2010年4月28日水曜日

asahi shohyo 書評

ニッポンの刑務所 [著]外山ひとみ

[掲載]週刊朝日2010年4月30日号

  • [評者]青木るえか

■刑務所にロマンを期待しないために

 刑務所なら任せてくれ。日本各地の刑務所の隣みたいなところに住んで二十年を超えている。などといってもそれは塀の外であって、中から収容者の皆さんの運動の声などが聞こえてきたとしても、実際の生活なんか見えるわけはない。

 刑務所紹介のテレビはやたらあるが、このような刑務所紹介の本は案外少なかった。そして読んでみると、驚くほど「刑務所テレビ 番組」と似ている。考えてみればそれはムリもない。映像にしろ写真にしろ、撮る場所やアングルが限られていて、収容者(元収容者も含む)の発言も、心情吐 露しているとはいえある種の優等生的発言だし、刑務官や所長さんの発言も、食いつくような面白いことは何もない。ごく穏当な、ごく普通のことを、多少の苦 労談をまじえて淡々と語るだけだ。

 一方で刑務所モノの映画(今はVシネマか)や小説があり、少年院を舞台にしたBL小説などもあり、刑務所や少年院は、なんとい うか「とんでもないところ」である忌避感と「とんでもないところ」である期待感がないまぜになった場所として、人々の心の中に巣くっている。ある種のパラ ダイス。しかし、不思議なことに、現実に刑務所を舞台とした事件が起こっても、それと「刑務所パラダイス」とは結びつかず、「人々の心の中にある幻想の刑 務所」はどんどん浮世離れしていくような感じだ。実際にあった事件というと、記憶に新しいのが「名古屋刑務所事件(刑務官が収容者の肛門に消防ホースで放 水して死に至らしめたというあれ)」で、本書でも触れられているが、ごく当たり前に起こっていく組織の乱れ、というようなことがやはり淡々と述べられて 「なるほどなあ」と納得するものの、面白い話ではない。

 そうなのだ。そうそう面白い話なんか転がってない。人生面白くないように刑務所も面白くない。刑務所や犯罪にロマンなんかない。そういうことを常に思い出すためにも、刑務所番組やこういう本は大切である。

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ニッポンの刑務所 (講談社現代新書)

著者:外山 ひとみ

出版社:講談社   価格:¥ 840

asahi shohyo 書評

インターネット新世代 [著]村井純/ネットの炎上力 [著]蜷川真夫

[掲載]2010年4月25日

  • [評者]保阪正康(ノンフィクション作家)

■使いこなすために経験の蓄積を

 インターネットに関する総論(村井書)と各論(蜷川書)を読み進むうちになんどか「疎外」という語を思いだした。F・パッペンハイムの『近代人の疎外』(一九五九)にある「われわれは技術が勝ち人間が負けるようになった事態の犠牲者」という一節が浮かんだりしたのだ。

 四十年の歴史を持つインターネットは今や人類史全体の変革を促している。村井書はその変革の内実や現在から未来の人類が向き合 う現実を手際よくわかりやすく説明している。それゆえ読者はページを閉じて考えこむことにもなる。「インターネットの光と影」との言い方があるが、光は 「ネットによってもたらされた楽しい世界や明るい未来」と讃(たた)え、影は「ネットで起こる犯罪や悪事」という。が、著者はそれはインターネットそのも のの否定につながってはいけないと説く。新しい機械文明を支える論理である。とにかくどのように使いこなすかが、私たちの役割になるのだろうが、たとえば デジタル技術は日々急速に変化するのだから安全基準を作り、安心できる環境を作りうるのかが実はこの時代に生きているわれわれが次代の者に試されていると いうことだろう。

 著者はそのために「人と社会が経験を蓄積すること」の必要性をくり返し訴えている。

 アナログからデジタルへ、情報の本質は国際性と同時性で地球全体に広まる。ネットメディアが国際社会での外交戦略に影響を与えるだけでなく、文化、芸術などもこれからは変化を余儀なくされるとの指摘は重い。

 蜷川書はインターネットでのニュース発信の実情を自ら起こした企業(J—CASTニュース)の歩みを踏まえながらの報告であ る。「コピペサイト」とか「Jカス」などと揶揄(やゆ)されるが、「私たちはジャーナリズム宣言なんてしていない」とも反論する。三十年余の新聞記者体験 から見たネットジャーナリズムは、新しい価値観のもとで動いているとの宣言のように思えて頼もしく響く。

 二十世紀ばりの「疎外」とか「犠牲者」などと気取っていてはいけないと、私は両書を閉じて自らを激励したのである。

    ◇

 『インターネット新世代』 むらい・じゅん/『ネットの炎上力』 にながわ・まさお

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インターネット新世代 (岩波新書)

著者:村井 純

出版社:岩波書店   価格:¥ 798

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ネットの炎上力 (文春新書)

著者:蜷川 真夫

出版社:文藝春秋   価格:¥ 798

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近代人の疎外 (同時代ライブラリー)

著者:F. パッペンハイム

出版社:岩波書店   価格:¥ 918

asahi shohyo 書評

人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束 [著]中村哲 [聞き手]澤地久枝

[掲載]2010年4月18日

  • [評者]保阪正康(ノンフィクション作家)

■日本社会に欠けているものとは

  中村医師は主にアフガニスタンを中心にハンセン病などの治療と、水不足解消のため井戸を掘り用水路を造る活動を26年にわたって続けてきた。その中村医師 (現在63歳)の素顔と理念を、練達の作家が確かめつつ、日本社会に今欠けている何かを浮かび上がらせようと試みた密度の濃い書である。

 なぜこの医師は人生の大半をこの活動に捧(ささ)げたのか。クリスチャンとしての信仰、父からの論語教育、その父と伯父火野葦 平が社会主義者として生きつつも治安維持法に屈服したとの教訓、とくに祖父・父の世代への畏敬(いけい)の念が人格形成の根幹にあることがわかる。家族、 縁者たちの支え、妻の土性骨(どしょうぼね)が感動的だ。支援組織の広がりも容易にうなずける。反して政治家は彼をどう見ているか、嘲笑(ちょうしょう) する国会議員への怒りは深い。「自分の身は、針で刺されても飛び上がるけれども、相手の体は槍(やり)で突いても平気だという感覚、これがなくならない限 り駄目ですね」、本書には鋭い寸言が至るところにある。一読のあと、胸中に生まれてくる何かと対話を促される。私の何かとは〈人道主義に基づく歴史観〉で あった。

asahi shohyo 書評

働きすぎに斃れて—過労死・過労自殺の語る労働史 [著]熊沢誠

[掲載]2010年4月25日

  なぜ彼らは死にいたるまで働いてしまったのだろう。トラック運転手、工場労働者、教師、名ばかり店長、非正規社員……過労死・過労自殺に追い込まれた50 人以上の事例には、日本社会の歩みが色濃く反映されている。激化する企業間競争、規制緩和の進行、成果主義の導入などで、厳しいノルマを背負い、職場で孤 立しながら、長時間働き、斃れた彼ら。そしてそのような過酷な労働が、我々の享受する便利で豊かな社会を支えている現実を思えば、彼らの悲劇は、同じ現代 社会を生きるすべての者にとって決してひとごとではないと気づかされる。

asahi shohyo 書評

とらわれない言葉 [編]アンディ・ウォーホル美術財団

[掲載]2010年4月25日

  • [評者]横尾忠則(美術家)

■矛盾の塊「すべてウソ」語録

 「私を知りたきゃ私の絵の表面を見ればいい、裏には何もない」。アンディ・ウォーホルの有名な言葉だ。つべこべ理屈をこく前に、包み隠さず自分の全(すべ)てを吐き出した絵を見てくれと言わんばかり。「どうせ僕は完全にうわべだけの人間だよ」とそらとぼけて舌を出す。

 「誰もが一五分間なら有名になれる」というのも有名な言葉。またみんな機械になって「誰も彼もみんな同じになればいい」とも言う。大量消費時代の複製人間は自他の区別のないペラペラの印刷物やブラウン管の中の他者としての自分を夢想する。

 彼の作品はマスプロデュースされた商品や情報が主題でイコンのように描いた。さらに自作や自身を「ニセモノ」と規定してオリジナル性の欺瞞(ぎまん)を暴き、「なんでオリジナルでなくちゃいけないの? 他の人と同じじゃいけないのかい?」と問う。

