2009年7月30日木曜日

kinokuniya shohyo 書評

2008年08月29日

『癒しとしての笑い——ピーター・バーガーのユーモア論——』ピーター・L・バーガー(森下伸也訳)(新曜社)

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「病いを滑稽に語ること」

著者であるピーター・バーガーは、1929年生まれの非常に著名な社会学者です。『日常生活の構成』や『聖なる天蓋』(ともに新曜社)に代表される、個人 の意味世界と社会の構造、近代、宗教といった大きなテーマを扱う著書が多数あります。そんな老大家の邦訳書として久しぶりに紹介されたのは、意外にも「滑 稽(コミック、"comic")」を扱うものでした。

ここでいう「滑稽」とは、うれしかったりくすぐったりするのとも異なる、「何かが可笑しい」という表現ないし知覚を指します。十分にユーモア感覚(滑稽を滑稽と受け取れる能力)をもった聞き手(あるいは読み手)に恵まれれば、笑いによって滑稽は達成されることになります。

滑稽が持つ認識上の貢献とは何なのか。この本を通じてのバーガーの答えをまとめると、私たちが疑いを抱かない現実に対して、それ以外のやり方では閉 じ込められたままになっていたであろう別の現実を知覚させ、相対化する、というものです。このアイディアは、それ自体がバーガーのオリジナルというより も、むしろ、笑いに関する学問的考察の伝統から彼が抽出し(第2章)、さまざまな滑稽表現の文化(第3章以降)を渡り歩きながら確かめられていったもので す。

「別の現実を知覚させ、相対化する」といっても抽象的でしょうから、ここでは——バーガー自身も取り上げなかった事例として——病いを滑稽に表現す る語りの分析を通して理解を試みたいと思います。取り上げるのは、小池修一さんの「パーキンソン病との出逢 い」(http://www.xyj.co.jp/human/hisao/koike/index.html)です。(パーキンソン病については、 2006年10月の当ブログもあわせてご覧ください。)

肩の動作の不具合などの兆候から物語は始まり、検査を経て、主人公は「パーキンソン病」と診断されます。彼は大いにショックを受け、鬱々とした日々 を送ります。しかし、周囲の人(このケースでは主治医と妻)の励ましや助力があり、セルフヘルプ・グループへ参加を通して、やがて前向きに変化してゆきま す。

このような物語の基本的な筋は、それ自体としては(セルフヘルプ・グループに継続的に参加するメンバーのものとしては)決して珍しくないものといってよいでしょう。しかし、この物語には、主人公と状況がコミカルに描かれる、というきわだった特徴があります。

例えば、主人公は、最初に参加したセルフヘルプ・グループの集会で、他の参加者たちが見せる様々な症状——振戦(ふるえ)、表情の乏しさ、不随意運 動、突進、言語障害、等々——に自分の将来を重ね合わせ、まるで「魑魅魍魎(ちみもうりょう)、百鬼夜行の世界」だ、と落ち込みます。しかし、そこに美し い二人の女性が現われると、「ゾンビの烏天狗の集団の中に鷺が美しく舞い降りたよう」だ、と途端に機嫌がよくなります。「二人とも難病なのか、若く、しか も女性の身で本当に気の毒だなと思うと同時に、友の会も悪いことばかりではないなと、少し落ち着いた」——しかし、二人は、保健師と患者の家族である(つ まり、当人はパーキンソン病ではない)とわかり、主人公は人知れずガックリ。

こうした主人公の少々軽々しい滑稽さは、他のエピソードにも自然に引き継がれています。林檎を丸かじりして差し歯が一斉にとれてしまった「歯抜け 爺」(=主人公)は、さんざんたらい回しになった挙句、ある歯科医のところにたどりつきます。差し歯は見事に戻され、ダメになった歯の抜歯と虫歯の治療へ と進むことになります。二度目の診療までは心配した症状も出ず、彼はほっとしています。ところが、三度目の診療でドリルの音がなった途端、ふるえが始まっ てしまいます。最初は「ブルブル」と小さく、しかしやがて治療台と照明灯まで「カタカタ」と動き出すほどに。体は動かせず、口はあんぐりと開けたまま。焦 る気持ちとうらはらに、ふるえはどんどん大きくなっていきます。もう限界だ、と思ったその時、歯科助手(やはり女性)の手が彼の腕と胸にふれ、その途端に ふるえもぴたりと止みます。助手の手が作業のために離れるとふるえはまた始まり、触れられるとまた止まる。そんなことを繰り返すうちに、治療は終わったの でした。「先生は一番迷惑をかけられたのに、どこ吹く風と、ニコニコ笑って終了を告げた。助手の方にお礼を言うと、彼女はニコッと笑って、『気にしないで ください。患者さんの中には、座っただけで震える人がたくさんいますから』と、まったく普段の調子」。

