2009年9月2日水曜日

asahi shohyo 書評

随想録 [著]ショーペンハウエル

[掲載]2009年8月30日

  • [筆者]筒井康隆(作家)

■自殺より女性嫌いに傾く

 「哲学なんか勉強すると自殺する」と言われ、親が哲学青年の息子を心配する風潮があった。実際、哲学を学んだ青年の自殺は戦後の一時期、多かった。

 アルツィバーシェフを読んだぼくは、哲学に少し興味を持った。『サアニン』がニーチェの『ツァラトゥストラ』を小説化したもの だと言われていたらしいことを知ったからである。家には大正十年に新潮社から出た生田長江訳の『ツァラトゥストラ』があった。郁文堂書店から出た独文の 『ツァラトゥストラ』もあったから、父はこれらをドイツ語のテキストとして読んでいたのかもしれない。

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 「ツァラトゥストラは三十歳の時、其(その)故郷と其故郷の湖とを去りて山に入りぬ」で始まる『ツァラトゥストラ』は、ぼくに は面白くなかった。「なんじゃこの偉そうなおっさんは」と思ってすぐ投げ出してしまった。『サアニン』を読み返せば、サアニンもまたこの本を読みはじめた ものの、すぐに退屈して読むのをやめたとあるから、これはアルツィバーシェフ自身のことであろうと思い、わが意を得たような気分になったのだった。実際、 解説を読むと彼はニーチェを好まないと言っていたらしいから、ニーチェの小説化うんぬんは間違いだったということになる。

 しかし『最後の一線』となると、これはもう当時流行の厭世(えんせい)主義哲学そのものである。厭世主義と来れば当然、ショー ペンハウエルということになる。若者を自殺に追いやる哲学者として悪名高かったショーペンハウエルのことは知っていたし、わが家には大正二年に玄黄社から 出た増富平蔵訳の『ショーペンハウエル随想録』があった。実はおそるおそる読みはじめたのだったが、随想録であるだけにこれは読みやすく、しかも面白かっ た。この人は徹底した女性嫌いで、自殺について書かれた部分よりも、女性について書かれているところが凄(すご)かった。「この女に子供を産んでほしいと 思って近づくのでなければ、女性にかかわりあう必要はまったくない」だの「最低の男性といえども最高の女性に優(まさ)る」だの、今そんなことを言ったら ただではすまないような文章が次つぎと出てくる。あまり面白かったので、ぼくはこれを学校に持っていった。「筒井がショーペンハウエルを読んでいる」とい う噂(うわさ)が飛べば皆が驚き教師が心配するから面白いと考えたのである。案に相違して誰もショーペンハウエルを知らなかったので、ぼくはこの本の前記 のくだりを、成績のいい女生徒たちに読ませた。

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 実はぼくの通っていた春日丘高校というのは前身が茨木高等女学校であり、男子よりも女子に優秀な子が多く、なんとなく女生徒が 威張っている風潮があったのだが、成績が劣等に近いにもかかわらず、ぼくにはそんなよく出来る女の子の友人が多かったのである。本を読んだ女の子たちから ぼくが総スカンを食ったのは当然のことだった。

 解説ではアルツィバーシェフも、あのストリンドベルヒに劣らぬ激しい反女性主義者であったらしく、近代劇大系の一冊に含まれていた「嫉妬(しっと)」という戯曲も痛烈な女性批判であり、後年、青猫座という劇団に入ったぼくはこの戯曲をレパートリイに推薦している。

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 書き留めていた断片的短文を死後まとめた。岩波文庫に『自殺について』などの短文集があるが、テキストは別。

表紙画像

ツァラトゥストラ (中公文庫)

著者:ニーチェ

出版社:中央公論新社   価格:¥ 1,100

表紙画像

自殺について 他四篇 (岩波文庫)

著者:ショウペンハウエル

出版社:岩波書店   価格:¥ 420

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