2009年6月24日水曜日

asahi shohyo 書評

菊池寛急逝の夜 [著]菊池夏樹

[掲載]2009年6月21日

  • [評者]阿刀田高(作家)

■親族だけが知る「特別な人物」の像

 海のように茫漠(ぼうばく)として大きい菊池寛について(その実、入念で合理的な性格をもあわせ持っていたのだが)本書は直系の孫が綴(つづ)った記録である。

 肉親を一冊の書として記すのは思いのほかむつかしい。どういう距離感を取るか、感情と客観性のバランスが取りにくいのだろう。 著者は菊池寛の膝(ひざ)に抱かれたことはあったが、直接の印象を持つ前に他界されてしまった。さいわい謦咳(けいがい)に接した親族が残っている。(平 成20年の時点で)文豪の長女90歳、長男84歳、次女83歳、そのほかの関係者もみな高齢だ。このあたりで身近な人だけが知っているエピソードを記して おこう、と筆を執り(急逝前後の事情が大半を占めているが)その目的は十分に達せられた、と評してよいだろう。

 菊池寛は作家としての業績とはべつに文芸春秋(株)を創設して多くの文学者を支援したことなど文化事業の推進者としての多彩な 功績があって、この二つについては多くの記述が残されているけれど、人柄についてはやはり親族の視点で記されたものが(特別な人物であっただけに)望まし い。第一級の見聞が綴られて読みごたえがある。

 妻に浮気がばれ、謝りながらも「六十歳になったら、マジメになります」と宣言して五十九歳で没したとか、女性の能力や立場をき ちんと認めながら妻妾(さいしょう)同居のときがあったりする。そもそも逝去の事情そのものが、あきれた妻に家出をされ、それを呼び戻すため不調の身であ りながら快気祝いを自宅でするからと体裁を整え、その最中に急死したのだった。

 この妻もなかなかユニークな人柄で、それを通して文豪の日常の、見えない部分が見えてきたりする。もちろんもっと真摯(しんし)なエピソードもたくさん盛り込まれ、簡単には捕らえにくい文学者であったのだろう。

 著者が一つの総括として"菊池寛と北野武、このふたりとも時代が求めた大プロデューサーなのである"としているのは、おもしろい視点だが、菊池寛のほうが志が深いのではないか。身内の遠慮かもしれない。

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 きくち・なつき 46年生まれ。文芸春秋勤務を経て現在、高松市菊池寛記念館名誉館長。

表紙画像

菊池寛急逝の夜

著者:菊池 夏樹

出版社:白水社   価格:¥ 2,100

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