 かと思うと、「僕は空っぽになるのが好きだ」と言いながら「鏡を見るのは辛(つら)いな」とそこに何もない空っぽの恐怖に脅 (おび)える。だからか、ウォーホルは自分が何者かを知られたくないために、「聞かれるたびに答えを変えるんだ」。自らを謎の存在として神話の人物に仕立 てたいのかと思うと、その一方で自分のことを知ってもらうのは「ピーナッツを食べることに似ているね。始めちゃったらやめられないんだ」と平気でしらばく れたりもする。

 ボクはウォーホルに何回か会った。ボクは自分に関心があるタイプだけれど彼は他人に異常に興味を持ち、人の噂話(うわさばなし)が大好きで、そのために毎晩のように社交に出掛ける。要するにのぞき趣味のゴシップマニアで、彼は「それが本当に好きなんだ」。

 本書はウォーホル語録のコレクションである。女性に銃撃されたが、その後20年生きて58歳で死んだ。彼のあの石膏(せっこ う)のような真っ白な皮膚はまるで生者を装っている死者のように見えた。墓碑銘には「全部ウソだった」と書けばいいと言い、死んだといわずに「消えた」と 言ってもらいたいと願う。だって死者が2度死ぬのは変じゃない?

    ◇

 夏目大訳/Andy Warhol 1928〜87。米国のポップアーティスト。

asahi shohyo 書評

汝の目を信じよ!—統一ドイツ美術紀行 [著]徐京植

[掲載]2010年4月25日

  在日朝鮮人である著者は、東西ドイツ統一直後の1991年、初めて旧東ドイツ側に足を踏み入れ、かの地での「美術巡礼」を重ねていく。ナチス党員でありな がら、その前衛さゆえにナチスの「退廃美術展」に作品が展示されたノルデ。第1次世界大戦での過酷な経験と「汝の目を信じよ」という信条から、戦争の醜悪 さを告発し続け、退廃美術展の主な標的となったディックス。ユダヤ人迫害から逃れる中で絵を残し、収容所での死後から四半世紀余りを経て見いだされたヌス バウム。変幻する「国家」への抵抗という視点で語られる「美意識」の数々は悲しくも美しい。

表紙画像

汝の目を信じよ!——統一ドイツ美術紀行

著者:徐 京植

出版社:みすず書房   価格:¥ 3,675

asahi science anthropology chimpanzee death funeral

チンパンジーに弔う心? 母親、ミイラ化した子を背負う

2010年4月27日9時23分

写真:死後17日、ミイラ化した子どもを背負うジレ=京都大霊長類研究所提供死後17日、ミイラ化した子どもを背負うジレ=京都大霊長類研究所提供

 チンパンジーの母親が死んだ子どもをミイラ化するまで背負い続ける例を、京都大学霊長類研究所の林美里助教、松沢哲郎教授らのチームが同じ群れで複数観察した。ヒトが死者をとむらう行動の起源ではないかとチームはみている。27日付の米生物学誌に発表した。

 チームは、西アフリカ・ギニアで野生チンパンジーの群れの調査を30年以上続けてきた。ジレという名前のチンパンジーが1992年に病死した2歳半の子 どもを27日間以上、2003年にも病死した1歳の子どもを68日間背負い続けた。同じ群れの別の母親も死んだ2歳半の子どもを19日間背負った。

 3例とも死体はミイラ化したが、母親は生きている時と同じように毛繕いをしたり、体にたかるハエを追い払ったりして、子どもに愛情を示しているようだった。生きているときと背負い方が違い、「死んだことは理解している」とチームはみる。

 「ヒトが死者をとむらう気持ちも進化の過程で生まれた。死んだ子どもによりそうチンパンジーの行動に、その起源があるのではないか」と松沢教授は話している。(瀬川茂子)





2010年4月24日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

プロフィール

書評空間(書評ブログ)中山元

中山元
(なかやま・げん)
1949年生まれ。東京大学教養学部教養学科中退。
哲学者・翻訳家。
インターネットで、哲学リソースサイト Polylogos (ポリロゴス)
http://www.polylogos.org/

