2009年1月24日土曜日

asahi journalism Natsuki Ikezawa

新聞、大人への入り口 池澤夏樹さんと本社主筆対談

2009年1月23日3時1分

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写真池澤夏樹さん(右)と船橋洋一主筆=川村直子撮影

 朝日新聞は25日、創刊130周年を迎えます。新聞の機能や役割、そして読者への発信のあり方はどう変わってゆくのか。自らインターネットで情報発信する芥川賞作家の池澤夏樹さんと、本社の船橋洋一主筆が、新聞の現状と将来像について語り合いました。

 ■新聞を取り巻く状況

 船橋 100年に1度の経済危機と言われていますが、メディアも同じくらい大変革期に入っています。今のメディアについてどうお考えですか。

 池澤 4年半前からフランスに住んでいます。この何十年かずいぶん旅をして、あちらこちらから世界を見てきました。僕自身の生き方のキーワードの一つが 「世界」という言葉なんですね。ここ数年で自分にとって大きかったのは、世界と自分とのかかわりから、メールマガジンを始めたことです。きっかけは米同時 多発テロ。自分の考えと、新聞、テレビ、雑誌が報道していることがずいぶん違いました。特に事件直後の報道では米国の側の視点はあっても、アメリカに反発 する人々の側からの報道は少なかった。

 船橋 ニューヨーク・タイムズなどのクオリティーペーパーは、(イラク戦争開始前の)02年夏ごろから主戦論一辺倒になりました。イラクの現場か らの報道も、きわめて難しくなった。同年12月、NGO「International Crisis Group」は、イラク戦争前にイラクの人々が今、 どういう状況になり、どう思っているのかを的確に伝えました。ジャーナリストの一人として無力感を感じたことを覚えています。

 池澤 私は02年秋にイラクに行って、あの国の社会を見ました。当時は日本や欧米のメディアはイラク国民のことをまったく報じていなかった。戦争 になれば彼らが死ぬと思って、講演会やテレビなど、自分なりの開戦反対のキャンペーンをやりました。しかし03年3月19日に戦争が始まってしまった。

船橋 03年の年明けのコラム(1月30日付)で、私は「残念だが戦争は不可避。戦後のイラクで日本はこういう役割を果たすべきだ」ということを書きました。そうしたら、読者から「最後まで戦争を予防しようとするのがジャーナリストの仕事だ」とおしかりを受けました。

 池澤 イラク開戦の前、アメリカでもヨーロッパ諸国でも大規模な反戦デモがありましたが、日本ではとても低調だった。世界の動きへの関心がない。日本の社会への関心さえ薄い。本当に自分の身辺にしか興味がない。

 船橋 新春の朝日新聞文化面の連載「感情模索」では、「ミニマムなリアリティー」という言葉を紹介しています。つまり、マスの対極にある、極めて個人的 なものにリアリティーを感じ、共感する一群がいるということのようです。ひいては、物事にあまり深く絡め取られたくないし、付き合いもほどほどにするとい う考え方なのかもしれない。公憤や新聞へのプレッシャーもかつてほどではない、という感じがします。新聞は、現場に埋もれる声と真実を真底つかみ出す「ラ ジカルリアリズム」を追求しなくてはと思っています。我々がもっと国民的課題を設定していかないといけないのではないでしょうか。

 池澤 ミニマムなリアリティーの実感は、芥川賞の候補作からも感じます。男と女は友達のままで恋人にはならない。世界観はないし主義主張もない。 でも感情はたっぷりある。「大いなる物語」なんていらないと割り切って暮らしているんです。公的な状況も私的に解釈するから、公憤の代わりに私怨(しえ ん)が炎上する。イラク人質事件の高遠菜穂子さんらへ向けられた批判はその一例だったと思います。

■新聞の機能

 船橋 4月から朝日新聞の昭和報道の検証を始めます。それを準備しながら思ったのですが、例えば1931年の満州事変。第一報を知らされた幣原外相は、 閣議で「軍部の仕業ではないのか」と問いただします。当時の記者がこれを特ダネとして報じたら、国会はハチの巣をつついたように大論争になったでしょう。 権力の中で何が起こり、何が隠されていくのか。権力の矛盾をつき、それを書くのが私たちの仕事だと思います。それから戦争になったら、もう遅い。一番大切 なことは予防だと思います。

 池澤 政策についていくつかの選択肢があって、それが政権内部の権力闘争と結びついている場合、その構図全体が報道されれば、政策は国民に見えるところで決められる。満州事変の時のメディアにはその力がなかったということですね。

