2009年1月31日土曜日

asahi science Nobel Prize winner Masukawa peace act

ノーベル賞の益川教授、平和への思い語る

2009年1月31日13時5分

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写真反戦についての思いを語る益川敏英教授=京都市北区、諫山卓弥撮影

写真父一郎さんと益川教授。小学2年のころ名古屋市の東山公園で撮影=益川教授提供

写真京都大助手時代の益川教授(前列左から2人目)。東大原子核研究所助教授就任が決まり、仲間に胴上げされた。76年撮影=益川教授提供

 ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英・京都産業大教授(68)は昨年12月にストックホルムで臨んだ受賞講演で自らの戦争体験に触れた。そこに込めた益川さんの思いが知りたくて、戦争とともに始まった半生を聞いた。

 受賞講演では「自国が引き起こした無謀で悲惨な戦争」という表現で太平洋戦争に言及した。開戦前年の1940年生まれ。父は当時家具職人。5歳のとき名古屋空襲に被災した。

 「焼夷(しょうい)弾が自宅の瓦屋根を突き破って、地面にごろりと転がる。家財道具を積んだリヤカーに乗せられ、おやじやお袋と逃げまどう。そんな場面 を断片的に覚えている。焼夷弾は不発で、近所でうちだけが焼けなかった。あとから思い返して、発火していれば死んでいたか、大やけどを負っていたと恐怖が わいた。こんな経験は子や孫に絶対させたくない。戦争体験はぼくの人生の一部であり、講演では自然と言葉が出た」

 敗戦翌年に国民学校(小学校)入学。校舎は旧日本軍の兵舎跡。銭湯の行き帰り、父から天体や電気の話を聞かされ、理科や数学が得意と思い込んだ。

 「祖父母は戦前、植民地下の朝鮮で豊かな暮らしをしていた。高校生のころ、小学生だった妹が母に、朝鮮での暮らしぶりをうれしそうに尋ねるのをみ て、ぼくは『そんなの侵略じゃないか』と怒鳴ったことがあったそうだ。戦争につながるもので利益を得るのは許せないと思っていた」

 58年春、名古屋大理学部に入学。日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の弟子の坂田昌一氏が教授を務める素粒子論教室で学んだ。

 「家業の砂糖商を継ぐことを願っていた父に、1回だけの条件で受験を許してもらった。その坂田先生は『素粒子論の研究も平和運動も同じレベルで大 事だ』と語り、反核平和運動に熱心に取り組んでいた。科学そのものは中立でも、物理学の支えなしに核兵器開発ができないように、政治が悪ければ研究成果は 人々を殺傷することに利用される。「科学的な成果は平和に貢献しなければならず、原水爆はあるべきでない」と熱っぽく語られた。私たち学生も全国の科学者 に反核を訴える声明文や手紙を出すお手伝いをした」

 67年、名古屋大理学部助手に。大学職員の妻明子さんと結婚した。学生運動全盛の時代。ベトナム反戦デモに参加したり、市民集会に講師として派遣されたりした。

 「とにかく戦争で殺されるのも殺す側になるのも嫌だという思いだった。ぼくのやるべき仕事は物理学や素粒子論の発展で、平和運動の先頭に立って旗振りをすることじゃない。でも研究者であると同時に一市民であり、運動の末席に身を置きたいと考えていた」

 作家大江健三郎さんらが設立した「九条の会」に賛同して、05年3月、「『九条の会』のアピールを広げる科学者・研究者の会」が発足すると呼びかけ人になった。

 「日本を『戦争のできる国』に戻したい人たちが改憲の動きを強めているのに、ほっとけないでしょ。いろんな理由をつけて自衛隊がイラクへ派遣されたが、 海外協力は自衛隊でなくてもできるはず。まだおしりに火がついている状態とは思わないが、本当に9条が危ないという政治状況になれば軸足を研究から運動の 方に移す」

 ノーベル賞授賞式から約1カ月後、黒人初のオバマ米大統領が誕生した。

 「ぼくは物理屋でいるときは悲観論者だが、人間の歴史については楽観的。人間はとんでもない過ちを犯すが、最後は理性的で100年単位で見れば進 歩してきたと信じている。その原動力は、いま起きている不都合なこと、悪いことをみんなで認識しあうことだ。いまの米国がそう。黒人差別が当然とされてき た国で、黒人のオバマ大統領が誕生するなんて誰が信じただろう。能天気だと言われるかもしれないが、戦争だってあと200年くらいでなくせる」(武田肇)



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