2009年1月15日木曜日

asahi shohyo 書評

ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』 高村薫(下)

[掲載]2009年1月11日

■入れば出られぬ空間、意味なきことに陶酔

 レストランに入る。コース料理を注文する。一つ一つ料理が出てくる。なんだか凝った料理。食べられるが、何の味か分からない。そのうち突然、生の野菜が積み上げられる。かと思えば、次は料理事典。次は駄菓子の山。次は——。

 私の『ユリシーズ』は、そんな感じである。第一に何が書かれているかは分かるが、なぜそれが書かれているのかが分からない。ダ ブリン市民ならふつうに分かるのだろう日常風景や生活感の全部が分からない。呆(あき)れるほどちりばめられた詩や寓意(ぐうい)も、研究者の脚注を参照 すれば分かるという次元のものではない。

 ジョイスのレストランに集うのは、本来は古典から現代までに積み上げられてきた人間の言葉の織物の、いまでは分厚くなり過ぎた 生地を前に、あれこれ楽しめるマニアたちだと思う。その目的は美味ではない。発見のための発見、確認のための確認を通じた、友人同士の洒脱(しゃだつ)な 酔い心地といったところに違いない。そんなレストランを、私のようなよそ者が覗(のぞ)き込む。

 もとより共有する下地がないので、驚きもない。言葉遊びにも感応しない。古典の理解はパス。それなのに、入ったが最後出られない空間になる、これぞ小説というものではないか。

 私にとっての圧巻は「イタケ」、一般に目録や羅列と呼ばれている不思議な章である。そこでは一日の終わりに主人公レオポルド・ブルームとスティーブン・ディーダラスについて、それぞれの行動が逐一、神の眼(め)で確認される。

 ブルームはレンジの上に何を見たか? 右に何々、左に何々。ブルームはレンジで何をしたか? ブルームは湯沸かしに水を入れる ために水道の栓をひねる。水は出たか? 出た。ではその水はどこから来たか。そこから貯水池へ、川へ、峡谷へ、ダムへ、水道委員会へと遡(さかのぼ)って ゆく自動書記のような言葉が溢(あふ)れだす。意味がないこと、そのことに陶酔する私がいる。(作家)

    ◇

 1904年6月16日のダブリンが舞台の代表作。22年刊。丸谷才一ほか訳、集英社文庫、全4巻。

表紙画像

ユリシーズ〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

著者:ジェイムズ ジョイス

出版社:集英社   価格:¥ 1,200

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