またあるとき、主人公は、古くて狭いエレベーターの中で一人の若者と居合わせます。狭い空間の中に二人きりになるのは、なんとなく気まずいもので す。そんなときに限って、不意にふるえが始まり、持っていた新聞が「ガサガサ」と音をたて始めます。若者は目を見開き、まじまじとそれを見て、「アノー、 なにもしないのに震えるのですか。」とおずおずと聞きます。主人公は咄嗟に「アッ、コレ、これは丁度、薬が切れたとこなんだ」と答えます(パーキンソン病 には、ふるえなどの症状を緩和する薬がありますが、一定の時間内でのみ効果を発揮します)。すると、若者の顔はこわばり、クルッと背中を向けて、早くこの 「麻薬中毒患者」から逃れたいという気配を全身から発します。おんぼろのエレベーターがやっと1階について扉が開くや否や、若者は「カールルイスもかくや のスタートダッシュで」走り去ります。

さて、これら三つのエピソードに含まれる滑稽の認識上の貢献は、どこにあると考えられるでしょうか。

まず、一つの重要なポイントは、これらのエピソードにおける滑稽さは、いずれも主人公が症状を怖れる深刻さに関係している点にあります。手が意思に 反してふるえることは、みっともなく、他人に迷惑をかける、憂うべきことだ——これは、主人公にとって(おそらく彼だけでなく一般的に)疑い得ない「現 実」だと考えられます。

それに対して、この物語においては、別の「現実」が侵入してきて、その疑い得なさを宙吊りにしています。最初の集会でのエピソードの場合、ショック と落ち込みで主人公の頭はいっぱいのはずなのに、美しい女性をみただけでその深刻さはあっさり足元をすくわれます(きわめて温和な性的経験の侵入)。次の 歯のエピソードでは、医師と助手は、主人公のふるえをまったく別の「現実」(歯の治療が恐くてふるえている)として知覚していたことが明らかになります。 最後のエレベーターのエピソードには、過剰にふるえを恐がる若者を可笑しがるうちに、読者の視点は若者を離れ、むしろ「そんなに恐がらなくてもいいのに」 という別の見方へと引き寄せられる、という仕掛けが備わっています。

このように、それぞれ異なった仕方ではあれ、すべてのエピソードにおいて、滑稽さは、病いの症状は憂うべきもので、その人を覆いつくすほどの重大で 深刻なものなのだ、という「現実」の疑い得なさに対して、「ひょっとすると、そうではない現実もあるのかもしれない」という相対化をもたらす、と考えられ るのです。

そうはいっても、次のような疑問が生じるでしょう。それは、一瞬の気休めではないか。滑稽が一服の清涼剤にはなったとしても、その後には、またどう しようもなく重い現実(小池さんの物語の場合、結局ふるえという症状は彼を苦しめ続けている)が人々を覆いつくすのではないか。この点に関するバーガーの 考えは次の通りです。

もし神の存在を仮定しないならesti Deus non deratur、すべての滑稽なものは現実からの逃避である——それは生理学的にも、心理学的にも、社会学的にも健康な逃避であるが、逃避は逃避である。 経験的実存の現実世界が最後にはまたかならず自己主張しはじめる。そのときには、滑稽なものという反経験的世界はかならず幻想に見えてくるはずだ。喜劇は 根源的に反事実的であり、悲劇は人間の条件の牢固たる事実を明らかにする。だが、こうしたことのすべてが信仰の光のもとで——つまり神ありとしてesti Deus non deratur——知覚される瞬間、現実と幻想の権利主張が逆転する。いまや、経験的世界の牢固たる事実こそ、幻想とは言わないまでも、最後には無に帰す るつかの間の現実と見られるようになるのだ。(『癒しとしての笑い』、363ページ)
滑稽な世界は、確かに、すぐに重い現実(「経験的実存の現実世界」「経験的世界の牢固たる事実」)に凌駕されてしまうかもしれない。しかし、「神」の存在 を前提にするならば、実はどうしようもなく重い現実の方こそ「最後には無に帰するつかの間の現実」なのかもしれない。このようにバーガーは言っています。 これは、別の言い方をすれば、滑稽など一瞬の気休めでしかないという見方を飛び越えてしまうには、有無を言わさずそうさせる根拠となる存在(「神」)を共 有していることが必要だ、ということでもあります。

