サハリン島（上・下）　[著]チェーホフ

[掲載]2009年7月25日朝刊be

■『１Ｑ８４』に刺激され

　村上春樹『１Ｑ８４』に引用されたことで問い合わせが殺到し、岩波書店に５千部の大増刷を決断させた本作。

　思い出したのが「讃岐うどん」ブームだ。村上の旅行記『辺境・近境』所収の讃岐ルポが火を付け、香川が舞台の『海辺のカフカ』で極まったというのが私見である。

　村上は本作も、長編以前に旅行記で取り上げた。『東京するめクラブ　地球のはぐれ方』でサハリンを訪問し、文豪による１００年以上前の滞在記に触れて書く。〈ずっと昔この本を読んで以来、僕はサハリンという土地に対して興味を持っていた〉

　食欲も読書欲も刺激するのが、村上作品の力だ。

　本作に返れば、ベストセラーに〈気の毒〉かつ〈すてきな〉と引用された先住民族ギリヤーク人（正しくはニブフと呼ぶべきだ）の描写のほかに読みどころがもう一つ。サハリン南部の港町で日本の領事と交流する場面だ。〈ヨーロッパ風の教養を受け、申し分なく慇懃（いんぎん）で、洗練された、愛想の好（よ）い人々である〉。ちょいと「上から目線」。

　『１Ｑ８４』には旧樺太在住朝鮮人の血をひく脇役も登場する。考えるべきは「文化の相対性」か。（坂本哲史）

■もっとはまりたい人へ　書店員のおすすめ

　ブックファースト新宿店（文庫・新書担当）　中村亜見子さん

〈１〉カラマーゾフの兄弟　１〜５　[著]ドストエフスキー　[訳]亀山郁夫

〈２〉グレート・ギャツビー　[著]Ｓ・フィッツジェラルド　[訳]村上春樹

〈３〉二〇〇二年のスロウ・ボート　[著]古川日出男

　三省堂神保町本店（人文・教育・アートフロア係長）　福澤いづみさん

〈４〉坑夫　[著]夏目漱石

〈５〉イタリア紀行（上・中・下）　[著]ゲーテ　[訳]相良守峯

　村上作品では、昔からよく世界の名作が引用される。本作同様『１Ｑ８４』に登場した〈１〉。村上本人が目指す総合小説の到達点として、引き合いに出す一作でもある。中村さんも、「気楽に読める長さではないが、迷っている時間がもったいない。読了すれば、何事にも代え難い読書体験になる」と大絶賛だ。

　最も売れた村上作品『ノルウェイの森』。「作中で主人公のワタナベ君が言うように、読みかえすほど魅力を発見できる作品」（中村さん）というのが、０６年に村上本人訳で刊行された〈２〉だ。村上自身にも大きな影響を与えた一冊といわれる。

　図書館が重要な舞台になる『海辺のカフカ』からは〈４〉。カフカ少年は、〈４〉について「『なにを言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残る」と感想を述べる。福澤さんは「漱石の作品は近代教養小説といわれるが、『坑夫』に限っては『現実逃避』の作品かもしれないと思った」と評する。

　〈４〉を巡る登場人物の問答で、ゲーテの「世界の万物はメタファーだ」という言葉が引用される。そのゲーテによる〈５〉を、福澤さんは村上のイタリア旅行記『遠い太鼓』で知ったという。「描かれたイタリアの景色とゲーテが結びつくことに驚いた記憶がある。村上もゲーテも文学者として表現が絶妙なので、読み比べてみては」

　いまやその人気は世界的。短編『中国行きのスロウ・ボート』から抽出した言葉を、各章の題名に持ってきた〈３〉は今後、村上作品が逆に引用される時代の到来を予感させる。とはいえ「破天荒さやリズムに乗った文章は古川ワールド」（中村さん）だ。