2010年11月27日土曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年11月23日

『難民への旅』山村淳平(現代企画室)

難民への旅 →bookwebで購入

 「うまれかわり、もう一度機会があれば、わたしたち[難民]は[定住先として]日本をえらびません」「[UN]HCR[国連難民高等弁務官事務所]は、 欧米のNGOとともに新しい支配者としてやってきた」。著者の山村淳平が、日本に定住した元難民やバングラデシュで難民支援をしている地元NGOの医師か ら聞いたことばである。いま、日本で、世界で、難民になにがおこっているのだろうか。

 著者は、フィリピン、バングラデシュ、タイ、ザイール、パキスタンなどで難民のための医療活動に従事し、日本では外国人診療にたずさわっている経験をも とに、援助、民族、国家とはなにかを問いながら、難民が発生する原因や社会背景を探り、さらに「難民保護」や「人道支援」の名のもとに、どのような「暴 力」がおこなわれているのか、その実態に迫ろうとしている。

 HCRは、東西冷戦構造下で共産主義陣営から西側に逃れてきた人びとを難民として受け入れるために、1950年に設立された。当初から政治性が強く、先 進国を中心とした資金からなり立っているため、日本をふくむ先進国の「国益」を無視した「人道支援」ができないという。その援助金の多くも事務所経費や人 件費などに使われ、実際に難民に届くのは2〜3割だと言われている。そして、HCRの職員はファーストクラスの飛行機に乗り、豪華なホテルに泊まり、地元 の有力者と優雅なパーティを楽しんでいる。

 いっぽう、日本の難民受け入れ状況は、インドシナ難民を除けば、1982年から2009年までに538人で、認定率は1%(インドシナ難民は5%)しか ない。しかも、認定を待つあいだ、日本語教育もなく、仕事もなく、なにもしないだけでなく、外出することも許されず、あたかも犯罪者のように扱われたと、 屈辱感をあらわにする者もいる。入管は難民条約の原則をやぶって強制送還をおこない、入国できても外国人収容所では差別と蔑視から暴行がおこなわれてい る。著者たちは、その実態を『壁の涙−法務省「外国人収容所」の実態』(現代企画社、2007年)で明らかにした。

 日本に長く暮らす外国人は、日本人の仕事仲間や隣人がとても親切だと言う。しかし、その日本人個人が、国家を意識するととたんに、国益を重視して外国人 を排除する。戦争中、心優しい日本の兵隊さんが、上官の命令、つまり天皇の命令で、お国のためと言われたとたん、国家の忠実な下僕となって、住民を虐殺す る無慈悲な人間に変貌したのとなんらかわりない、収容所などの日本人職員の難民を扱う姿が、本書に描かれている。グローバル化が進み、多文化共生社会が唱 えられても、難民の居場所は、とくに閉鎖的な日本にはないことがわかる。

 本書を読んで、一方的で極端な見方だと、嫌悪を感じた人がいるかもしれない。その原因は、著者個人より、もっと深いところにある。本書で取りあげられた 民族名を、すべて知っている日本人は、極々少数だろう。著者は、1991年のフィリピンで火山噴火の被災民の医療支援を通じて「目覚めた」。しかし、多く の日本人は、世界各地で難民となって生まれ故郷を離れざるをえなくなった人びとのことを知らないし、関心もない。まず、著者のように、これら一般の人が聞 いたこともないような民族のことを理解しようする人が現れ、本書のように、その実態を知らせることが必要だろう。そのためには、これらの民族の歴史と文化 を知る基礎研究が大切になる。著者のように難民とかかわりをもった者が、まず最初に困ることは、基本的知識を得るための一般書・教養書がないことだ。先進 国や国際機関にだけ目を向けるようでは、いまの世界は理解できないし、未来も展望できない。

 本書は全6章からなり、その最後の章が「歴史をひもとく」である。暗記を要求される日本の学校の歴史の授業を苦手とした著者が、現代に起きている事象と 過去の出来事とを結びつけることによって、未来を考えるようになった。その結果、難民を生み出したのは、「近代」が民族や国家によって人びとを分断し、争 いを引き起こす意識を生んだからであるとし、難民を生み出さないためには、まず国家の武装を解くことだと説く。そして、この複雑な難問を解くために、複数 の文化のあいだを行き交う「難民」こそが重要な役目を果たすことを指摘する。

 いま大切なことは、自分の国だけ、ある一部の国ぐに・地域だけの平和も繁栄も、あり得ないことに気づくことだろう。世界のどこかで戦争や紛争がおこっ て、不幸な人びとが出現すれば、それが巡り巡って自分たちの生活を脅かす危険性がある。「国益」を超えて考えることの意味を、本書は教えてくれる。

[本稿を基に書いた書評を、11月22日に時事通信社から配信した]

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asahi culture archeology history japan Doshisha University Rokuonin ruin Kyoto

足利義満創建の「鹿苑院」跡か 京都で遺構発見

2010年11月24日22時27分

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写真:鹿苑院を示す「鹿」の文字が残る器鹿苑院を示す「鹿」の文字が残る器

写真:鹿苑院の遺構が見つかった調査地=京都市上京区の同志社大今出川キャンパス鹿苑院の遺構が見つかった調査地=京都市上京区の同志社大今出川キャンパス

 室町幕府3代将軍・足利義満(1358〜1408)が創建した「鹿苑院(ろくおんいん)」の遺構が、同志社大の今出川キャンパス(京都市上京区)で見つ かった。建物は江戸時代の古地図に記されていたが、研究者は「存在が初めて裏付けられた」と説明する。同大が24日、発表した。

 同大によると、鹿苑院は大学に隣接する相国寺(しょうこくじ)の塔頭(たっちゅう)として、義満が1383(永徳3)年に創建した。義満の禅の修行場に使われ、当時の有力な禅寺「京都五山」(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)を統括する役割も担ったとされる。

 今回、建物の柱を支える「根固石(ねがためいし)」を6カ所で確認。それぞれ拳大の石が直径約1メートルの円状に敷き詰められており、鹿苑院の仏堂跡と みられる。周辺からは、器の底に「鹿」と書かれた瀬戸焼も見つかった。その形から14世紀末ごろの製作とみられ、鹿苑院の創建時期とも一致。鹿苑院が当時 からこの地にあった可能性が高まったという。

 同大はキャンパス整備に伴う発掘調査を8月から始め、来年3月まで続ける。鹿苑院には義満の墓もあったと文献にあり、同大歴史資料館の浜中邦弘講師は「戦乱で破壊されていなければ、今後の調査で墓石の発見も期待できる」と話す。(渡辺秀行)





2010年11月23日火曜日

asahi shohyo 書評

信じない人のためのイエスと福音書ガイド [著]中村圭志

[掲載]2010年11月21日

表紙画像著者:中村 圭志  出版社:みすず書房 価格:¥ 2,625


 世界で最も読まれている本ながら、通読するのは難しい聖書。その、主に 四つの福音書の構成を整理し、イエスという歴史上の人物がどう生きたのか、基本情報を平易に提供するガイドブック。キリスト教信者ではない、いわゆる葬式 仏教系の典型的日本人だという著者は、キリスト教を信じる/信じないをとりあえず棚上げ。懐疑の視点を保って、現代の合理精神では面食らってしまう福音書 の記述を、「たとえばこう考えてみたら?」と示唆していく。事実としてのイエスの生涯を「知る」と、今度はイエスを「信じる」とはどういうことなのかを 「知り」たくなる。

表紙画像

信じない人のためのイエスと福音書ガイド

著者:中村 圭志

出版社:みすず書房   価格:¥ 2,625

asahi shohyo 書評

身体の歴史III 20世紀 まなざしの変容 [監修]A・コルバン、J・J・クルティーヌ、G・ヴィガレロ

[評者]斎藤環(精神科医)

[掲載]2010年11月21日

表紙画像 出版社:藤原書店 価格:¥ 7,140


■身体イメージの驚くべき支配力

 身体はイメージである。それは時代と文化、あるいは政治によって深く規定され、変容をこうむる。質量ともに圧倒的な三部作全編を通じて、このモチーフが徹底的に検証される。まさに前人未到の達成である。

 本書は『においの歴史』や『娼婦(しょうふ)』などの大著で知られる歴史学者アラン・コルバンが、編著に構想10年をかけた記念碑的な労作だ。I〜III巻まで、ほぼ時系列に沿って記述が進むが、この最終巻が取り扱う20世紀が個人的には最も興味深い。

 この時代を特徴付けるのは、レントゲン、映画、そして精神分析だ。すなわち20世紀とは、われわれの身体を凝視しつくす「まなざし」の世紀だった。

 本書が取り扱う領域は、医療、遺伝学、性愛、スポーツ、フリークス、個人認証、戦争、強制収容所、映画と多岐にわたる。あらゆる領域に遍在するものがまなざしだ。分析、治療、欲望、同定、支配、鍛錬、創造、そうした多様な機能をまなざしは引き受けることになる。

 すべての領域において起こりつつあること。それは「身体性」の衰弱である。まなざしは身体のあらゆる場所に浸透し、その機能を分離・抽象化することで、身体を多機能モジュールの重なり合う場として記述し直した。

 こうした状況について、著者の一人であるイヴ・ミショーは次のように述べる。「勝利を収めているのは、凍りつくような唯物論である。かつては意識、魂、幻想、欲望というものがあったのだが、もはや身体とその痕跡しかなくなってしまった」

 そう、いまや「心」すらも身体の下位部門(脳科学!)として扱われる。心身二元論ならぬ身体多元論の時代だ。「魂」に呼応する総合性を「身体性」と呼びうるならば、まなざしによるモジュール化(=唯物論)はそこに衰弱をもたらさずにはおかないだろう。

