2009年9月19日土曜日

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広島平和記念式「左翼の大会」田母神発言、支持者も困惑

2009年9月18日16時58分

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写真:約5万人が参加した今年の平和記念式=8月6日、午前8時25分、広島市中区、青山芳久撮影約5万人が参加した今年の平和記念式=8月6日、午前8時25分、広島市中区、青山芳久撮影

写真:田母神俊雄氏田母神俊雄氏

 日本の侵略を否定する論文を発表して更迭された元航空幕僚長の田母神(たもがみ)俊雄氏(61)が、広島市で8月6日の原爆の日に開かれる平和記念式に ついて、「左翼の大会」と批判を繰り返している。だが、田母神氏の主張に共鳴する広島の関係者も、この発言には首をかしげる。

 「広島で8月6日に講演をしたんですけれども、驚くことを発見しました」。衆院選さなかの8月24日。堺市内の駅前で、大阪17区に立候補した改革クラブ前職、西村真悟氏(61)の応援演説をした田母神氏は、唐突に平和記念式のことを話し始めた。

 「あそこに並んでいる人は広島市民も広島県民もほとんどいないんです。被爆者も、被爆者の家族もほとんどいない。誰が並んでいますか。全国から集まった左翼です」

 翌25日には宮崎市で「日本弱体化の左翼運動」、26日には大阪府八尾市で「反日運動」と、衆院選候補の応援演説で式典への批判を重ねた。本人によると、最近も講演で同じ話をしているという。

 ただ、8月6日に講演で広島を訪れた田母神氏は式典には参加していない。発言の根拠については、「広島の知人がみんなそう言っている」と取材に答えた。

 その説明に、広島市安佐南区の会社経営、蓼征成(たで・まさなり)さん(49)は「これほど大胆な発言でありながら、根拠はそれだけですか」と戸惑う。田母神氏の講演会を催した日本会議広島の理事だ。

 蓼さんは、田母神氏の持論である核武装論に「有力な選択肢の一つ」と共感している。が、平和記念式への見解は別だ。「田母神氏のように考えている人は私の周りには見あたらない。確かな情報源をお持ちと思うが……」

 「出席者に対する侮辱であり、許し難い」と話すのは、05年から5年連続で式辞を述べてきた藤田博之・広島市議会議長(71)だ。自民党県連の副会長。「毎年、多くの自民党市議や県議、党員が参列している。被爆者、市民、県民が多数出席しているのも言うまでもない」

 国民学校2年のとき、爆心から約10キロ離れた市郊外で黒い雨を浴びた。学徒動員で市中心部に出ていた兄は約5年前に白血病で亡くなった。「どんな考え を持つのも自由だが、もし核廃絶や世界恒久平和の実現を訴えることが左翼と言うのなら、極めて偏狭で誤った考えだ」と言う。

 平和記念式は広島市主催。過去1年間に亡くなった被爆者名簿の奉納や、被爆者・遺族代表らによる献花、黙祷(もくとう)などがある。今年は約5万 人が参加。市は約3千人の被爆者らに案内状を出した。座席は約1万2千用意され、うち被爆者と遺族、家族用の2500席はほぼ埋まっていた。

 その歴史は、原爆投下の翌46年、「原子砂漠」と言われた爆心地近くの焼け野で地元町内会などが開いた「平和復興祭」にさかのぼる。47年から広 島市が中心となり、朝鮮戦争開戦の緊張下で中止となった50年を除き、毎年開かれてきた。71年には佐藤栄作首相が歴代首相で初めて参列し、94年の村山 富市首相以降は首相が欠かさず出てきた。

 米国の「核の傘」に守られることを是とする首相の出席に、会場から抗議の声が上がることもあった。ベトナム戦争中の71年は、献花する佐藤首相に 女子学生が飛びかかろうとして取り押さえられた。80年代、中曽根康弘首相のあいさつ中に若者集団が一斉に立ち上がったこともあった。

 宇吹暁・広島女学院大教授(被爆史)は「若者らの抗議行動の記憶から、『左右の決戦場』という印象を持つ人が少数ながらいるかもしれない。ただ、それも昔の話」と話す。

 広島市は田母神氏に抗議することも検討したが、やめた。「事実を踏まえておらず、まともに取り合うべきでない」(市幹部)と判断した。(武田肇、岡本玄)




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