2009年7月15日水曜日

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日本民族学の出発点「後狩詞記」出版100年 柳田民俗学の背景探るシンポジウム

2009年7月15日

  宮崎県の椎葉村を旅した柳田国男は、そこでの見聞を「後狩詞記(のちのかりことばのき)」として翌1909年に自費出版した。焼き畑と狩猟に生きる山の民 の習俗や伝承の記録。わずか50部の印刷だったが、日本民俗学の出発点とされる。その出版100周年を記念し、法政大国際日本学研究所がこのほどシンポジ ウムを開催。柳田民俗学誕生の背景に迫ろうとの狙いだ。

 柳田は法制局参事官の職にあったが、もともとは農政官僚で、焼き畑の現場を見に椎葉村へ行ったとされる。当時は日本の山林を取 り巻く環境が大きく変わった時期だったと、シンポジウムで、法政大特任教授のヨーゼフ・クライナーさん(文化人類学)が指摘。西欧から学ぶうちドイツなど の王家が広大な山林を所有することがわかり、日本でも国有林や御料林を増やすことになった。さらに日露戦争前後から木材の需要が急増。炭焼きやマタギの人 々、焼き畑農耕は「山を傷つける」と白眼視されるようになったという。

 柳田は村長の家に5泊し、平地の農村とは違う暮らしに驚いた。特に注目したのはイノシシ狩り。中でも狩りの作法で大きな役割を 果たす「山の神」の存在にひかれた。「後狩詞記」には、「山の神とは如何(いか)なる神であるかを知らない」「誰か之をよく説明して下さる人は無いか」と 記している。仏教など外来宗教が入る前からあった日本古来の信仰と考えたようで、この「山の神」が、柳田民俗学の出発点となった。

 「私も山の神とは何かを知りたくて全国を歩いてきた」という近畿大の野本寛一名誉教授(民俗学)は「分かったのは山の神はひと つではないということ。共通なのは女性であることぐらいで、地域によって違う」と語った。「冬は山に帰り、春に里に下る」とのイメージがある山の神だが、 それは稲作民の山の神にすぎないとも指摘した。

 国立民族学博物館の佐々木高明名誉教授(民族学)は、山の神には西南日本と東北日本の2系統があると語った。そのうち西南日本の山の神は東南アジアからインドにまでつながるものだという。

 日本固有の文化とは? 生涯のテーマとなるこの疑問に、柳田は椎葉村で出あっていた。それから1世紀、見えてきた日本文化の源は柳田が思った以上に多様だったということなのかもしれない。(渡辺延志)




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