2008年12月9日火曜日

asahi court Yamanashi suicide

夢の田舎暮らしと現実のはざまで 山梨の自殺幇助事件

2008年12月9日3時4分

印刷

ソーシャルブックマーク このエントリをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

 ログハウスやとんがり屋根の住宅が立ち並んでいる、八ケ岳のふもとの高原。山梨県北杜市の小淵沢町。所々にある空き地に、「分譲中」という看板が立つ。この一角で今年5月7日、末期がんに苦しむ妻(当時55)に、夫(60)が農薬を飲ませて死なせる事件があった。

 8月、夫は自殺幇助(ほうじょ)の罪で甲府地裁で懲役2年執行猶予3年の判決が確定した。夫が釈放された9月上旬、手紙を出した。まもなく「お話ししたい」と電話があった。

 白塗りの壁、木造2階建ての自宅の居間。事件現場のその場所で夫は、経緯を淡々と振り返った。

 プラスチック製のコップに入った透明の液体は農薬だった。「早く飲ませて」とせがむ妻。自分も死のうと夫も飲んだ。「妻からがんの痛みをとってあげられたことは、後悔していない。でも2人で最後まで、闘うべきだったとも思う」

     

 91年、夫は妻と3人の子どもを連れ、東京から引っ越してきた。当時、人気が高まりつつあった田舎暮らしに引かれ、決断した。

 鹿児島県出身。高校卒業後に神奈川県へ出て、28歳の時、同郷の妻と結婚する。3人の子どもと公営住宅で暮らした。ドライブによく出かけた先が、八ケ岳 のふもとの高原だった。「ごみごみとした都会を離れ、自然に囲まれたこの土地で生活することが夢になった」。富士山と八ケ岳を望める分譲地を見つけ、計4 千万円で30年ローンを組み、家を建てた。夫婦で近くの金属加工工場に勤務し、夜はホテルの清掃や引っ越しのアルバイトを掛け持ちした。2人で月80万円 を稼ぎ、ローンを返し続けた。

 休日には借りた畑で土いじりをし、キャンプをして楽しんだ。自宅のベランダで家族5人で寝そべり、星座の見方を教え、流れ星に歓声をあげた。やがて子どもは都内の私立大学へ、社会人として独り立ちさせた。

「充実した人生だと思っていた」

 06年春。妻は肺がんの宣告を受ける。診察をした医師は「余命は数カ月」と答えた。

 B5判のリポート用紙がある。事件の3週間前から書きつづった夫の日記。判決後、甲府地検に証拠品として保管されていたが、夫に返還された。

 4月13日

 1人で立ち上がれない。食後4、5日ぶりの便。自力で出ないので、指でかき出す。

 4月14日

 「苦しい、死にたい、何で神様はこんなに苦しめるの? 死なせて」と泣く。

 4月20日

 しきりに「お父さんごめんね」。ふびんでならない。

 4月28日

 春の花が咲き、うぐいすの鳴き声が聞こえるが、わが家には楽しさもなく、悶々(もんもん)とした日々の繰り返し。

 妻ががんの宣告を受けると、働くのは夫1人になり、ローンの返済が滞るようになった。10種類の薬代や通院費だけで月8万円はかかり、消費者金融にも 頼った。08年1月には自宅を差し押さえられ、自己破産した。子どもたちは介護の手伝いに、時々帰ってきてくれたが、経済的な支援を頼める状況ではなく、 この土地から動けなかったという。

 10キロほどのところに病院はあったが、がん治療はできず、長野県の総合病院や約30キロ離れた甲府市内の県立病院に通わなければならない負担は大きかった。追いつめられていくばかりで、行政に相談するという考えは浮かばなかった。

 北杜市健康増進課の担当者は、「あの夫婦のことを知ったのは事件の後だった。在宅療養なので情報が入ってこなかった。在宅ホスピスなど支援態勢はあるが、別荘地だし、こちらから積極的に働きかけるのは難しい」と話す。

県の統計によると、07年度までの4年間だけでも、「田舎暮らし」を求めて県外から北杜市内へ移住したとみられる人は、940人もいる。しかし千葉 県から移住してきた無職男性(66)は、「ここらは都会からの移住者ばかりで、つながりは薄い。顔を合わせたらあいさつするぐらいなんだ」と話す。この夫 も、妻ががんであることを近所には話していなかった。

 5月4日の長女の結婚式には夫だけが出た。

 5月4日

 ようやく、という感じの日を迎える。今日を当面の最大目標として頑張ってきた。つらく長い日々だった気がする。「待てない!」と、何ど妻は死にたいと話し、泣いたことだろう。

 5月6日の日記。「何か言いたげだが、分かってあげられない」。そうHBの鉛筆で記した8時間後、夫は農薬を妻に飲ませた。

   ◇

 自宅は競売にかけられた。ただ夫は近くにアパートを借りる予定で、この地を離れないつもりだという。11月下旬には、近くの寺に妻の墓もつくった。「ここは私たち家族のふるさと。残る人生は、がんと闘う人たちの役に立つことをしたいと思っている」と話した。

 家の庭では枯れたコスモスが倒れていた。家庭菜園をしていた畑は雑草に覆われ、プランターが転がっていた。(伊藤和行)



0 件のコメント: