2008年12月16日火曜日

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「ハイテク」駆使した古代の人工池 奈良・薩摩遺跡

2008年12月15日3時30分

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写真奈良時代から平安時代初期の農耕用のため池跡と取水口「木樋」(手前)=奈良県高取町、荒元忠彦撮影

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写真出土した木簡(表側)=奈良県橿原市の県立橿原考古学研究所、荒元忠彦撮影

写真出土した木簡(裏側)=奈良県橿原市の県立橿原考古学研究所、荒元忠彦撮影

写真薩摩遺跡で出土した木簡の赤外線写真。右側が表側=奈良県立橿原考古学研究所提供

 奈良県高取町の薩摩遺跡で、奈良時代から平安時代初期(8〜9世紀)に造られた農耕用のため池と、田に水を引く取水口の「木樋(もくひ)」が見つかっ た。奈良県立橿原考古学研究所が9日発表した。同研究所によると、古代の人工池が見つかるのは珍しい。池から同時に出土した木簡には、渡来系氏族が池を造 成したと記されており、当時の「ハイテク技術」が駆使されたらしい。

 池は幅約40メートル、奥行き約90メートル以上。木樋は長さ1.2メートル以上で、ふたはなかった。直径約50センチの木をくりぬいて作られて いた。形状から、水面上にあった作業台の上で棒を上下させ、外に流す水量を調節する機能を備えていたらしい。近くから835年に鋳造された銅銭の承和昌宝 3枚が出土しており、木樋は9世紀以降に作られたとみられる。

 木簡(長さ21.5センチ)は木樋の13メートル南側から見つかった。調査した和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(日本古代史)によると、表 側には池の造成が完了したことが記され、裏側には周辺の地域名である「波多」の里長だった渡来系氏族「檜前主寸(ひのくまのすぐり)(村主)」が池を造り 始めた、と書かれていた。池の完成を祝った祭祀(さいし)の時に投げ込まれたらしい。木簡は木樋より下の土層から見つかっており、池の完成は8世紀ごろと みられる。

 古代の人工池と木樋は、7世紀に造られた最古の人工池とされる狭山池(大阪府大阪狭山市)や、9世紀の益田池(奈良県橿原市)で出土している。当時は、開墾した田を私有地として認める「墾田永年私財法」(743年)などが制定され、全国的に新田開発が奨励されていた。

 古代の土木技術に詳しい工楽善通(くらくよしゆき)・大阪府立狭山池博物館館長は「国家レベルで造られた狭山池との共通点も多く、非常にしっかりと造られている。当時のハイテク技術を持っていた渡来系氏族がかかわっていた可能性がある」と話している。

 現地説明会は14日午前11時から午後3時。(渡義人)



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