病いを持つ人同士がコミュニケートするとき、そこでは、上述のような存在が共有されているとは限りません(むしろ、されていないことの方が多いで しょう)。ただし、滑稽な世界を笑いによって承認し共有することには、たとえそれが一瞬の気休めにすぎないとしても、滑稽な笑いを一つ二つと積み重ねるこ とによって、重い現実だけではない別の現実が一定の存在感を得られるかもしれないことを「信じる」、という部分が含まれているように思います。このように 考えると、病いに関するユーモア感覚は、「神」のような明確な存在に言及しないけれども、非常に弱い形での一種の「信仰」といえるかもしれません。

最初に小池さんの文章を読んだときには、「面白い人もいるものだ」というぐらいにしか思っていませんでした。しかし、あるときこのバーガーの一冊と 結びつけて考えられるようになったとき、病いのユーモアが、自分が思っていた以上に奥深いテーマを含んでいることに気づいたわけです。


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kinokuniya shohyo 書評

2009年07月30日

『よくわかる国際社会学』樽本英樹(ミネルヴァ書房)

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「「もうあと少し…」の知的好奇心に応える入門書」

世界地図や地球儀をみると、世界中の陸地が国境と線で区切られ、必ずどこかの「国」に属するようになっています。また、それぞれの領域に住んでいる人は 「〜人」という国民としてとらえられています。こういうと当たり前のように見えるのですが、しかし、こうした観念(「国民国家」と呼ばれます)は歴史を通 じてできたものであることが知られています。また、こんにちでは、国境を超えるような人やお金の動き、あるいは国境内でのさまざまな文化の混合や摩擦はま すます目立つようになっており、もはや社会を「国家とその集まり」として見るだけではまったく物足りなくなってきています。そうした諸現象を扱う社会学の 専門領域は「国際社会学」と呼ばれます。この本は、その国際社会学に現われた読み応えのある優れた入門書です。

著者の樽本英樹氏は、1965年生まれの社会学者です(現在、北海道大学に所属)。私にとっては、大学院の先輩にあたりますが、これまでお話ししていて随 所に感じられた氏の学術研究への意識の高さが、この本の端々から見受けられます。つまり「よくわかる」というタイトルが示すように平易で読みやすい文体を 心がけながらも、学術的な質は決して落とすまい、という著者の強い意思が感じられるのです。

たとえば、国際社会学には「エスニシティ」や「同化」、「編入」、「多文化主義」、「社会的結合」といった言葉(基礎概念)があります。これに関 連して、日本でも最近「共生」という言葉をよく耳にするようになっていると思います。初学者(私もですが)はまず、こうした言葉の意味を端的に知りたいと 思うでしょう。ところが、こうした言葉は、さまざまな批判を浴びて意味が変化していたり、人によって異なる意味で使われていたり、それでいておおよそ意味 が通じるだろう言葉として何となく共有されている、といったことが珍しくないのです。しかし、この本は、そうした言葉の意味に対する疑問を正面から受け止 めようとしています。つまり、その言葉がいつごろから誰がどのように使うようになったのか、これまでどのような研究者たちがその言葉とともにどのような主 張をしてきたのか、という学説上の流れを解説することを通して、可能な限り精確に言葉の意味を説明しようとする姿勢が見られるのです。そのうえで、紹介さ れたさまざまな学説の特色や問題点、今後の研究にとって注意すべきポイントなどが、著者の視点から踏み込んで書かれており、非常に参考になります。

多くの入門者用テキストは、読者として大学の学部生、特に1〜2年生を意識しています。そうした社会学をまったく知らない学生の興味をひこうとする には、とにかく分かりやすい平易な文体でなければいけません。もちろん、その目的を達成していれば十分魅力的であるといえるのですが、その一方で、学説上 の流れに関する細かいことなどは「こみいった話だから」と省略されてしまったり、背景に退いてしまいがちな傾向も生じます。そのようなテキストばかりにふ れていると、社会学をちょっとは知っている人(たぶん、私のような専門領域は違うが関心はあるという人や、卒業論文の参考文献を求めている学生など)の中 には「読みやすいんだけど、もうあと少し背景的な知識もほしい」という物足りなさを感じる人もいるのではないかと思います。ところが、この「もうあと少 し…」に対応できる入門者用テキストは、現在でも決して層は厚くないように見えます。

この本には、そうした層の薄い中に位置づけられるユニークさがあるように思います。分量は多いですが、トピックごとに2〜6ページの読み切りの形に なっているので、まず自分に関心のあるトピックから拾い読みをするところから始めることもできます。上に述べた基礎概念だけでなく、日本や韓国、アメリカ 合衆国、カナダ、オーストラリア、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダといった国々の移民政策や現状も紹介されており、それらを読んでいる と、移民に関する実にさまざまなスタンスがあること、それぞれが問題を抱えていて事が簡単ではない様子がよくうかがえます。