 船橋 インターネットは重要ですし、ここにもジャーナリズムを育てる必要があります。ただ、現時点で同時進行で権力取材・権力監視ができるのは新聞だと自負しています。

 池澤 ネットやブログは結局、広場のざわめきなんです。ひとつひとつの声は声高ではないけれど、近づいて耳を澄ますことはできる。

 船橋 私たちはオピニオン面の機能が大事だと思っています。そこでは、当事者に真っ正面から発言してもらう。批判するだけではなく、批判対象と なっているものに取り組む人々、批判されている人々にも登場してもらいたい。そこから論点をもっと鮮やかに浮かび上がらさねば、と考えます。

 池澤 メールマガジンに力を入れていたころ、家庭や職場や教室の議論の場で反戦側に立つ人に論拠を提供するのが自分の義務だと思っていました。なぜ戦争をしてはいけないかという理由をまとめる。それは新聞の機能でもありますよね。

 船橋 池澤さんには朝日新聞に小説「静かな大地」を書いていただきました。新聞小説は、外国の新聞には、なかなかない売り物です。新聞小説は、時間軸、というかパースペクティブ(視野)が深くとれるんですね。

 池澤 読者は、こちらが投げた球を、ちゃんと受け取ってくれます。ちょうど、聞き手のみなさんを前に朗読をしているような感じです。書くとすぐに反応が来る。「静かな大地」でも、最後の方で「主人公に悪いことが起こりませんように」というお願いの投書が来ました。

 船橋 読者と対話しながらの取材・報道を、もっとやらなくてはいけないのかもしれませんね。

 池澤 メールマガジンは双方向的ですね。反応が、ばんばん来ます。間違いはすぐ直してくれるし、激しい反論も来る。雑誌などと違ってメールマガジンの記 事はいわば抜き身で読み手の胸元に飛び込む。強い表現をすると強い反発を買う。だから、おだやかにおだやかに説明するんです。「子供電話相談室」のような 文体がいい。

 船橋 新聞記者もネット用、ブログ用、携帯用、新聞用と文体を変えて、それぞれ公に出していくのが21世紀の職人芸なのでしょうか。

 ■社説の影響

 船橋 新聞の社説には、公共政策にかかわる議論をタイムリーに出していく役割があり、社説は新聞社の「命」だと思っています。社説について、日本の新聞の課題は何だとお考えになりますか。

 池澤 日本の新聞は、今よりももっと、社説で海外事情について論じることが大切だと考えています。国際化が進む中、新聞社は日本国内だけを向いていれば いいというわけではない。世界に向けてもニュースや解説、社説を発信しなければならない。以前、朝日新聞が社説で、あるトピックについて「米国政府が何を すべきか」と書いたことがありました。すると、その社説に対して、「そんな内容の社説を、米国の誰が読むというのだろう。執筆した論説委員の自己満足なの ではないか」と揶揄(やゆ)する声が出たのです。私はその声に強い違和感を覚えました。

 船橋 池澤さんの意見に全く同感です。米国では日本の新聞の社説が読まれていない、というのは事実誤認ですね。在日米国大使館は、朝日新聞の社説 を毎日翻訳し、分析した上で本国の国務省に報告しているので、国務省の中でも朝日新聞の社説は読まれているのです。社説は英語でインターネットサイトにも 掲載されているので、全世界の人がウェブ上で読むこともできます。社説の筆者に、世界で読まれているという意識があるのとないのとでは、読者へのメッセー ジの伝わり方が全然違います。

 池澤 事件や事故などのニュースについて、事実関係の報道だけでなく、そのニュースの社会的・歴史的意義を新聞がどうとらえたのか、という点に注 目しています。事件直後の報道の中身には、新聞各社の間で大きな差は出ない。むしろ視点の違いがはっきり出るのは社説なので、それを読み比べるようにして います。

 ■ルポルタージュの重要性

 船橋 池澤さんが、イラク戦争直前にイラクに渡り、バグダッドなど現地の生活の本当の姿を描いた「イラクの小さな橋を渡って」は、すばらしい作品でし た。自分がイラクに行って現地の人と接したら、どのように書くだろう、と思いながら読みました。朝日新聞では、このようなルポルタージュに昨年からいっそ う力を入れており、「ルポにっぽん」というタイトルで、これまでどちらかというと硬いニュースの多かった1面に、あえて掲載しています。緊急医療の現場の 緊迫感を伝えたり、長距離トラック運転手に12日間、記者が密着したりしています。いずれも、電話の呼び鈴が聞こえたり、靴底がすり減ったのが感じられる ような内容でした。

 池澤 私は新聞のルポを読むのが大好きなんです。これからも、新聞記者はどんどんルポを取材し、記事にしていただきたいと思っています。しかしな がら一方で、ルポを掲載する受け皿として、新聞紙面の広さが最適なのだろうか、と思うこともあります。一人の人間の生き方について文章にするには、ある程 度まとまった行数やページで紹介することが必要です。読者も、一定の行数の描写を読んで、はじめてその内容を理解し、感動します。新聞のルポもすばらしい のですが、欲を言えばもっともふさわしい媒体は、ひとつの記事に多くのページをさける月刊誌なのではないかとも思うのですが。

