2009年3月31日火曜日

asahi shohyo 書評

ブロデックの報告書 [著]フィリップ・クローデル

[掲載]2009年3月29日

  • [評者]奥泉光(作家、近畿大学教授)

■封印された事件の記録を頼まれた男

  中央ヨーロッパの、どことも知れぬ僻遠(へきえん)の村に一人の男が現れる。名前も目的も分からぬまま「よそ者」とだけ呼ばれる男は、村人の集団によって 殺害される。村に住むブロデックなる男が、事件の「報告書」を書くよう依頼されるところから幕を開ける長編は、探偵小説ふうの謎解き興味を一方の軸に据え つつ、ブロデック自身が実存の深部にまで沈降して、人間としての再生に向かう物語をいま一つの軸に、力強く推進していく。

 ブロデックは、公式の「報告書」を書く傍ら、いわば自身の魂の報告書とでもいうべき手記を書きはじめる。それがこの小説のテク ストをなす仕掛けなのだが、実は彼自身が「よそ者」であり、かつて戦争の時代、村を占領した異国の軍隊に「民族浄化」の実践を強要された村人から、生贄 (いけにえ)として差し出され、収容所へ送られた体験を持つ。ブロデックは犬のブロデックとなり、つまり人間であることをやめることで、かろうじて収容所 から生きて帰ったのだ。

 ブロデックは記憶を封印し、再び村で暮らしているのであるが、「よそ者」の殺人事件を記録し、村人が封印し消し去った過去の傷を暴き出す過程で、自らの記憶を取り戻していくことになる。それは犬のブロデックの、人間としての魂の恢復(かいふく)の過程でもあるだろう。

 実は、ブロデックが村の人間から求められた「報告書」とは、出来事を記録するためのものではない。むしろ出来事を消し去り、忘 却すべく、贋(にせ)の物語を編むことを彼は期待されているので、だからこそブロデックはひそかに手記を書き記すのだが、ここには歴史と記憶をめぐる問 題、歴史記述の真理性と虚構性をめぐる、二十世紀から今世紀にまで持ち越された主題がある。さらには異質なものを排除することで維持される共同体のシステ ムという、人類の創世にさかのぼり、いまなおリアルであり続けている問題も中心にあって、これらきわめて重大かつ困難な主題群を、巧みな構成と、叙情性と 緊張感がひとつになった文章でもって描き出す作家の意欲と手腕には脱帽だ。

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 LE RAPPORT DE BRODECK

 高橋啓訳/Philippe Claudel フランスの作家。『リンさんの小さな子』ほか。

表紙画像

ブロデックの報告書

著者:フィリップ・クローデル

出版社:みすず書房   価格:¥ 2,940

表紙画像

リンさんの小さな子

著者:フィリップ クローデル

出版社:みすず書房   価格:¥ 1,890

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