「もうあと少し…」、そんな知的好奇心を持つ方にお勧めする一冊です。


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kinokuniya shohyo 書評

2009年07月29日

『モラル・ハラスメント—人を傷つけずにはいられない』マリ−・フランス・イルゴイエンヌ/高野 優 訳(紀伊國屋書店)

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「「モラルハラスメント」と翻訳者の社会的責任」

              高野 優(=翻訳家)

 翻訳者は社会的な存在ではない。と、長い間、思っていた。もちろん冷静に考えれば、それがまちがいだとすぐわかる。なんらかの職業についていて、 社会と関わりを持たないということはないからだ。それなのに、「社会と関わっている実感」がないのはどうしてだろう? その理由はおそらく、本が実用品で はなく、たとえ読者に感動を与えても、その感動が個人的で、訳者のところまで返ってくることがほとんどないからだろう。あるいはこれには私自身のトラウマ も関係しているのかもしれない。翻訳者を目指して、仕事もなく、原書ばかり読んでいた頃、サラリーマンでも店屋さんでも職人さんでも、汗水流して働いてい る人が羨ましく思えた。「この人たちは社会に貢献している。それにひきかえ……」というわけである。そうなのだ。「社会的な存在ではない」というのは、 「社会に貢献している実感が乏しい」ということなのだ。

 しかし、それは一冊の本を訳したことによって変わった。その本とは一九九九年に紀伊國屋書店から刊行された『モラル・ハラスメント - 人を傷つけずにはいられない』(マリー=フランス・イルゴイエンヌ著)である。この本はその前年にフランスで出版された「精神的暴力=いじめ」の本で、発 売以来、フランス国内で大反響を呼び、大ベストセラーになった。ちなみに、「モラル・ハラスメント」というのは著者の造語で、フランス語の「モラル」とい う言葉には「精神的な」という意味があるから、直訳すると「精神的な嫌がらせ」ということになる。だが、実は著者自身が書いているように、「モラル」とい う言葉が本来持っている「倫理的な」という意味も、この造語に重要なニュアンスを与えている。著者の定義によると、「モラル・ハラスメント」というのは 「歪んだ自己愛を持っている人間が、ただ相手を貶めることを目的として精神的な暴力をふるう」というもので、それはまさしく倫理にもとる行為だからであ る。著者はこの概念をもとに、まず一作目で夫婦や親子など家族の間の「精神的暴力」を解説し、その続編の『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』 では話を「職場」にかぎって、その状況をつぶさに分析した。

 では、どうしてこの本を訳したことによって、私は翻訳者として社会的な存在になれたと感じたのか? つまり「社会に貢献した」という実感を持つこ とができたのか? それはなんといっても、モラル・ハラスメントの被害者の方々からの反応である。その反応はまず編集部に寄せられた読者の手紙という形で 表れた。それからインターネットの読者による書評、そして被害者の方が立ちあげたホームページ、あるいはこの本を紹介した友人の社会保険労務士のもとに相 談に訪れた人の話……。そういった被害者の方の反応をひと言でいうならば、「『モラル・ハラスメント』という言葉を知ったことによって、自分が受けていた 不当な仕打ちの意味がわかった」、「この本によって救われた」というものである。訳者にとって、これほど心強い反応はない。私はこの本を訳したことによっ て、世の中のためになったのだ。社会に貢献したのである。

 その後、「モラル・ハラスメント」が新聞や雑誌で取りあげられるようになり、また本のほうも増刷を重ねて、少しずつ世間に浸透していくようになる と、「世の中に貢献してよかった」という私の気持ちには、また別の変化が表れた。今度は「訳者の社会的責任として、『モラル・ハラスメント』という言葉を 世間に広めていきたい」と思うようになったのである。続編の『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』のなかで、著者は「この暴力を防ぐには当事者 だけではなく、精神科医や弁護士などの専門家、そしてメディアなどが積極的に立ちあがっていかなければならない」と述べている。幸い、精神科医や弁護士の 方々のなかにはこの問題を重大なものとして考え、モラル・ハラスメントと戦おうという気運が高まってきている(そういった方々のご尽力により、今年の二月 には著者の来日講演会が行われた。また、最近ではモラル・ハラスメント防止の法制化を求めようという動きも出てきている)。

