2009年10月21日水曜日

asahi shohyo 書評

江戸演劇史 (上・下) [著]渡辺保

[掲載]2009年10月18日

  • [評者]石上英一(東京大学教授・日本史)

■人や事件を中心に古典劇を活写

  歌舞伎や文楽を生み出した時代と社会を眼前に再現してくれる大著である。例えば次の一節に惹(ひ)きつけられた。1820年、三代目坂東三津五郎は大坂興 行に向かう前に江戸中村座で「上坂(じょうはん)御名残の七変化」として「月雪花名残文台(つきゆきはななごりのぶんだい)」を踊った。

 七変化のひとつが「猩々(しょうじょう)」の舞である。三津五郎は、五代目松本幸四郎、五代目岩井半四郎と共に当時の江戸歌舞 伎の大看板の一人。和事(わごと)、世話物に長じ、女形も演じ、変化舞踊を得意とした。評者は子供の頃に節句祝いにもらった大事な猩々の人形を思い出し た。病除(よ)けの願いらしい。赤頭の猩々の舞い姿を舞台で見たくなった。

 五代目半四郎は、大きな目と官能的な唇をもつ美しい女形だった。その美貌(びぼう)は、下巻カバーを飾る静御前の舞い姿の浮世 絵からもわかる。手強(てごわ)い悪女や我儘(わがまま)な女も演じ、女形の中でも「絶えて見たことがない名人」との評判だったという。彼が演ずる女性像 は当時の江戸の人々の心をとらえたのだろう。

 1603年に出雲のお国が興行した「歌舞妓踊(かぶきおどり)」が歌舞伎の始まりとされ、すでに官能美、男女変身、舞踊を核と するドラマ作りや現実の虚構化など、主な要素が見られる。また、心中や政治事件などから叙事詩的物語を創出した人形浄瑠璃も、歌舞伎に大きな影響を与え た。

 演劇性と舞台空間の現実感の高まりにより、歌舞伎は劇作を通して世間を見る役割を担うことになる。それゆえ風紀粛清・奢侈 (しゃし)禁制に加えて思想統制の対象ともなり、お上から繰り返し圧力を受けた。だが、観客の支持を得て、役者魂は、その度ごとに危機を乗り越え、歌舞伎 を発展させた。

 歌舞伎を軸に人形浄瑠璃・能・狂言との関(かか)わりに踏み込み、江戸時代250年間の演劇史を語る本書は、当時の人々が演劇や舞踊に何を求めていたのかを生き生きと描き出し、読む者の古典劇への知識欲を刺激する。

 「読んで面白い歴史を書きたい」「そのために……時代を表象する人間や事件をクローズ・アップした」という著者の狙いは見事に的をとらえている。

    ◇

 わたなべ・たもつ 36年生まれ。演劇評論家。著書に『四代目市川団十郎』など。

表紙画像

江戸演劇史(上)

著者:渡辺 保

出版社:講談社   価格:¥ 2,940

表紙画像

江戸演劇史〈下〉

著者:渡辺 保

出版社:講談社   価格:¥ 2,940

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