を主宰。
著書に、『思考の用語辞典』(筑摩書房)『フーコー入門』 『〈ぼく〉と世界を結ぶ哲学』(ちくま新書)などがある。訳書には、フロイト 『自我論集』 『エロス論集』フーコー『精神疾患とパーソナリティ』メルロ=ポンティ 『メルロ=ポンティ・コレクション』デリダ『パピエ・マシン』(ちくま学芸文庫) 、エレン・メイクシンズ・ウッド『資本の帝国』バーナード・ルイス『聖戦と聖ならざるテロリズム』(紀伊國屋書店)などがある。

2010年04月23日

『気候と人間の歴史・入門 — 中世から現代まで』ル-ロワ-ラデュリ,エマニュエル(藤原書店 )

気候と人間の歴史・入門  — 中世から現代まで →bookwebで購入

「スパンの長い歴史研究」

 二〇一〇年の四月の半ばに、アイスランドの氷河の下の火山が噴火し、空に噴煙を吹き上げた。航空機が飛行する高さまで吹き上がったので、ヨーロッパの空 からはほぼ一週間にわたって航空機が姿を消すことになった。ほとんどすべての欧州便が飛行を停止したために、映画『ターミナル』のような空港暮らしを強い られた人々もいたと聞く。

 これと同じような噴火が一八世紀末に起きている。一七八三年六月八日のアイスランドのラキガール山の噴火であり、島民の二〇%近くが死亡した。同じ年に日本では浅間山が噴火し、農民に大被害を与え、「日本人の住む土地に大飢饉を引き起こした」(p.97)。

 今回の噴火の際の新聞報道では、この「ラキ事件」があたかもフランス革命の遠因となったというような記事が書かれていたが、著者はこの噴火は「フ ランス革命の原因」とは少しも関係しない(同)と断定している。それでも異常気象や突発的な自然現象が歴史の流れをときに大きく左右するのは確実である。 こうした影響関係を歴史的に考察するのが、「気候の歴史」の学問である。著者はアナール派の歴史学者として著名であるが、世界的な規模での気候の歴史を集 中的に研究しており、すでに2000年に『気候の歴史』という著書の邦訳が刊行されており、今回の書物はその「入門版」ということになる。

 たとえば、気候の歴史からは魔女狩りは、「一五七〇年から一六三〇年の超小氷期のとばっちり」(p.46)として理解することができるのであり、 南ドイツで一六二六年の五月二四日に霜が降りるという異常な寒気のためにブドウの収穫が壊滅状態になり、「その地方がかつて経験したなかで最も忌まわしく 甚大な魔女狩りを引き起こした」(p.46)という。

 また一八一五年の四月五日のインドネシアのタンボラ火山の大噴火は、八万六〇〇〇名の死者をもたらしただけでなく、噴煙によって空を覆い、「一八 一六年は夏のない年」(p.99)となったのである。ヨーロッパでは記録される限りでもっともブドウの主客の遅い年となり、穀物収穫は落ち込み、小麦は稀 少になり、フランスは黒海から小麦を輸入しなければならなくなった。

 冷夏の副産物もあった。メアリー・シェリーは父親のシェリーとバイロンとともに、
雨の中、ジュネーヴ湖近くの山荘に閉じ込められていて、文学の分野で、フランケンシュタインを生み出した」(p.99)のだった。フランケンシュタインの物語の暗さは、この気象異常の余波かもしれない。

 このように、歴史を気象という観点から巨視的に眺めると、いろいろとおもしろい事実が確認され、楽しい着想が生まれる。記録のない時代について は、生活のさまざまな記録が指標として使われる。たとえばブドウの収穫の時期などは、その時代の文献を探ることで確認できるからである。ヨーロッパで数千 人の死者をだした二〇〇三年の猛暑なども、世界史的にみて、一つの指標として記憶されるだろう。

 本書は「気候の歴史はどのようにして生まれたのですか」から始まり、「ヨーロッパおよび世界における二〇〇七年夏の非常に対照のはっきりした気象 状況は、歴史上例のないものですか」という質問にいたるまで、著者が三二の質問に答える形て、非常にスパンの長い歴史研究である「気候の歴史」という新し い学問の概要を説明したものであり、わかりやすい入門書となっている。

