2008年4月30日水曜日

kumanichi shohyo 書評

過去の熊日記事(新聞朝刊)書評欄より

    書評:「イスタンブール」 オルハン・パムク著、和久井路子訳
  2007年9月23日付熊日


憂愁の古都が生んだ回想録
 昨年ノーベル文学賞を受賞した、トルコのオルハン・パムクの自伝的回想録である。二十二歳ごろまでのイスタンブールでの生活が語られているのだが、作家の自己形成史というより、イスタンブールという古都が主人公という趣がある。
 パムクは一九五二年生まれ。一家は裕福なブルジョアで、トルコでも例外的に西洋化された生活をしていた。そういう生まれ育ち出会っても、この町からにじみ出してくる特別な空気にすっぽり包まれて生きるしかない。
 本書の中で、ヒュズン(憂愁)という言葉がおそらく百回以上出てくるのではないか。この憂愁こそが、イスタンブールが吐き出す空気であり、街の本質であり、同時にそこに生きる人びとの心そのものだというのだ。
 パムクは憂愁について、飽くことなく語りつづける。たとえば「一番寒い日に一本の煙突からやっと見える微かな煙を出している百年もたった巨大な屋敷」とか、五ページにわたって「憂愁の光景」を列挙してみせる。
 そして、西洋のメランコリーという言葉は、個人の憂うつをさすのに対し、ここでは街そのものが憂愁なのだ、とも。記憶のあらゆる細部から憂愁の街が少しずつ現れて、やがて巨大な幻のような姿になる。その語り口が実に魅力的だ。
 この憂愁は、西洋がロマンチックに見ようとするようなものではなく、源をたどれば貧困感、敗北感、喪失感にある。西洋との度重なる戦いに敗れた結果、骨まで蝕むような長い衰退がもたらしたものだ。
 パムクは東西の文明が出会うこの街で、西洋化された家庭で育ち、全授業が英語で行われる高校に通った。西洋文化は否定しようもなく身についている。しかし同時に、街が発する憂愁は自分のものでもある。そういう二面性を自覚した、建築学部の大学生であるパムクが、ある日母親に向かって、「作家になるよ、ぼくは」と告げるところで回想録は終わる。もしかすると、イスタンブールへのやるせないまでの愛情が彼を作家にしたのかもしれない。
評・湯川豊(文芸評論家)
藤原書店・3780円


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