 では、そうしたなかで訳者として自分は何をなすべきなのだろうか? これまで自分のしてきたことをふり返ってみると、まずは訳者と同様「出版人の 社会的責任」としてこの問題に関わる担当の編集者藤�寛之氏と力を合わせ、被害者の窓口になる諸機関への本の紹介などを行ってきた。だが、それだけではま だ十分とは言えない。そこで、今は全国の書店をまわって、本の紹介を兼ねた簡単なセミナーができないかとも考えている。それはまだ実現できるかどうかはわ からない。しかし、そういった活動を地道に続けていくことが、この本を訳して世の中に送りだした「翻訳者の社会的責任」ではないだろうかと考えるのであ る。


*「scripta」第1号(2006年9月)より転載



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kinokuniya shohyo 書評

2009年07月29日

『ウィキペディア革命』 アスリーヌ編 (岩波書店)

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 本書はフランスのグランゼコールの一つであるパリ政治学院(シアンスポ)で講師をつとめるピエール・アスリーヌが、演習でおこなったWikipediaに関する調査をもとにまとめた本である。パリ政治学院を卒業したばかりの若いジャーナリストがそれぞれ一章を担当し、アスリーヌは全体のまとめにあたる序文を書いている。

 第1章「動揺する教育現場」にはWikipedia丸写しのレポートを提出する学生がフランスにもたくさんいるとあり、やはり世界的な現象だったのだなと苦笑した。

 第2章「判定の判断—ネイチャー誌調査の真実」は Natureが2005年におこなったBritanicaとWikipediaの比較記事の 問題点を掘りさげている。  Natureは専門家に依頼して、42の項目について Biritanicaと Wikipediaの記事を比較検討してもらった結果、間違いと欠落が Britanicaには123箇所、Wikipediaには162箇所あったと発表した。WikipediaはBritanicaより24%不正確だった わけだが、24%しか違いがなかったともいえる(Britanica側はNatureの記事に対するを発表し、Nature側は再反論を出している)。

 素人百科事典と見られていたWikipediaは、この記事以降、Britanicaに匹敵する信頼性をもつという見方が広まったが、その受けとり方は早計だったかもしれない。

 本章ではNature調査の問題点がいろいろ指摘されているが、最も重要なのは対象となった項目がWikipediaの得意とする科学分野に限ら れていた点だろう。Wikipediaの執筆者はもともと理系に偏っている上に、「ハンス・ベーテ」や「アルドール反応」といった専門的な項目には素人執 筆者は近寄らない。42の項目のほとんどは修正回数のすくない安定した項目であり、2006年度の修正回数が千回を越えていたのは「エタノール」だけだっ たという。

 一方、「ジャンヌ・ダルク」のような項目は一家言のある素人執筆者がちょっかいを出したくなるのか、同じ時期の修正回数が二千回近い。「イラク」や「アルカイダ」のような政治的に微妙な項目だと二千四百回前後となる。

 日本語版Wikipediaを見ても文系項目は理系項目と比べると質・量ともに見劣りがする。アニメ 、マンガ、アイドル、SF関係は異常に充実しているが、これはWikipediaの執筆者がその方面に偏っているためだろう。

 Wikipediaの文系項目、特に政治・宗教関係の項目は眉に唾をつけて読んだ方がいい。

 第3章「ウィキペディアの裏側」は政治的荒らし行為とWikipediaが生みだした対抗策についてとりあげている。保護処置や仲裁制度が紹介されているが、日仏の違いなのか、『ウィキペディアで何が起こっているのか』の記述と微妙に異なるようである。

 第4章「間違い、改ざん、虚偽」は意図的なでっちあげ、Wikipediaを利用した誹謗中傷、執筆者の虚偽の経歴など、Wikipediaの暗黒面がとりあげられている。

 アメリカ版Wikipediaで調停委員会の委員長を二度つとめ、荒らし行為を罰する権限を持つ14人しかいないチェックユーザーにも選ばれたEssjayという人物は神学の教授と称していたが、実は24歳の青年だったことがわかり、大騒ぎになったという。

 暗い話ばかりだが、愉快な話題もある。レバノン沖に浮かぶ島、ポルシェジアだ。いたずら者がWikipeiaに投稿したでっちあげ項目だったので 今は削除されているが、削除後も、この島を愛する人々によってネット上で島の歴史が語り伝えられているそうなのである(Prochesiaで検索すると二 千件近くヒットする)。WikipediaのパロディであるUncyclopediaには「プロシェジア島のホロコースト」という項目まで立てられている。

