2009年10月21日水曜日

mainichi shasetsu 20091020

社説:視点:ニッポン号70年 「冒険」のみずみずしさ

 三菱重工業製の双発輸送機「ニッポン」が、国際親善の世界一周飛行を果たし東京・羽田に帰還したのが1939年10月20日、ちょうど70年になる。

 大阪毎日・東京日日新聞(現毎日新聞)がライバル朝日新聞の東京−ロンドン飛行に対して企画した事業だが、当時の反響は国を挙げてのプロジェクト のようだったという。翼長25メートル全長16メートル、学校のプールに収まる程度のほっそりした機体から「貴婦人」とも呼ばれた。

 斬新な設計、優秀なエンジン、乗員7人の56日間のチームワーク、危機回避の見事さなどは語り継がれ、多く記録されている。別の視点で今の時代から見ると、まだ素朴な冒険のにおいに満ちた、未到の世界を開く大航海ならぬ「大航空時代」がそこにあったのだと改めて思う。

 ライト兄弟がアメリカのキティホークで初めて動力付きの有人飛行機を地表から浮かせ、12秒間飛ばしたのが1903年。機体は急速に進化し、未到の大空を目指して草創期のパイロットたちが記録を競った。

 ニッポン号の中尾純利機長(戦後に初代羽田空港長)がライト兄弟成功の年に生まれたのは象徴的だ。体系的な操縦者養成教育を受けた第1世代となり、次々に開発される試作機の能力限界を確かめる危険なテスト飛行を繰り返してきた。他の乗員も一線の熟練をそろえた。

 ニッポン号は太平洋越えで北米、赤道をまたぎ南米、大西洋越えでアフリカ、欧州、アジアと回った。地理がはっきりせず、気象・風土未知の所もまだ多かった。北太平洋、アンデスなどでは間一髪の墜落の危機もかいくぐった。

 羽田帰還を出迎えた作家の横光利一は新聞への寄稿で「私は草の中に静かにひとり停(とま)っているニッポン機の胴を叩(たた)いてみた。何の疲れ も見せぬ機体の冷たさはまだどこかへ飛び立ちそうだ」と書いた。当時は草地の広がる羽田。こうした光景や感覚が飛行機冒険時代に似合う。

 だが一方で日中戦争が泥沼化するなど時代は総力戦へ暗転し、飛行機は兵器として要求された。ニッポン号も海軍の九六式陸攻の機体をもとにしている。新聞社の航空部員も輸送などに徴用され、戦死も相次ぐ。敗戦。占領期は航空産業も飛行も封じられ、日本は翼を失った。

 時代は移る。再び国産旅客機開発に力を注ぎ、宇宙開発にも参画、科学技術もどんどん先端化する。70年前、当時の技術で最後の「空の大冒険」をなし遂げたチャレンジ精神が、みずみずしいヒントや励ましを今に発信してくるのではないか。

毎日新聞 2009年10月20日 0時03分



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