2009年10月16日金曜日

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篤姫の幼名おかつ?いや「おいち」 鹿児島の学芸員指摘(1/2ページ)

2009年10月14日14時0分

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 島津斉彬の養女、篤姫(1835〜83)の幼名は「おかつ」ではなく、「おいち」だった可能性が高いことが分かった。これまで謎に包まれていた篤姫の暮らしぶりや薩摩から江戸へ上る道中の様子も、残された史料から明らかになってきているという。

 指摘したのは、鹿児島県歴史資料センター黎明(れいめい)館の崎山健文・学芸専門員。大河ドラマ「篤姫」の放送に伴い、東京、大阪、鹿児島で開催された 「天璋院篤姫展」にも携わった。崎山さんは「これまでは篤姫の薩摩時代はほとんど明らかにされておらず、江戸へ向かったルートも判明していなかった」と話 す。

 篤姫の幼名が「おかつ」とされていたのは、『鹿児島県史料 斉彬公史料』に、「一(かつ)子」という記述が出てくるためだ。だが、崎山さんによる と、藩主に関する公的な日誌「日記 表方御右筆間(おもてかたごゆうひつのま)」(尚古集成館蔵)に、篤姫のことは「市」と記されており、「一」という記 述はなかった。だが、「人の名前は思いもよらないような読み方をすることもある。市をカツと読む可能性も否定できなかった」と崎山さん。

 しかし、斉彬の娘で篤姫の義妹、典姫に関する史料「典姫(のりひめ)様日記 寶印御方(たからしるしおかた)」(同)の1853(嘉永6)年4月5日に「今和泉於市様事、今日篤姫様ト被仰出候」とあり、「於市」が「篤姫」に名を変えたことが分かる。

 さらに「表方御右筆間」の1836(天保7)年8月5日に、篤姫の義理の叔母が「勝(かつ)姫」と改名したため、名前に「勝」の字と、「かつ」と 呼ばせるものをつけることを禁止するよう通達されたとある。当時は、将軍や姫と同音、同じ漢字の名前をつけることは原則禁止されていた。篤姫の改名に伴 い、鶴丸城の大奥女中の「あつ」という女性が「あさ」に改名した記録もあるという。

崎山さんは、「篤姫の幼名『於市』を『おいち』と読ませることを裏付ける。ほぼ間違いないだろう」と話す。

 「表方御右筆間」には、1853年8月21日に篤姫が薩摩を立ち、江戸へ向かう道中の様子も書かれている。9月には福岡・太宰府天満宮や大阪・住吉大社 などにお参り、10月には京都や宇治見物をしたり、島津家ゆかりの鎌倉を訪れたりしたとある。通常の藩主の参勤交代の際、こういった多くの「寄り道」は少 ないという。崎山さんは「篤姫は二度と薩摩に戻らない。つまりこの道は二度と通ることのない道。だからお参りや観光をしていたのではないか」と推測する。

 養父斉彬との接触もうかがえる。薩摩を立つ前の7月27日には斉彬が滞在中の磯庭園を篤姫が訪問したとある。「御庭ニ而御慰ニ焼物・硝子細工被仰付御覧 あそはし」(『御滞在日記 磯御茶屋』)。「焼物」は「薩摩焼」を、「硝子細工」は「薩摩切子」を指すとみられる。篤姫は斉彬から土産に薩摩焼と薩摩切子 を持たされたという。

 崎山さんは「鹿児島の歴史研究は、女性についてはほとんど手つかず。これから研究が進めば、さらに新しいことが分かるだろう」と話している。(三輪千尋)




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