 それにしても、われわれの想像力における身体イメージの支配力には、あらためて驚かされる。21世紀における想像力のゆくえを構想する上でも、本書は貴重な資料となるだろう。

    ◇

岑村傑(みねむら・すぐる)監訳、藤原書店・7140円/Alain Corbin, Jean−Jacques Courtine, Georges Vigarello

表紙画像

新版 においの歴史—嗅覚と社会的想像力

著者:アラン コルバン

出版社:藤原書店   価格:¥ 5,145

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娼婦 上 新版

著者:アラン・コルバン

出版社:藤原書店   価格:¥ 3,360

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娼婦 下 新版

著者:アラン・コルバン

出版社:藤原書店   価格:¥ 3,360

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身体の歴史 I —16-18世紀ルネサンスから啓蒙時代まで

著者:ジャック・ジェリス・ニコル・ペルグラン・サラ・F・マシューズ=グリーコ・ラファエル・マンドレシ・ロイ・ポーター・ダニエル・アラス

出版社:藤原書店   価格:¥ 7,140

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身体の歴史 II —19世紀フランス革命から第一次世界大戦まで

著者:オリヴィエ・フォール・アラン・コルバン・アンリ・ゼルネール・セゴレーヌ・ル・メン・アンリ=ジャック・スティケール・ジョルジュ・ヴィガレロ

出版社:藤原書店   価格:¥ 7,140

asahi shohyo 書評

偶然とは何か その積極的意味 [著]竹内啓/確率論と私 [著]伊藤清

[評者]辻篤子(本社論説委員)

[掲載]2010年11月21日

表紙画像著者:竹内 啓  出版社:岩波書店 価格:¥ 756


■結果としての運 世界の法則性は

 天の導きか、と思わせるような出会いがあれば、不幸というしかない、行き違いや事故もある。私たちはあまたの偶然とともに、笑ったり泣いたりして生きている。

 そんな偶然に、私たちは黙って身を任せるしかないのか。

 『偶然とは何か』は、これに対し「否」とする。だが、事前に確率を計算して合理的に行動することで避けよう、というわけではない。避けられないという前提で、副題にあるように、偶然というものの積極的な意味をとらえ直し、向き合い方を考えよう、というのである。

 サイコロを振る。最初にどの目が出るかは全くの偶然だ。しかし、何度も振るうちに、どの目も6分の1ずつ出るようになる。いわゆる「大数の法則」が支配する世界だ。

 これとは異なり、度重なることで新たな可能性が生まれるタイプの偶然があるという。

 その代表例が生物だ。突然変異という偶然が、自然選択というふるいにかけられながら蓄積することで新しい種が生まれる。生物の多様な種は「偶然の必然的な産物」なのだ。

 人にとっても、偶然との出合いはそれぞれの人生を独特なものにする意味がある。偶然は「世界を作り出す本質的な要素」と考える べきであり、その結果としての運不運を他人と分かち合おう、というのが著者の主張である。つまり、不運の結果を、不運を免れた人や社会の責任で軽減する。 それが、偶然の専制を和らげることにもなる。

 偶然というものの性格を理解することが重要なのは、大数の法則に従って「飼いならす」ことのできない種類の偶然がますます重要になってきているからでもある。

 たとえば、偶然の変動が互いに強め合い、ダイナミックな動きを引き起こす金融市場。結局、破綻(はたん)に至ったが、偶然の影響を制御するために生まれたのが金融工学だ。

 そのもとになった「伊藤理論」で世界的に知られ、2008年に亡くなった著者の初のエッセー集が『確率論と私』である。偶然に満ちた世界に潜む論理性に魅せられた数学者としての人生を振り返る。

 1940年代に発表した理論が金融の世界で必須になったと97年に知り、喜びより大きな不安にとらえられた、という。普通預金 のみの「非金融国民」という著者は、数学者の卵が経済戦争の兵士になっているとして嘆き、あらゆる戦争に反対する立場から、有為の若者たちを故郷の数学教 室に返していただきたい、とユーモアを交えて語っている。

 門外漢にも読みやすいのは、理論を究める著者の目が常に現実とのかかわりに注がれているからだろう。

 数理統計と確率論、2人の碩学(せきがく)が語る世界は本来、深いつながりがあるが、日本ではなぜか、距離があるらしいこともわかる。

 両書を案内役に二つの世界をそぞろ歩き、私たちの人生の一部である「偶然」に思いをめぐらす。なんとぜいたくなことだろう。

    ◇

 『偶然とは何か』岩波新書・756円/たけうち・けい 33年生まれ。東京大学名誉教授(統計学・経済学など)。『確率論と私』岩波書店・1785円/いとう・きよし 1915〜2008年。数学者。京都大学教授など歴任。

表紙画像

確率論と私

著者:伊藤 清

出版社:岩波書店   価格:¥ 1,785