2008年4月3日木曜日

asahi shohyo 書評

手紙のアメリカ [著]時実早苗

[掲載]2008年03月23日
[評者]巽孝之(慶應大学教授・アメリカ文学)

■食べることさえできる手紙に宿る魂

 「白やぎさんからお手紙ついた/黒やぎさんたら読まずに食べた/しかたがないのでお手紙かいた/さっきの手紙のご用事なあに」

 まどみちお作詞、団伊玖磨作曲の「やぎさんゆうびん」は、みなさんおなじみだろう。本書は文学と手紙とアメリカとがいかに関(かか)わり合うか を、18世紀のクレヴクールやフォスターから19世紀のホーソーンやメルヴィルやオルコット、20世紀のバースやピンチョンやウォーカーへおよぶ射程で分 析した重厚な研究書だが、BGMとして聞こえてくるのは、何とこのあまりにも軽やかな童謡なのである。

 なぜか。本書はまず、小説の起源とされる「書簡体」と物理的に紙にインクで書く「手紙性」とを明確に区分し、やがてその両者が複雑な関係を結んで いくのを辿(たど)り、あくまで人間的で存在論的な「手紙を書く」行為と、電子的でテクスト的な「メールを出す」行為のはざま、いわばアナログとデジタル のはざまで深く苦悩したあげくに、こう洞察するからだ。

 「やぎさんの場合のように、手紙は食べられるものでなくてはならない」

 そもそも手紙を書くという行為こそは文学の本質を成すために、小説は書簡体小説として始まった。そしてアメリカは当初ヨーロッパの植民地として環 大西洋的な手紙のやりとりをくりかえすうちに、アメリカ独自の政治経済網とともに民主主義的な自己を確立し文学を発展させた。しかし著者が注目し続けるの は、にもかかわらず、書簡体という物語技法に回収される以前の無編集の手紙、全く読まずに破くことも燃やすことも、食べることさえできるモノとしての手紙 であり、そこにこそ魂が宿るという逆説だ。

 そんな視点から、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』が「古き南部である紙に、新しい北部のインクが痕跡を残す」ことで「現在によって過 去を浮き出させる作用」が解明される。手紙というメディア(物<モノ>)自体が手紙のメッセージ(魂)であることをあざやかに伝える本書もまた、知的スリ ルに満ちたもうひとつの手紙であった。

    ◇

 ときざね・さなえ 千葉大教授。米文学・文学理論。共著に『腐敗と再生』ほか。

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