2009年3月1日日曜日

asahi archeology Japanese history Toneri Shinno Nara

やっぱり舎人親王の墓ではなかった 奈良の宮内庁管理地

2009年3月1日15時57分

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写真帯解黄金塚古墳から出土した7世紀中頃の特徴を示す須恵器の杯蓋(つきぶた)=26日午後、奈良市田中町、荒井昌明撮影

写真2段の石敷きが巡らされ、7世紀中頃の築造とわかった帯解黄金塚古墳。右後方が墳丘=26日午後、奈良市田中町、荒井昌明撮影

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 日本書紀の編纂(へんさん)で知られる舎人(とねり)親王(676〜735)の墓との伝承があり、宮内庁が陵墓参考地として管理する奈良市田中町の帯解 黄金塚(おびとけこがねづか)古墳が、親王の没年より以前の7世紀半ばの築造とわかった。市埋蔵文化財調査センターが2月26日、発表した。専門家の間で は石室の造りなどから舎人親王の没年と築造時期にずれがあるとみられていたが、周辺部の発掘調査で改めて裏付けられた。

 古墳の範囲確認のため、1月14日から周辺約120平方メートルを調査。墳丘自体は発掘できなかったが、墳丘の南西隅そばで7世紀半ばとみられる 須恵器の杯蓋(つきぶた)2片(約10〜12センチ)と土師器(はじき)の甕(かめ)の取っ手1片(約5センチ)が出土した。同古墳はこれまで、飛鳥時代 の6世紀末〜8世紀初めの間の築造とみられていた。

 また、調査の結果、墳丘は一辺約30メートルの方墳と判明。墳丘外周に2段式の石敷き(幅約2メートル)が張り巡らされているのが確認された。使 われている石は上段が直径15〜30センチ、下段が同10〜20センチの大きさ。見栄えを良くするためとみられ、被葬者の地位の高さがうかがえるという。

 宮内庁陵墓課によると、陵墓参考地は、歴代の天皇・皇后、皇子・皇女が埋葬されたとされる188の陵と552の墓に次ぎ、皇室関係者の墓の可能性がある として全国の計46カ所を指定している。陵墓と同様、「静安と尊厳の保持のため」との理由で立ち入りは禁じられている。同古墳は墳丘規模が大きく、特異な れんが状の石室を持つほか、天武天皇の皇子で高官だった舎人親王の墓との伝承があることなどを理由に1890年に指定された。

 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「以前から舎人親王の墓ではないと思っていた。だが、手間をかけて墳丘周囲に石を敷き古墳の範囲を広げており、別の皇族クラスか渡来系の有力者が埋葬されていたのだろう」と推測する。(石原孝)



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