【書誌情報】
■気候と人間の歴史・入門 — 中世から現代まで
■ル-ロワ-ラデュリ,エマニュエル【著】
■稲垣文雄【訳】
■藤原書店
■2009/09
■177p / 19cm / B6判
■ISBN 9784894346994
■定価 2520円


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2010年4月23日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年04月21日

『サンパウロへのサウダージ』レヴィ=ストロース,クロード、今福龍太(みすず書房)

サンパウロへのサウダージ →bookwebで購入

「レヴィ=ストロースの「郷愁」」

 サウダージとはある特定の場所を回想したときなどに、「この世に永続的なものなどなにひとつなく、頼ることのできる不変の拠り所も存在しないのだ、とい う明白な事実によって私たちの意識が貫かれたときに感じる、あの締めつけられたような心の痛み」(p.4)を指すポルトガル語だという。

 レヴィ=ストロースは二九歳の折にサンパウロに滞在し、そこから『悲しき熱帯』を著すにいたったインディオ訪問の旅に出たのだった。そのサンパウロに滞 在した時に撮影した街の写真が、レヴィ=ストロースが捨てていたにもかかわらず、ふたたび発見され、書物にされることになった。この街にとっても予想外の ことに、六五年前の記録が発見されたわけであり、街の記念物ともなる。ライカの発売が一九二五年のこと、レヴィ=ストロースがこの地に滞在したのが一九三 五年から一九三七年にかけてだというから、当時の写真はごく稀に違いない。

 ぼくも少年時代に一夏滞在した島を訪れて、その変化に呆然としたことがあるが、レヴィ=ストロースにとっても思いが新たになることが多いだろ う。現地の人々による熱心な調査によって、写真を撮影された場所が特定されていて、マップに番号で記載されている。そして同じくサンパウロに滞在した文化 人類学者の今福龍太が、これらの写真を収録した書物を手にして、レヴィ=ストロースのまなざしを再体験し、同じアングルから写真を撮影し、エッセーを寄せ て、この書物に掲載されている。

 興味深いことに、レヴィ=ストロースはカメラと写真という媒体を現在では嫌っている。調査の際に「カメラのレンズの後ろに目を置くと、何が起こっ ているのか見えなくなりそれだけ事態が把握できなくなる」(p.109)からだという。周囲の出来事を理解する身体的な感覚が、レンズをのぞく両眼だけに 還元されてしまうということだろう。

 それだけではなく、カメラを手にして撮影している姿というものが、一目にたつものであることも間違いはない。レヴィ=ストロースがサンパウロで撮 影していると、「写真を採ってくれ」とせがむ子供たちにまといつかれたと『悲しき熱帯』で語っている(p.143)。現代のアジアのビーチにいくと、写真 を写させるからと、ドルをねだる子供たちが多いが、この時代の子供たちは、報酬のためではなく、写真にとられるという「儀式」を望んでいたのだという。今 福は、それを写真が「聖画」のような呪物として「無意識によって捉えられている」(p.144)のではないかと解釈している。

 しかし奇妙なことに、『悲しき熱帯』にはぼくたちを圧倒した多数の写真が掲載されているのもたしかだ。あれらの写真がなかったら、あの書物がこれ ほどまでにぼくたちを惹きつけたかどうかは疑問なのである。しかもレヴィ=ストロースは写真を撮影するという行為の暴力性にきわめて敏感だった。「打ち砕 かれた君たちの表情の代わりにコダクロームの写真帳を振り回すというこの妖術」(p.145)にレヴィ=ストロースはいかにも心苦しそうである。それはま るで未開の国を侵略する西洋の「原罪」を象徴するかのようである。文字ですら敏感だったレヴィ=ストロースが、カメラの威力といやらしさを意識しなかった はずはないのである。

 興味深いのは、このレヴィ=ストロースの調査に、ブラジル人民族学者のカストロ・ファリアが同行していたという事実だ。彼は政府の監視官として、 国からの正式な任務のもとで、調査に参加したのだった。彼もまた政府から義務づけられて、多数の写真を撮影しており、それが『もう一つの視線』という書物 として刊行されているという。彼は撮影するレヴィ=ストロースの姿も撮影しているのであり、レヴィ=ストロースが撮影した状況を再現できるほどある。

 ファリアはレヴィ=ストロースのことを、基本的な調査ができないし、データを収集することも知らないと厳しく評価する。いかなる技能もなく、ただ 「いつも思考を中空に遊ばせ、彼自身にとって重要な主題だけを思索しつづけ、野外調査の手法を身につけることもなかった」(p.150)という。レヴィ= ストロースの『悲しき熱帯』は「哲学的なエッセイではあり得ても、これを民族学の成果であると認めることは不可能である」(同)というのが、彼の結論であ る。

 たしかに現代の野外調査という観点からみると、レヴィ=ストロースのこの書物は枠に入らないものかもしれないが、文化人類学という学問の歴史にお いて重要な役割をはたした書物であるのは間違いないだろう。そしてこのレヴィ=ストロースの調査によって書かれた書物は英訳され、インディオの子供たちも この書物を眺めている写真が、レヴィ=ストロースの別の写真集『ブラジルへの郷愁』に載せられているのは、なんとも皮肉なことである(163ページの写 真)。

【書誌情報】
■サンパウロへのサウダージ
■レヴィ=ストロース,クロード著、今福龍太著訳
■みすず書房
■2008/11/28
■203p / 21×16cm
■ISBN 9784622073512
■定価 4200円

【内容紹介】
Claude L´evi=Strauss(クロード・レヴィ=ストロース)(サンパウロへのサウダージ;写真解説(リカルド・メンデス)
ブラジルから遠く離れて(—ヴェロニク・モルテーニュとの対話)
Ryuta Imafuku(今福龍太)(時の地峡をわたって)
ブラジルでしか出版されていない写真集『サンパウロへのサウダージ』を前半に、今福龍太がレヴィ=ストロースの写真を論ずる。


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2010年4月21日水曜日

asahi archeology history japan sword zogan ken Miyazaki Ebino

大刀に竜の文様、大和政権と結びつき示唆 宮崎で出土

2010年4月21日10時29分

写真:出土した竜文銀象眼大刀。鮮やかに浮かぶ竜文は10センチ足らずの長さ=宮崎県えびの市出土した竜文銀象眼大刀。鮮やかに浮かぶ竜文は10センチ足らずの長さ=宮崎県えびの市

 宮崎県えびの市の島内(しまうち)地下式横穴墓群で、刀身に竜の文様を象眼(ぞうがん)した6世紀前半の鉄製大刀(たち)が出土したと、同市教委が20日、発表した。刀身に竜文がある象眼大刀は全国3例目で、大和政権との深い結びつきを示唆するという。

 市教委によると、大刀は全長98.2センチ、幅3.6センチ。長さ78センチの刃の表面に溝を刻み、銀をはめ込む象眼の技法で、表に全長約9センチ、裏 に約8センチの竜がひとつずつあった。奈良県橿原(かしはら)市の新沢千塚(にいざわせんづか)327号墳(6世紀中ごろ)、奈良市の吉備塚(きびづか) 古墳(6世紀前半)に次ぐという。

 同墓群ではこれまで約120基が確認されており、大刀は送電線の鉄塔建て替え工事に伴う発掘調査で114号墓から出土。遺体を安置する深さ約2 メートル、広さ2畳ほどの玄室(げんしつ)に埋葬されていた熟年男性の人骨のかたわらに置かれていた。さびてさやがこびりついていたため、昨年8月にエッ クス線調査を実施し、文様の存在が分かった。その後、文様部分のさやは除去したという。

 エックス線調査で表裏に星か太陽とみられる図形も1個ずつ確認できた。

 同市教委の中野和浩主任技師は「竜文は新沢千塚のものより一回り大きく、この時期のものとしてはかなり質が高い。保存状況も極めて良い。現在のえびの市一帯を治めていた有力者の一人で、大和政権から分配されたのではないか」と話している。

 大刀は同市歴史民俗資料館で5月3日まで一般公開される。今月23日午前10時から資料館で市民向け説明会がある。問い合わせは市教委社会教育課(0984・35・2268)へ。(知覧哲郎)