 第5章「百科事典の興亡」は無料のWikipediaのために影響を受けた既存の百科事典、ラルースクイッドをとりあげている。

 ラルースはまずマイクロソフトのCD-ROM百科事典Encartaで打撃を受け、十巻本のグラン・ラルースは1985年版を最後に書籍版からCD-ROM版に、さらに有料のオンライン版へと移行した。

 クィッドの一巻本百科事典は2000年には50万部を売ったが、2001年にWikipediaフランス語版が登場すると売上は75%減の13万 部前後に低迷し、2008年以降は書籍版の出版をとりやめ、オンライン版に完全移行した。ラルース、ユニベルセル、アシェットは有料路線をつづけたが、 クィッドは2001年に無料化に踏み切り、広告収入だけで運営することにした。インターネット・バブルの崩壊で広告料が激減した時、経営を支えたのは部数 を減らしながらもつづけていた書籍版の売上だったというのは皮肉である。

 興味深いのはネットによって大打撃を受けたにもかかわらず、ラルースもクイッドもネットを前向きにとらえ、新しいニッチを築こうとしていることだ。

 クィッドは項目数を二万程度に絞りこみ、その範囲で専門家の手による簡潔でバランスのとれた信頼性の高い記述を目指す方針をとった結果、現在では一定のブランドになっているようだ。

 ラルースはオンライン版に「貢献スペース」を設け、読者の力をとりこもうとしている。Wikipediaと違って投稿者は実名でなければならないし、項目の内容を修正することはできないが、コメントをつけたり、他の項目へリンクをはることができるという。

 フランス革命史を専門とするトゥラールという歴史学者がWikipediaのナポレオンの項目に加筆したところ、別の人間が高校生なみの修正をく わえたので、Wikipediaに協力する気をなくしたという話が出てくる(本当に高校生だったのかもしれない)。Wikipediaに文系の専門家が協 力したがらない理由の一つはここにあるだろう。

 第6章「ディドロはウィキペディアの先駆者?」は本書で一番読みごたえのある章だが、章題とは裏腹にWikipediaとディドロの思想の根本的な違いを問題にしている。

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kinokuniya shohyo 書評

2009年07月30日

『2011年 新聞・テレビ消滅』佐々木俊尚(文藝春秋)

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「私たち自身が一生懸命考えて、新しいメディアを作っていけばいい」

日本のテレビ、新聞などのマスメディアのビジネスモデルがまもなく崩壊する、ということを事実を元に提示したノンフィクション。著者は、IT分野を専門 に、ネットとリアルの世界の両方を取材してきた、この分野の第一人者、佐々木俊尚氏。佐々木氏は毎日新聞で約12年、事件記者してきたという経歴の持ち 主。紙媒体というオールドメディアと、ネットという新しいメディアの特質の両面を知った貴重なジャーナリストです。

マスメディアのビジネスモデルが揺らいでいることは、この書評欄でも再三にわたって伝えてきました。

新聞の発行部数を偽装する「押し紙」問題を追求した、黒藪哲哉氏の「危ない新聞」、記者クラブの崩壊をユーモアたっぷりの筆致で描いた、上杉隆氏の「ジャーナリズム崩壊」。ほかにも多数のメディア批判の書が刊行されるようになりました。

しかし、はたから見て、どんなにひどいビジネスをしていようが、それが法的に問題にならず、キャッシュフローが動いている限りにおいて、そのビジネスモデルは崩壊しません。

本書では、そのビジネスモデルが崩壊していることを、さまざまな事実をもとに検証していきます。

今年2008年は、日本のジャーナリズムが手本としてきた、アメリカの新聞ジャーナリズムが崩壊した年でした。

アメリカでも日本同様に、読者の新聞離れによる購読者数の減少と、それにともなう広告収入の減少がずっと続いていました。そこに昨年夏に発生した リーマンショックによる金融危機が追い打ちをかけて、バタバタとアメリカの新聞社が経営危機、廃刊に追いやられていきました。アメリカでは失業したジャー ナリストたちが新しい職を求めてさまよっています。

あのニューヨークタイムズでさえ、いつ倒産してもおかしくない、と見られています。

佐々木氏は、アメリカで起きたことは3年遅れで日本にやってくる、という仮説をもとに、日本のメディアビジネスモデルの変化を読み取っていきます。

ウィンドウズが発売されてインターネットによる情報革命が始まり、二つの変化が、マスメディアのビジネスモデルを揺るがしています。

第1に、インターネットの普及によって、情報は無料で入手可能、という常識が人々にゆきわたったこと。

第2に、情報を伝達・入手するために必要なインフラコストが極限まで安くなったこと。

このふたつの大転換によって、インターネットが登場する以前の、マスメディアから読者への一方通行型の情報提供(それに付随する広告)によるビジネスモデルが通用しなくなりました。

