2009年6月11日木曜日

asahi shohyo 書評

マテオ・ファルコーネ [著]メリメ

[掲載]2009年6月7日

  • [筆者]筒井康隆(作家)

写真朝日放送のテレビ番組「ビーバップ!ハイヒール」にレギュラー出演。セットのライオンを背景に=大阪市福島区のスタジオ、撮影・伊ケ崎忍

■こんな父 持ったら怖い

  松山家の応接室には、父が購読した鈴木三重吉主宰の雑誌「赤い鳥」が全巻積みあげてあり、ぼくはこれを暇にあかせて二、三巻ずつ持ち出しては読んでいっ た。この児童文学雑誌は、三重吉が政府主導の国語教育に異を唱え、児童の感性を高める運動の一環として大正七年に創刊し、一流の文学者や詩人たちの寄稿を 得、途中三年ほどの休刊を経て、昭和十一年の三重吉の死まで刊行されたものだった。

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 ぼくのお気に入りは昭和十年から十一年にかけて連載されていた岡愛子「私のピーターパン」だった。原作にはないキャラクターや ドメスティックな会話がなんとも可愛くてモダンだったから、作者は著名な英文学者か何かであろうと想像していたのだが、ずっと後年、やはりこの作品が好き で、ぼくと同じような想像をしていた作家の阪田寛夫が、作者を探してついに訊(たず)ねあてた結果、七十数年前、当時十五歳の女学生だった岡愛子が書いた ものであると判明、この話を雑誌で読んだぼくも驚いた。この文章は講談社から出た阪田寛夫の著書『ピーター・パン探し』に再録されている。また岡愛子『私 のピーターパン』はその後、読みやすくした改訂版がアムリタ書房から出た。

 「赤い鳥」を読み進めていくうち、ついに衝撃的な短篇(たんぺん)に出くわした。メリメの「マテオ・ファルコーネ」である。鈴木三重吉自身が訳していて、表題は「父」になっていた。

 羊飼いのマテオ・ファルコーネは、警察に追われている男をかくまってやる。ところが彼の十歳ほどになる息子が、やってきた警官 に男の居場所を教えてしまう。褒美の銀時計が欲しかったのだ。家に戻ったマテオは、裏切者(うらぎりもの)の息子を外につれ出し、祈りを唱えさせ、泣いて いる息子を銃で射殺してしまう。

 「あなた。あの子に何をしたの」と叫ぶ母親に、マテオは「裁きをつけたんだ」と答える。「裁きをつけた」というのが凄(すご) いではないか。ぼくはふるえあがった。もしこんな父親の息子だったら、自分などいくつ命があっても足りはしない。三重吉が「父」という表題にしたのも、父 性の中にある審判官的な本質を強調したのだったろう。

 『カルメン』『コロンバ』で有名なプロスペル・メリメはフランスの作家だが、あちこち旅行していて、イタリアやスペインを舞台 にした作品が多い。十九世紀のコルシカでの話としてこの物凄(ものすご)い作品と主人公の名前を記憶していたぼくは、どうしても原典に当(あた)りたく なって、後年、岩波文庫の『エトルリヤの壺(つぼ)』というメリメの短篇集の中に収録されていることを知り、再読した。三重吉は子供向けというので特にや さしくしたりはせず、ほとんど原作通りに訳していたようだ。

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 当時五歳くらいになっていた息子の伸輔にこの話をしてやると、相当ショックを受けていたらしく、以後、伸輔が何か悪いことをするたびに、低くした声をふるわせて「マテオ・ファルコーネ」と言ってやると、わあと叫んで逃げ出したものである。

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 所収の岩波文庫『エトルリヤの壺』(杉捷夫訳)は古書で。集英社ギャラリー『世界の文学(7)フランス2』にも収録。

表紙画像

ピーター・パン探し

著者:阪田 寛夫

出版社:講談社   価格:¥ 1,890

表紙画像

カルメン (岩波文庫 赤 534-3)

著者:プロスペル・メリメ

出版社:岩波書店   価格:¥ 420

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