2009年7月28日火曜日

asahi shohyo 書評

過ぎ行く人たち [著]高橋たか子

[掲載]2009年7月26日

  • [評者]横尾忠則(美術家)

■「私」の流れつく先はどこなのか

 冒頭、28歳の私(著者ではない)はノルウェーでブノワと名乗る8歳の少年に出会う。10年後、パリの聖ジェルマン通りですれ違った青年と少年が重層する。「私の超感覚のようなものが、そう囁(ささや)く」。その後も、少年の分身のような青年が行く先々で立ちはだかる。

 そして物語の最後までこの謎のイメージで引っ張られる。

 「私」は、私自身の探偵になったように謎の源流(過去)へ逆流しながら同時に未来にも流れる、そんな不思議な無意識の推移を旅 し続ける。「私」はどうやら謎の正体をつきとめたがっているようだ。「私」の謎は私の源泉、本性、無意識、悟りへの旅なのか? それは唯識の世界に参入す る儀式のようにさえ思えてならない。

 とにかく「私」は、未知なるものに運命的に近づきたがる。その対象は、すべてフランスとフランス人である。そこへの蘇(よみが え)りは「大過去」(前世?)からの見えない磁力の作用では? 「私」の中を流れる運命の河の岸辺に寄り添うように現れては消える既視感は「私」のもの?  それとも宇宙空間にある人類の全情報の記録とされるアカシックレコードのような、宇宙のマザーコンピューターから発信される、とてつもない昔の昔の大昔 の大河から流れてくる見知らぬ誰かの情報なのか?

 それをわれわれは単に無意識と片づけているけれど、大乗仏教の深層心理である阿頼耶識(あらやしき)ではないのか? 「私」は少年ブノワの幻影に導かれながら一体どこに流れつこうとしているのか? いや、流れつく場所などあるのか、ないのか?

 僕はこの流浪する「私」の魂に導かれながら、過去という未来のネバーエンディングドリームの世界に迷い込んだかもしれない。それが心地よいのはなぜなのか? 「私」の視点はここではない「川むこう」のどこか? 誰かの夢の浄化された宇宙へ、聖域へと移動して行く。

 少年ブノワとは一体、何者なのか? 「私」との関係は? ブノワとはもしかしたら、既視感としての「私」ではなかったのだろうか?

    ◇

 たかはし・たかこ 32年生まれ。作家。著書に『誘惑者』『怒りの子』など。

表紙画像

過ぎ行く人たち

著者:高橋 たか子

出版社:女子パウロ会   価格:¥ 1,575

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誘惑者 (講談社文芸文庫)

著者:高橋 たか子

出版社:講談社   価格:¥ 1,121

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怒りの子 (講談社文芸文庫)

著者:高橋 たか子

出版社:講談社   価格:¥ 1,365

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