ひとりでも、ひと昔前のマスメディア並みの情報発信力をもつことが可能になったのです。

テレビ、新聞、雑誌の現場で働く人たちも、自分が所属するメディア企業としてのピークが過ぎたことは知っています。でも、どうしたらいいのかわから ない。私の知人が所属する新聞社では、30代の記者のうつ病が増加しているといいます。将来が見えない。団塊の世代の新聞記者たちは、自分たちの退職金の ことしか念頭にありません。記者クラブでの発表資料からのリライト作業ばかりさせられてきた(新聞紙面の多くは発表モノばかりです)、多数の記者たちは閉 塞感のために立ちすくんでいます。


ネットの掲示板にアクセスすれば、既存のマスメディアへの批判が溢れています。なかには的外れの批判もあるでしょう。その一部のネットユーザーを敵視、軽視してきたのが日本のマスメディアです。

アメリカでは、オールドメディアの代表格の企業群が、積極的にネットをビジネスに採り入れてビジネスモデルの再構築を急いでいました。日本のように 片手間ではなく本気で。しかし、ネットによる情報革命によって、もうネット以前に維持できた収益・組織・人材を維持することはできなくなったのです。

本書を読むと、3年後の2011年といわず、遠からず、日本のマスメディアの崩壊が「表面化」することに納得できます。

これからの数年で、大手の新聞社、テレビ局、雑誌発行元の出版社が、倒産、破産していくことでしょう。または、大規模なリストラの断行、それに抵抗 する社員たちによる労働争議も勃発することでしょう。大手記者出身のホームレスも出てくるかもしれない。私の身近では、フリーライターの先輩がホームレス になりました。(すごい雑誌を作るという構想があるんだけど、石井も参加しないか?とたまに電話がかかってきます)

どんな不況になっても、信頼される情報を提供するジャーナリズムは生き残ります。きちんと取材した記事を読みたいというニーズはある限りジャーナリ ストに仕事はある。ただし、そのジャーナリストとは、大きなメディア組織に所属する社員とは別のワークスタイルになっていることでしょう。

旧来型のマスメディア産業が崩壊するのであって、ジャーナリズムはこれからも必要とされる、と佐々木氏は強く語りかけてきます。

「私たちにとって必要なのは、新聞やテレビじゃない。必要な情報や良質な娯楽、そして国民として知らなければならない重要なニュースにきちんと触れられるメディア空間だ」

「私たち自身が一生懸命考えて、新しいメディアを作っていけばいい」。

情報革命によって、そのメディア空間をつくるためのインフラは整っています。
あとはやるだけですね。



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asahi shohyo 書評

吉本隆明 全マンガ論—表現としてのマンガ・アニメ 吉本隆明さん

[掲載]2009年7月26日

  • [文]浜田奈美 [写真]高山顕治

写真吉本隆明さん(84)

■へええなるほどなあって思う

 かの吉本隆明は、マンガやアニメにまで、思索を深めていたのだった。

 本著は78年から00年にかけて雑誌などに寄せた18本の文章を収録。つげ義春の作品世界を語り、『ちびまる子ちゃん』から言 語の変容を考え、『新世紀エヴァンゲリオン』について評論家の大塚英志に解説を求め、その子細な分析にうなずき、「たいへん啓蒙(けいもう)されました」 と感想を述べたりしている。

 興味深いのは、この思想家が少女漫画界の「御三家」とされる竹宮恵子、山岸凉子、萩尾望都の作品を「純文学に近い」ととらえ、 多くの作品を読み込んでいたことだ。81年の萩尾との対談でも、「相当思い切った内面性を表現してる」「本質的な不安感みたいのを読者に与える」と積極的 に発言。こう振り返る。「あの人たちは相当深くほかの分野のものを読んだり考えたりして、蓄積してるんでしょうね。そして、圧倒的多数の読者に支持されて る自負心というか、威風堂々たる雰囲気があってね。こちらはそんなものないから、もたもたするばっかりで」

 そしてこれほどの大家でも、本業と少し離れた分野の仕事は「見当違いにならないように用心深く、抑制して」かかるそうだ。アニ メ・マンガの分野は、漫画家で長女のハルノ宵子さんに示唆を求めてきた。「例えば『ドラえもん』ですね。人気の理由がわからなくて聞いたら、『平凡な日常 がすごく上手に描かれているんだよ』ってことでね。自分なんかはつい特異なことに目が行きがちなもんですから。へええなるほどなあって思うわけです」