 船橋 新聞でも、よいルポに仕立てるには、ある程度まとまった行数で書けるようなスペースが必要です。「ルポにっぽん」では、1面だけで終わるのではなく、そのまま2面に続けて読める形などをとっています。

 池澤 優れたルポルタージュに贈られる「ユリシーズ賞」の選考委員を務めたことがあり、世界各国のジャーナリストによるすばらしいルポルタージュ を数多く読みました。ただし、日本では、受賞候補作となるような作品が、なかなか見当たりませんでした。ユリシーズ賞が重視しているのは、一つの国の中だ けで起きている問題よりも、複数の国にまたがる国際的な問題の方ですから。ルポの筆者の出身国以外の言語に訳しても読んでもらえるような内容でなければな らないのです。私が選考委員をしていた時は、日本のルポには、そういうものが少なかった。最近では朝日新聞の松本仁一記者が、内戦や紛争のたびに登場する 旧ソ連製の小銃をテーマに、銃に翻弄(ほんろう)される国家や人々について書いた「カラシニコフ」のような、優れた作品が日本からも出ています。こうした 国際的なルポが、もっと増えて欲しいと考えています。

 船橋 日本国内にも、国際的なルポの題材はあると思うんです。例えば、日本国内に住んでいる中国人は急増しています。楊逸(ヤンイー)さんが芥川 賞を受賞するといった、知的にも新しい動きが見られます。日本国内の中国人は日々、どのように暮らし、日本人社会でどう共存していくのか、そして課題は何 なのか。そうしたテーマを記者がルポすることが、それだけで世界を描くことになると思うんです。

 池澤 私もそう思います。これまで日本人にとって、日本人であることは、いわば自明のことでした。しかし国際化が進み、外国から移住してきた人々 が増えてくると、何をもって日本人と言えるのか、一人一人が定義付けする必要が出てくる。すなわち、日本人であることの自覚を、改めてつくりなおしていか なければならないんです。そうした意識改革を進めながら、異なった言語や文化的背景を持つ人々がお互いに理解した上で、ようやく国が出来る。このような流 れをジャーナリズムが追うのは大切だと考えています。

■新聞の可能性

 池澤 朝日新聞の部数は多いですが、その分、扱う話題が多くて焦点がボケる嫌いがある。1紙で国際問題から生活まですべてをまかなえるというのは長所なのでしょうが。

 船橋 難しいところですね。身辺雑記的な記事を好んで読む方もいます。「とんがった」ニュースを求める人もいますし、一人の読者の中にこの両方のニーズ もあるでしょう。新聞は「市民」「国民」を作る共通項の機能を果たしてきたということも言えると思います。ただ、夢は総合デパートというより、専門店街で すね。昨年10月から新しく出した「GLOBE」もそうした心づもりでやっています。日本と世界の新しいかかわり、その中で挑戦する日本人を描こうとして います。

 池澤 「GLOBE」を拝見していて、「あ、ここはクオリティーペーパーだな」と思いました。国際的なテーマだけを取り上げて深く論じて、面白い。

 船橋 朝日新聞でメディア批評をしてくださっている池上彰さんが、「今、若い人が新聞を読まないから、その子どもの中には物心ついたころから新聞 を読んだことがない子がいる」とおっしゃっています。小学校の子どもを持つ30〜40代が新聞を一番読まないんです。ぜひ読んで欲しいと思うんですがね。

 池澤 子どもは新聞をのぞいてみて一つでもわかる記事があると、自分が大人になった気がするものです。家族と新聞というのはセットになっているのかもし れませんね。新聞には家族を束ねる機能がある。だから大家族が小家族になって一人住まいの人が増えると新聞の読者も減る。これはなかなか深刻な問題です ね。

 船橋 米国でニューヨーク・タイムズを日曜日の朝、スーパーマーケットで買って、小脇にかかえて、午前中時間をかけて日差しを浴びながら読む、あ の楽しさ。1日が新聞を読むことから始まる、日めくりのポータル(入り口)感覚。あれを朝日新聞で日本の多くの方々に味わっていただきたい。ベネディク ト・アンダーソンが「近代人には新聞が朝の礼拝の代わりになった」とのヘーゲルの言葉を引用し、その上で「このセレモニーを行う数百万の人々は、お互いの ことは全く知らないが、これは想像の共同体なのだ」と著書『想像の共同体』に書いていますが、そういう新聞は市民・国民の共通項なのでしょう。

 池澤 もう一歩この論を進めると、県単位から全国まで、コミュニティーの束ねの役割も果たしている。新聞を共有することで人と人はつながるとい う。テレビにその機能があるけれど、インターネットはむしろ逆に人を個人に戻す。新聞は、日本人の自意識に結構つながっているんだなと、今、気づきまし た。



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