2009年3月10日火曜日

asahi shohyo 書評

エスト—エティカ—〈デザイン・ワールド〉と〈存在の美学〉 [著]山田忠彰/政治の美学—権力と表象 [著]田中純

[掲載]2009年3月1日

  • [評者]苅部直(東京大学教授・日本政治思想史)

■美の追求と権力はどう結びついたか

  イタリア語では、美学(エステティカ)という語のなかに、倫理学(エティカ)が隠れている。この言葉の重なりは、芸術作品の創造と同じ原理が、人と世界と のあらゆるかかわりの根柢(こんてい)に働いていることを示すものにほかならない。それが、山田忠彰による新著の表題にこめられた洞察である。

 「ひとは詩人に生まれる」。二十世紀イタリアの哲学者、ベネデット・クローチェのこの言葉が、ヘーゲルやニーチェの思想ととも に、本の骨格をなしている。自然界の混沌(こんとん)に対して、人間が手を加え、人工の世界を生み出すこと。そうした「デザイン」の営みを通じて、一方で 世界が意味のあるものとして確定し、他方で作者としての自己の姿も、はっきりした輪郭をもつようになる。

 そうした過程は、芸術の創作とまさしく重なっている。したがって美の追求を、個人の趣味ととらえてすませるのは適切でない。それは、人が他者との関係のなかで生きることの全体にかかわるのであり、広い意味での倫理学の主題に通じてゆく。

 しかし、古い時代にできあがったスタイルとしての、慣習や定型が積み重なって、新たな創造を妨げることはないのか。あるいは、 美のひたすらな追求が、自閉し自家中毒に陥ることはないか。こうした疑問について山田は、残された課題であるとしたうえで、おたがいの自由な創造を披露 し、その美しさを評価しあう、「ホモ・エステティクス」としての生きかたの可能性を指し示す。

 田中純の著書は、この山田が通りすぎた地点の問題を、思想史の分析を通じてほりさげた営みと読むこともできるだろう。新たなス タイルの絶えざる創造を説いた理論家として山田が言及する、ドイツの文学者、エルンスト・ユンガーは、田中によれば、鋼鉄のように強い英雄と、腐った沼地 に棲(す)む魔物という、あい矛盾する象徴の双方に、強く魅せられていた。

 この分裂する自我が、国家による暴力や戦争が放つ、荒々しい魅力に吸い寄せられてゆく。そうした「ファシズムの美学」を、ユン ガーの思想に加え、ナチズムを題材にした1970年代の映画や、デヴィッド・ボウイのロック、あるいは三島由紀夫の文学に、田中は見いだすのである。

 芸術の営みが人間の生の全体から切り離されたとき、孤立した自我は、不安から逃れるために、政治権力との一体化を性急に求める ようになる。この病理の背景には、主権国家それ自体が、しばしば堅強な身体になぞらえて想像されてきた歴史があった。田中の著書では、多くの図版が、人間 の身体と国家をめぐる美意識の系譜を豊富に伝えている。

 山田の著書は、日本の思想家としては宮沢賢治にしか言及しないのに対し、田中の方は、日本の事例も数多くあげながら、美意識と 国家観とのからみあいを分析する。理論研究と思想史との視点の違いもあるだろうが、このことは、日本における美の追求がしばしば権力と深く結びついてきた 歴史を、おのずと表しているのかもしれない。

    ◇

 『エスト—エティカ』/やまだ・ただあき 51年生まれ。日本女子大学教授。▽『政治の美学』/たなか・じゅん 60年生まれ。東京大学准教授。

表紙画像

政治の美学—権力と表象

著者:田中 純

出版社:東京大学出版会   価格:¥ 5,250

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