暮らしに活かす仏教—ひろ さちや「世間の物差し、仏の物差し」(1)
2008年7月31日
近著のタイトルには「世逃げ」「狂い」「デタラメ」といった刺激的な言葉が目立つ。現代日本人が絡め取られている「世間」からの遁走を促し、自由に生きる術を指し示すそれらの逆説的言辞は、仏教思想の大家の胸中からわきあがる"愛と真理"の表れなのだ。
■「お盆」の本来の意味は
—— 旧盆を迎えるこの時期は、日本人と仏教について考えてみる好機かと思いますが。
ひろ 帰省して墓参りに行ったり仏壇に手を合わせたり、たしかに「仏様」に親しみを感じやすい頃ですね。ただし誤解してほしくないのは、そうした習俗としての宗教行事と、仏陀の教えという本来の意味での仏教は全く別のものだということです。
そもそも、お寺のお坊さんが葬式や法事を執り行うようになったのは、江戸時代に檀家制度が国中に敷かれてからで、それ以前はそ の家の家長が、結婚式なども含めて慶弔事の一切を取り仕切っていました。お坊さんの仕事といえば、ひたすら仏典に親しみ修行を積んで、仏陀の説いた法を修 めてそれを庶民にも伝えることでした。お釈迦様は亡くなるとき弟子たちに「私の葬式は在家者に任せて、出家者のあなた方は修行を続けなさい」とわざわざ言 い遺したくらいです。
そんなわけで「お盆」の行事も、本来の意味づけから大分ずれてきています。お盆には死んだ人の霊魂をお迎えしますが、まだ荒れ 狂った状態の「荒御霊(あらみたま)」に鎮(しず)めの儀式を行い、穏やかな「和御霊(にぎみたま)」になっていただく。この死者の霊(たま)鎮めには足 かけ2年かかるのですが、最初に迎える「新盆(にいぼん)」の鎮めを懇(ねんご)ろに行うことで、以後のお盆からは心穏やかにお迎えできます。
荒御霊がお盆の儀式を通じて和御霊になると、個性を失って「集合霊」となり、他のご先祖様と一緒に家に帰ってくるようになりま す。これをお迎えする儀式が「御正月様」です。そう、昔から「盆と正月が一緒に来た」といいますけども、お盆とお正月はとてもよく似た行事なんですね。
■「世間の物差し」を否定する
—— お寺の檀家になっていれば自然に仏教が身につく、というものではないのですね。
ひろ 日本の宗教人口は仏教系だけで1億人弱いて、神道系を含めると2億人にもなるそうで す。それだけ多くの人に仏様や神様が血となり肉となっていたら、こんなにも殺伐とした、息の詰まりそうな世の中になると思いますか? おかしいでしょう? だったら、私たちは何かを間違えているんじゃないかと気がつかなければ。
私は、著作や講演などでよく「人生は無意味で、生き甲斐なんてない。だから自分の生きたいように生きようよ」という話をしま す。生きる意味だとか生き甲斐などというのは、世間が勝手に定義したものなんですね。例えば、その人が長生きすれば幸福だとなると、早死にした人はそれだ けで不幸といわれる。成功して金持ちになるのが立派であるなら、名もなく貧しく美しいだけの生き方は蔑まれてしまいます。立派に生きようと考えるのは悪く ないけれども、どう生きるのが立派かは自分の価値観で決めればいいことでしょう。その上で、自分の好きなように生きればいいのであって、それが自然だと思 うんですね。
ところが、世間にはひとつ共通の「物差し」が用意されていて、私たちはこれに心を奪われ、まともな判断力をなくてしまうので す。世間の物差しは、人間をその商品価値で測ります。世間の物差しは、使う人によって勝手に伸びたり縮んだりします。世間の物差しは、常に権力者にとって 好都合にできています。しかるに私たちのいるこの世間は、そういうデタラメな物差しをけっして捨てられません。
であるならば、狂った物差しに縛られる生き方はもうやめて、そんな世間からはさっさと出てしまおう。これが私の主張です。い え、私がただ言っているのではありませんよ。実は、それこそが仏教の基本をなす「出世間(しゅっせけん)の教え」であって、世間を批判すること、もっと有 り体にいえば、世間をばかにすることが、仏教の一番大事な仕事といえるのです。
■「仏の物差し」を読み解く
—— 世間をばかするのが仏教の仕事。その批評眼を養うのに、仏教書は役に立ちますか?
