で「古文書の管理人」の意味だ。中古本の市場でも量販店が幅をきかせるご時世。人通りもさほどない市場に出店した店主は、小口の商いならではの きめ細かいサービスを模索している。
 店主の垣松三千人(みちと)さん(50)は、午前10時に店を開けると、水を軽く絞った布で新書のカバーを 丁寧にぬぐい始めた。鮮魚店、精肉店、乾物屋など食品関係の店が軒を連ねる市場にあって異色の古書店は、10平方メートルほど。天井からつるした裸電球 が、書棚にぎっしり並んだ1300冊を照らしている。
 「ローマ帝国衰亡史」や大学時代に学んだ仏語にちなんだフランス関連の本があるかと思え ば、「石川啄木全集」「子規全集」「横光利一全集」などアメ色になった文学全集も並ぶ。小さな店だから専門性を高めないとダメだと垣松さんは考えている が、まだ焦点を絞り込めていない。
 正午すぎ、赤ちゃんを抱いた主婦が、フランスの民話を解説した本を買っていった。今のところ来店客は日に5〜6人。購入する人はさらに少ない。
  それだけに、ネット販売は大きな柱だ。書棚にあった「上田敏訳詩集」を店のフェイスブックで見たという大阪の女性から、本の内容を知りたいとメールが届い た。目次など数ページを撮影して返信することにした。スミレ、キキョウなどの押し花が挟まったページもそのまま写して送った。
 「他の古本屋なら前の人が読んだ形跡を取り除くんだろうけど、これもこの本の歴史だから」
 女性からすぐ返信があった。〈購入します。本の中身と併せ、押し花も楽しみにしています〉。垣松さんは、顔をほころばせながら、お礼のメールをしたためた。〈文語の訳詩集なので、読むとリズムがあります。ぜひ音読してみてください〉
 長年、東京での書店勤めを経て帰郷し、店を開いた垣松さんは言う。「要は、ディスカウント品を売るのか、古本を売るのか。ぼくは後者かな」
 問い合わせは、垣松さん(070・5690・8844)へ。

この記事に関する関連書籍

海潮音 上田敏訳詩集

著者:上田敏/ 出版社:新潮社/ 価格:¥341/ 発売時期: 1968年

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asahi shohyo 書評

百年前の日本語 書きことばが揺れた時代 [著]今野真二

[評者]大貫妙子(シンガー・ソングライター)

[掲載] 2012年12月25日

表紙画像 著者:今野真二  出版社:岩波書店 価格:¥ 735

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たった百年で失われた「たおやかな表現」
  
 今年90歳で他界した父の書いた手紙や原稿を 見ると、「云(い)う」「難有い」など現代とは違う文字遣いが随所にある。自分のことは「小生」であるし、カタカナも使われている。どんなに現代の言葉を 読んでいても、書くときの言葉はやはり使い慣れた表現を最後まで通していたことがわかる。多分、それが自分の感覚を表すには相応(ふさわ)しいと思ってい たからだろう。
 「百年前の日本語」といっても厳密な百年前ではなく、明治期の日本語を取り上げ、現代と対照しながら、その変遷を追っている。
  外来語であるハンカチは「手巾」、漢語では「シュキン」、和語では「テヌグイ」を表すことができた。幸福は漢語で「コウフク」、和語では「サイワイ」また は「幸い」と表すこともでき、明治期は大きな「揺れ/動揺」の中にあった。「揺れ」というと不安定な状態を想像しやすいが、そうではなく、むしろ「豊富な 選択肢があった」と著者の今野さんは書いている。
 ところが現代は、使用する文字、漢字の音訓などに関して、できるだけ「揺れ」を排除し、一つの 語は一つの書き方に収斂(しゅうれん)させようとする傾向が強い。このような状態になったのは、日本語の歴史の中でここ百年ぐらいの間であり、それまでは 「揺れ」の時期がずっと続いていた。現代こそが歴史の中では、むしろ特殊な状況下にある、とも。
 本書では夏目漱石の「それから」と「坊っちゃん」の自筆原稿を採り上げている。それを読んでいくと、漱石が使用していた「非標準語形」は媒体を経由する間に「標準語形」に換えられて「読み手」に「わたされて」いたことがよくわかる。
  私も原稿をパソコンで書いているが、文書作成ソフトには「明朝体」が標準装備されているし、小学校の教科書の漢字や仮名もこの書体に基づき、それを私たち は覚えてきた。だから「行書体」も「草書体」も、なじみのない人たちがほとんどに違いない。意味がわかれば必要ないではないか、と言ってもよいが、やはり ここでもたった百年で嫋(たお)やかな表現を失ったのではないかという思いがする。
 ここで、「カエル」と「カイル」のお話。室町期には「カエル (蛙)」にあたる「カイル」という語形が存在していたという。まあ、今でも地方によっては「カイル」と言う方もいるので、それは「ピアノ」を「ピヤノ」と 言うのとそんなに違わないと思っているが、「なぞだて」と題された本の中に、「やふれかちやう かいる」という謎があるという。「やふれかちやう」は「破 れ蚊帳」のこと。
 で、「破れ蚊帳」とかけて「かいる」と解く。その心は?
 「蚊、入る」!!
 おあとがよろしいようで。

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