イタリア文学者 河島英昭さん 追憶の風景・トリーノ(イタリア)
2009年2月3日
留学したローマは素晴らしかった。まさにヨーロッパはローマから始まっていると実感した。でもやはりトリーノにしましょう。パヴェーゼが育ち、文学仲間と出会い、やがて作品にも登場する豊かな丘を後背地にした、北イタリアの都市。そして彼が死んだ街。
ファシズム下のイタリアに関心があって勉強をはじめ、80年代初頭、僕は在外研究者としてトリーノの駅前ホテルに住んだ。パ ヴェーゼが自殺した一室を借り"棺(ひつぎ)の部屋"と名付けて仕事場にした。そこで彼を思い、彼を知る人々と会った。結局一生かけて彼の作品を読むこと になった。
ホテルの女主人は当時90歳だったけど、「もったいない。パヴェーゼさんの髪の毛はフサフサだった。死ぬ理由なんてどこにもないはず」といったものです。なるほど。不可解な死だった。
『美しい夏』を含む長編3部作でストレーガ賞受賞の直後。『月と篝火(かがりび)』も話題になった50年8月。パヴェーゼは大 量の睡眠薬を飲んで死んだ。42歳の誕生日目前だった。戦争の影に覆われた時代を、叙事詩を思わせる独特の筆致で描いて評価を得、絶頂期にあった作家の自 死にイタリア中が揺れた。
確かに謎だ。でも、わからないでもないのです。すべてを戦争がおぜんだてした、と思う。彼の作品が生まれたのは、戦争のおかげ といえる。例えば彼は、反ファシズム活動家として表現を封じられ、イタリア半島南端の流刑小屋に送られる。だが、そこには、神話の世界が現役で呼吸してい た。現代に古代を透かし見るような、彼のネオレアリズム文学の起点になった。
彼がいのちを自ら絶ったのも、戦争のおかげ。彼は実は、ファシズムと果敢に闘ったわけではない。武器をとった他の知識人とは 違った。日記には獄死した盟友に対する、永らえた自分の負い目を記したような言葉が残っている。解放後、彼は彼らの無念をはらすかの勢いで長短編を書く。 名望を得た後、なすべきことは終わった、と自分自身に終止符を打ったのではないか。
没後50年を期して「集成」を出したかったのだが機が熟しませんでした。生誕100年の節目に実現できて、ほんとうによかっ た。パヴェーゼの世界は同時代の他の作家と比べても格段に幅広い。インテリも農民も、思想的には右から左の人間まで全部を含めて大きく物語ってダンテに匹 敵する。
古代中世近代と、ぶ厚いヨーロッパ文学の伝統の地層の上に立ち、ダンテやボッカチオを十分に意識して書いている。詩には動物と 人間を同列にとらえるアニミズムに近い感覚がある。源氏や日本文学の古典も勉強していたし遠い感じがしないのです。そうやって古典、歴史を取り込んだ恐ろ しくも素晴らしい世界がパヴェーゼなのです。
イタリア。また行きたいなあ。でも進行中の「集成」以外にパヴェーゼの伝記も書いていて暇がない。それにローマ大学でお世話に なった恩師のデベネデッティ先生も亡くなった。先生は、偶然だがやはりトリーノ出身の100%ユダヤ人だった。あの戦争を生き延びた元パルチザンです。パ ヴェーゼのお姉さんたち、トリーノ時代に親しくした人は大半が故人。追憶の彼方(かなた)だ。思えば……僕は戦争で疎開し、焼け野原になった故郷に戻った 世代。パヴェーゼへの共感の背景には僕の喪失体験がある。こうして今、彼とつきあってるのも戦争のおかげだな。
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「戦争のおかげ」と何度もいった。すさまじい逆説をはらんだ言葉を反芻(はんすう)する。戦争は文学を生む、か。そして文学者を殺す、か。(河合真帆)
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河島英昭(かわしま・ひであき) 33年東京生まれ。東京外語大名誉教授。08年秋、『パヴェーゼ文学集成』(岩波書店、全6巻)の刊行が始まった。
- パヴェーゼ文学集成〈1〉長篇集 鶏が鳴くまえに
著者:チェーザレ パヴェーゼ
出版社:岩波書店 価格:¥ 5,250
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- 美しい夏 (岩波文庫)
著者:パヴェーゼ
出版社:岩波書店 価格:¥ 588
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- パヴェーゼ文学集成〈3〉長篇集 月と篝火
著者:チェーザレ パヴェーゼ
出版社:岩波書店 価格:¥ 5,250
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