2009年6月24日水曜日

asahi shohyo 書評

荷風へ、ようこそ [著]持田叙子(のぶこ)

[掲載]2009年6月14日

  • [評者]苅部直(東京大学教授・日本政治思想史)

■作家の奥深さに魅せられながら

 夕暮れどきに橋の上で、街娼(がいしょう)の身の上話に耳を傾ける永井荷風。礼金を渡そうとしたとき、多すぎるとやんわり断るその善良さに、作家は胸を打たれる。ときに老残とけなされる戦後の荷風の心のうちにも、そんな純粋な人間愛が息づいていた。

 すぐれた折口信夫論と荷風論で知られる研究者の新著である。荷風その人の文体と戯れるように、やわらかく迂回(うかい)し、韜晦(とうかい)と諧謔(かいぎゃく)をおりまぜつつ語るものの、文学史家としての眼(め)が、しっかりと光っている。

 自宅の空間を整えることに荷風は腐心し、古書や浮世絵など過去の文化を愛好する。その姿勢は単なる隠棲(いんせい)趣味に尽きるものではなく、近代日本の国家と社会への批判を秘めていた。

 同時代のフェミニズム運動に対する共感が、屈折した形で、花柳界への関心として表れていることも、巧みに解きあかしている。男女の情の交わりを描こうとしただけでは、決してなかったのである。

 荷風、すなわち蓮池(はすいけ)にただよう香気。その奥深さに魅せられながら、作家が夢みたもう一つの世のありさまへと、読む者の想像も誘われてゆく。

表紙画像

荷風へ、ようこそ

著者:持田 叙子

出版社:慶應義塾大学出版会   価格:¥ 2,940

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