2008年8月20日水曜日

asahi shohyo 書評

人結ぶ「啓蒙」へ原点回帰

[掲載]2008年8月17日

  • [評者]宮崎哲弥(評論家)

■夏の読書特集 新書を読もう!

 新書とは何だろうか。縦およそ170ミリ、横105ミリぐらいの薄手の書籍。

 この雛型(ひながた)を作ったのは岩波書店創業者の岩波茂雄だ。

 彼は創刊時に檄(げき)のような一文を草し、そこに「今茲(ここ)に現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行せんとする」と記した(「岩波新書を刊行するに際して」)。1938年、近衛内閣によって国家総動員法が制定、施行された年である。

 ここで謳(うた)われている「現代的教養」とは往時のものだ。岩波は同文で、「挙国一致国民総動員の現状に少なからぬ不安を抱く」旨を表明しつつも、書物によって涵養(かんよう)された「批判的精神と良心的行動」はあくまで「皇国の発展」に寄与すべきものとしている。

 国益増進がまず目的としてあり、「大国民としての教養」はそれを推進するための燃料と考えられていたのだ。

 この岩波新書が前提とする教養像は、敗戦を挟んで、国家主義から民主主義への体制転換の下、大きな変容を遂げたかにみえた。けれども理念の中身は変わっても、容器はさほど変わっていない。

 例えば現行の新赤版を手に取ってみよう。その巻末には「岩波新書新赤版一〇〇〇点に際して」という文章が載っている。そこで、 教養は依然として「自由と民主主義」の完成という共同的な事業の糧と位置づけられているのを発見する。教養の社会性という点で、岩波新書の姿勢は、戦前も 戦後も一貫しているのだ。

 岩波のみならず、それに続いた中公新書、講談社現代新書も程度の差こそあれ、啓蒙(けいもう)の精神を踏襲していった。

   ■   □

 しかし80年以降、かかる教養観は大きく揺さぶられる。大方のポストモダン思潮は、新書が帯びる生真面目(きまじめ)で、堅苦 しい啓蒙臭を嫌った。知を社会的な力へと導いていく啓蒙の水路こそが、国家による動員や共同体による抑圧を可能にする装置に他ならないとされたのだ。

 教養は社会のためではなく、自分自身の満足のために身につける。このポストモダン的、個人主義的教養観は徐々に近代的啓蒙の最前線だった新書に根本的な変化を迫る。

 それに加え、90年代後半からのデフレ不況によって、本来なら高い単行本向けの企画が安価な新書に流れ、「能書き」はともか く、実質的に新書は領域拡大の路線をひた走っていった。ノンフィクションやルポ、軽めのエッセイや対談、雑学本が毎月数点ずつ刊行され、果てはマンガの選 集までが新書の体裁で出されるようになった。

 そうした新種の新書はおしなべて読者に歓迎され、社会科学や人文学、自然科学の入門書、啓蒙書を中軸とする旧来の新書の立像は次第に輪郭を失っていく。

   ■   □

 この新書のポストモダン化、デフレ商品化というトレンドは最近まで続いたが、ここにきて拡散傾向に歯止めが掛かってきた。2年ほど前から、新書の原点回帰を思わせるようなタイトルがぽつぽつと目につくようになり、昨年には明確な潮流として認められた。

 具体例を示すと、まずベストセラーになった福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)。自らの研究体験、ノンフィク ション風の科学者たちの挿話、卓抜な比喩(ひゆ)、詩的な暗喩(あんゆ)などを織り交ぜながら、生命の本質である流動性と相互依存性を解き明かしていく手 際は見事という他ない。とくに"科学嫌い"に薦めたい啓蒙書だ。

 サントリー学芸賞、読売・吉野作造賞をダブル受賞した飯尾潤『日本の統治構造』(中公新書)も新しい啓蒙のかたちを開示してい る。官僚集団と政治家、政府と与党、中央政府と地方自治体という権力主体間の相互作用が、政治的意思形成にどれほど決定的な影響をもたらしているかを具 (つぶさ)に記述し、理論的な評価を下す画期的な著作。

 従来の政治学の新書にありがちだった理論や理念を偏重する態度は一切みられず、アクチュアルな事実認識をベースとしながら、学問的な水準を保持している。

 経済に関しては新書は昔から充実していたが、やはり現実と学知を架橋する竹森俊平『1997年—世界を変えた金融危機』(朝日 新書)が新鮮だ。アジア通貨危機のケーススタディーだが「ナイトの不確実性」という理論的な道具を駆使しながら、その機序を解き明かし、さらに現下のサブ プライム問題まで論及する実にスリリングな長編論考だ。

   ■   □

 また財政や会計史、刑法などあまり顧みられなかった分野の入門書が続々と刊行されている点も注目に値する。神野直彦『財政のし くみがわかる本』(岩波ジュニア新書)、友岡賛『会計の時代だ』(ちくま新書)、山口厚『刑法入門』(岩波新書)は、安心して薦められる第一人者の著。

 社会学領域では森真一『ほんとはこわい「やさしさ社会」』(ちくまプリマー新書)が白眉(はくび)。社会学の重要な役割とは、 社会的行動が孕(はら)むパラドックスを予(あらかじ)め指摘し、弊害を回避する啓蒙だが、これはまさにその実践例。人を傷つけることを極力避けようとす る「やさしさ」が、厳格で酷薄な社会状況を生み出してしまう矛盾とそのメカニズムを明らかにしている。

 かかる新書の原点回帰は、ポストモダニズムや新自由主義によって散り散りになった個を前提として、再び公共や連帯を築き直そうとする時代の趨向(すうこう)と連動している。新しい教養は人と人とを結び合わせるツールとなるのだ。

    ◇

 みやざき・てつや 1962年福岡県生まれ。慶応義塾大学文学部卒。著書に『正義の見方』(新潮社)、『身捨つるほどの祖国はありや』(文芸春秋)、『新書365冊』(朝日新書)など。

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刑法入門 (岩波新書 新赤版 1136)

著者:山口 厚

出版社:岩波書店   価格:¥ 777

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正義の見方 (新潮OH!文庫)

著者:宮崎 哲弥

出版社:新潮社   価格:¥ 630

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身捨つるほどの祖国はありや

著者:宮崎 哲弥

出版社:文藝春秋   価格:¥ 1,850

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新書365冊 (朝日新書)

著者:宮崎 哲弥

出版社:朝日新聞社   価格:¥ 840

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