ひろ 私の体験談をしますと、あるときバス停に行ったら、先客の老夫婦のおじいさんの方が カンカンに怒っていました。「もう定刻を15分も過ぎている。いつでも遅れるバスの時刻表なんか、ないほうがましだ!」と。そうしたら、連れのおばあさん が名言を吐いたんですね。「でもね、それがないと何分遅れているかわかりませんよ」と。私たちはバスは遅れるものだと知っていても、目安をつけるのにやは り時刻表が必要なんです。
今の日本は狂っていると大概の人は思っていますね。でも、どこがどう狂っているのかわからないから、バスの時刻表に相当するも のを見つけないといけない。今の時代にどういうものの見方、考え方をするべきか、きっちりとした物差しを一人ひとりが持つ必要があるんです。それを私は、 場当たり的な「世間の物差し」に対置させて、「仏の物差し」と呼んでいます。
世間の物差しが狂った物差しであるなら、仏の物差しは寸分の狂いもない物差しかというと、それはちょっと違います。むしろ、目 盛りのない物差し、測らない物差しという方がふさわしい。バスの例にあてはめると、仏の物差しでは「どんなに渋滞しようと時刻表通りに運行せよ」とはなら ないはずです。だって、一台のバスが15分遅れれば、次のバスも15分遅れるのだから、前のバスだけ頑張って5分遅れを取り戻したら、次まで20分空いて しまうのですから。仏教書の中で、仏の物差しとして説かれているのは、たとえ実現不可能でも本当に正しいこととは何であって、その成就が人間としての夢な のだと、そう受けとめてもらえればと思います。
別の例えでいうと、船が航海するには「羅針盤」が欠かせませんが、日本丸という船は、速度計ばかり気にして、羅針盤を見ずにこ こまで航海してきたようなものです。この先どう進んでいいかわからない、今こそ自分で価値判断をしていくための羅針盤が必要なときで、そのひとつが仏教書 であるといっても言い過ぎではないでしょう。
■負けたってええやんか!
—— 仏の物差しを、あるいは仏教的な考え方を、日々の暮らしに活かすコツは?
ひろ 今までの話を一括りにしていうと、「ちょっとだけ損しなさい」「損する勇気を持ちな さい」ということなんです。私たちは現世の中で、どう生きれば得かを考えて汲々としている。みんながそうだから窒息しそうになるんです。他人を押しのけ、 踏み台にしてまで勝とうとしない。負けたってええやんか、という気持ちが仏教を通じて内面からわき起こってくれば、どんなに心が安らぐことか。
世間を批判し、ばかにするのが仏教の仕事といいましたが、その世間をつくってきたのはあなた自身でもあるのだから、一度、自己 の内面に批判の目を向けてみないことには何も始まりません。今までこれと信じて持ってきた価値観(世間の物差し)を否定的に眺めて、より自由な生き方(仏 の物差し)に改める力を、ぜひ授かってほしいと思います。
例えば「リッチ」という概念を、日本人は「金持ち」と理解するけども、イタリア人には「時持ち」が本当のリッチなのだとか。あ る作家の言によれば、イタリアの人に「お忙しそうですね」と声をかけると、「ええ、不幸にして」と答える。日本では同じ言葉が「幸せですね」と同義になる のが、彼らには理解できないそうです。つまり、忙しい人は金を稼ぐのにあくせくし、自分のための時間をなくしているから「お気の毒に」と蔑まれるのです。
胸に手を当てて考えてみてください。「会社人間」としてこれまで、どれほどの時間を会社に費やし、そのツケをどれだけ家族に回 してきたかを。定年を迎えたら生き甲斐と行き場をいっぺんに失い、家族はバラバラ。そんなことにならないように、どこかで目覚めてほしい。仏教書を読めば きっと何かしらヒントが見つかるはずです。
◇
ひろ さちや 宗教評論家/1936年大阪府生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院印度哲 学専攻博士課程修了。65年から85年まで気象大学校教授。広大無辺かつ難解な仏教思想もユーモアをまじえてやさしく説く語り口は、老若男女を問わず人々 を惹きつける。ペンネームはギリシャ語の「愛する=フィロ」とサンスクリット語の「真理=サティヤ」に由来する。仏教書をはじめ約550編の著作がある。
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