 現在84歳。マンガやアニメに関する仕事は「年の加減もありますし、マンガについては、しめくくっていいだろうって思います ね」。そして少々照れくさそうに、こう続けた。「ただ、意外にしぶとく長生きするってこともあるわけですから、あるいは、続編ってことも、あるかも知れま せんねえ」

表紙画像

吉本隆明 全マンガ論—表現としてのマンガ・アニメ

著者:吉本 隆明

出版社:小学館クリエイティブ   価格:¥ 2,940

表紙画像

ドラえもん 1 (藤子・F・不二雄大全集)

著者:藤子・F・不二雄

出版社:小学館   価格:¥ 1,470

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鳩山代表、熊本で大蘇ダム中止を示唆 「ムダなダム」

2009年7月29日20時1分

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 民主党の鳩山代表は29日、計画通り水がたまらない熊本県産山(うぶやま)村の大蘇ダムについて「我が党からすれば、こんなダムになぜさらにお金を投入 するんだという発想。ムダなダムという位置づけになろうかと思う」と述べ、政権交代した場合には事業を中止する考えを示唆した。遊説先の熊本県菊陽町で記 者団に語った。

 大蘇ダムは、大分県竹田市などに農業用水を送るため、農林水産省が計画。本体部分は4年前に完成したものの、ダム湖周辺が水を通しやすい地質のた め、貯水ができない状態になっている。4月には現地を訪れた近藤基彦農水副大臣が「底の抜けたダムを造って申し訳ない」、石破農水相も7月4日に「ダムが 予定された機能を発揮せず、心から申し訳なく思う」と陳謝している。




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ハリー・ポッターに選挙権、英政界をなで切り

2009年7月29日20時26分

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 【ロンドン=土佐茂生】魔法使いの少年が活躍する人気映画シリーズ「ハリー・ポッター」で主人公を演じる英国人俳優ダニエル・ラドクリフさん(20)が このほど、雑誌のインタビューで政界をなで切りにする発言をし、周囲を驚かせている。ブラウン首相の労働党や2大政党の保守党を批判。来年6月までに実施 される下院選挙では中道左派の自由民主党に投票することを明らかにした。

 ラドクリフさんは、自身がリベラルな左派系の考えを持つことを明かした。若者が投票に行かなくなった理由について「政治家がみんな中道に寄って政策が似てしまい、誰に入れても同じになってしまった」とするどく指摘した。

 労働党のブラウン首相については「長く首相になりたいと待ち、なったとたんにその器でなかったと気付くのは悲劇だろう」とバッサリ。ブレア前首相から続く「ニュー・レーバー(新しい労働党)」路線についても「僕らの世代は悪い面しか見ていない」と批判的だった。

 次の総選挙では保守党の勝利が確実視されるが、「保守党はいったん政権につくと実際よりも右派だと露呈する。そのとき正しい左派が再生するだろ う」と評論家ばりの予測を披露。支持を表明した自民党については「支持者全員が投票すれば、一夜で政治は変わり、適切な3大政党制が生まれるだろう」と話 した。

 ラドクリフさんは次の総選挙が有権者として初めて迎える国政選挙になる。




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アイヌ政策立法化を提言、有識者懇 予算など課題も

2009年7月30日2時31分

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 政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」(座長・佐藤幸治京大名誉教授)は29日、報告書をまとめ、河村官房長官に提出した。国の土地政策や 同化政策でアイヌ民族が深刻な打撃を受けた歴史に触れ、先住民族と認めたうえで、政策推進の立法措置を講じることなどを提言した。政府は今秋をめどに協議 会を設け、具体化に着手する方針。

 報告書には、(1)北海道以外のアイヌ民族の生活実態も調べ、生活・教育などの支援策を全国規模で展開(2)政策を確実に推進するための立法措置 を検討(3)国に総合的な窓口を置き、アイヌ民族の意見を政策に反映させる協議会を設置(4)「アイヌ民族の日(仮称)」を制定——などが盛り込まれた。

 報告書に沿って政策を具体化する作業は、総選挙後になる。民主党政権になっても、同党は北海道選出の鳩山代表をはじめアイヌ政策に理解があり、流れが変わることはないとみられる。

 ただ、課題は多い。生活・教育支援を実施するには、まず「誰がアイヌ民族か」を第三者にもわかるように示さなければならない。戸籍をたどって証明する方 法や、家系図をたどる手法が浮上しているが、自治体によっては保存年限を過ぎた戸籍を廃棄しているところも少なくないとみられる。

 また、報告書には「民族共生の象徴となる施設整備」も明記された。厳しい財政状況の中で「箱もの行政」と批判を浴びる可能性もある。(神元敦司)