2009年7月28日火曜日

asahi shohyo 書評

夜想曲集—音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 [著]カズオ・イシグロ

[掲載]2009年7月26日

  • [評者]鴻巣友季子(翻訳家)

■人を隔てる「壁」 滑稽さで描く

 若い頃ミュージシャンを目指したという作者初の短編集だ。

 各編には色々な「音楽家」が登場する。往年の大物歌手、無名のバックプレーヤー、夢を諦(あきら)めてスターと結婚した 女……。そこに、夫婦、病院の患者同士、師弟など、こじれたりねじれたり、一風変わった男女関係が絡む。元共産圏のギタリストは、ベネチアで舟に乗って妻 にセレナーデを捧(ささ)げるという米国男に伴奏を頼まれ、定職のないジャズ好きは、裕福な友人夫婦の仲直りのため夫の引き立て役にされ、サックス奏者は 売れるためにハリウッドで整形手術をする。短絡的と言えば言えるだろう。必死さゆえの人間の滑稽(こっけい)さを、作者はドラマチックな起伏を作らず素っ 気なく描く。よく出来たオチもない。むしろ長編の呼吸や余韻に近く、一編ごとに深い充足感が得られる。

 しかし主題は男女間の危機や顛末(てんまつ)にあるのではない。ある意味、これは才能と才能がもたらす「壁」をめぐる物語集 だ。才能があって成功した者しない者、なくても成功した者、才能の芽を守るだけで一音も弾こうとしない者、成功しても忘れられた者……。才能なる残酷なも のは、様々な形で人と人を隔てる。本書には「アマデウスとサリエリ」の永遠のテーマがあり、真贋(しんがん)と成否の皮肉な関係が作用し、その奥で静かに 描きだされるのは、動かしがたい世界観の異なりと意思の不通である。

 作中には、「(境遇の違う)あなた(私)にはわからない」といった台詞(せりふ)がしばしば見られ、人々のすれ違いや戸惑いの 理由が、文化圏、政治体制、生活階層などの違いにひとまず解(わか)りやすく置き換えられている。だが、人と人の間の溝がもっと深い処(ところ)に発して いるのを、読者は察するだろう。

 訳者によれば、いま各国からインタビューが殺到している作者は、自作がどう翻訳されるかが気になり、他言語で通じにくい書き方 は避けるようになったと言う。異文化での意思不通、翻訳不能への恐れから創作に制約が生じないよう祈る。小説言語がもつべきは、共通性ではなく普遍性なの だから。

    ◇

 土屋政雄訳/Kazuo Ishiguro 54年生まれ。英国作家。『日の名残(なご)り』でブッカー賞。

表紙画像

夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語

著者:カズオ・イシグロ

出版社:早川書房   価格:¥ 1,680

表紙画像

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

著者:カズオ イシグロ

出版社:早川書房   価格:¥ 798

0 件のコメント: