2009年8月28日金曜日

kinokuniya shohyo 書評

2009年08月17日

『文学の器』坂本忠雄(扶桑社)

文学の器 →bookwebで購入

「編集者の武器」

 編集者という存在は、実にあやしいものだ。しゃべらせれば饒舌かつ明晰。頭の回転は速いし、文章も書けるし、どこから聞きつけるのか人事にもやたらと詳 しく、人の名前も漢字に至るまで正確におぼえているし、誰が誰の親だとか親戚だとかといったことも把握し、あたり前かもしれないが、本のこともよく知って いる。酒も強い。野球もうまい。服は黒い。ところが、ある一点のことでは、ある刹那に、急に寡黙になったりもする。

 実はこの寡黙さこそが、編集者の武器なのだ。編集者の最大の役割は、黙ることだと言ってもいい。何しろ、編集者という職業の本質は、「見えないこと」なのである。

 本書の著者坂本忠雄は、『新潮』で14年間にわたって編集長を勤め、晩年の小林秀雄に『本居宣長』を書かせた人物である。もはや伝説と化したよう な作家たちと親しく付き合い、また畏怖されもした編集者である。しかし、本書はふつうの著書ではない。自らの交友関係をあれこれ述懐するというようなもの ではなく、あくまで「近・現代日本文学をめぐる語らい」の場を用意する、という設定なのだ。そこがいかにも「編集者」坂本忠雄らしい。

 取り上げられる作家は伊藤整、色川武大、小林秀雄、川端康成、深沢七郎、三島由紀夫、江藤淳、野口富士男…と昭和の代表的文学者18人。作家ごと に鼎談の形がとられ、坂本に加えて『エンタクシー』の編集同人である福田和也や坪内祐三が適宜参加しつつ、石原慎太郎、古井由吉、嵐山光三郎、黒井千次、 車谷長吉、島田雅彦、佐伯一麦、江國香織、角田光代といった幅広い層の作家をゲストとして迎えて、作家について語るのである。

 この本は坂本が丸ごと書いたものではない。しかし、この本を生んだのは間違いなく坂本である。坂本はこの一連の座談会の中できわめてうまく姿を消すのだが、ときに不意に姿をあらわして、

高見順が文芸時評で自分がやっつけられて、その紙面を食べちゃったという伝説がありますね。そのくらいのものじゃないと、文芸時評はだめです。

などということを言ったりする。あるいは色川武大については、

ところで、僕はお父さんに会ったことがあります。中央公論新人賞をとったあとに、頼んでいる原稿を催促しに色川さんの生家に行っ て、玄関をガラッと開けると、親父さんが出てきたんですよ。「色川さん、いますか」と聞くと、「いません」と言われた。これはいるなと思い、脇から庭を 通っていくと、猫と一緒に炬燵で寝てたんです。
などという出来事を語る。「これはいるな」というところはすごい。やはり編集者というのは、肝心のところで、おそろしく冷酷になれるものなのだ。

 おそらく坂本がそこにいるというだけで、作家たちは緊張もするのだろう。あるいは和んだり、張り切ったりもする。たとえば、坂本から「島田さんが 小説家として、同業者としてご覧になると、後藤明生の文章についてはいかがでしょうか」と話を振られた島田雅彦が、「非常に読みやすい」としたうえで、

つまり、読みやすい文章、リズムのある文章の書き手っていうのは、案外運動神経がよいのではないかと思うんです。後藤さんは、実は野球がうまいのが自慢だったんです。

などと発言したりするのも(ほんとかよ?と思わなくもないが)、まんまと坂本の釣り球に誘い出されたような感がある。佐伯一麦も、「今の若い作家の 人は、残酷の「酷」という字を使って、「酷(ひど)い」とよく書くんです。僕たちだと「惨(むご)い」という感覚ですが、でも「酷い」と書く」ということ を指摘したうえで、

芸者屋で育った野口さんが感じていた、そして荷風の時代の売笑婦との関係などは、やはり階級社会以外の何ものでもないわけですよ ね。ですから、常に自分が存在していること自体に、「ひどい」とか「むごい」という感覚があったんだと思う。それが今はないので、あえて若い作家たちが人 間関係で「酷い」とよく使うのは、表現を成り立たせるために、そういうものを何とか見つけだそうとしているのかもしれないと思った。

というような鋭いことを言う。これも坂本がそこにいればこそ、そして肝心のところで黙ればこそである。

 ゲストの中でも、とくに冴え渡りぱっなしなのは古井由吉である。古井は川端康成の回と江藤淳の回で、都合二度登場するのだが、たとえば川端についてのコメントなど、いちいちノートを取りたくなるほどの切れ味である。

川端はかなり遅い時期まで、文学として小説に信用を置いていなかったのではないだろうかと僕は思う。文学をやるなら小説ではない と思っていたのかもしれない。そして自分が小説を書くとしたらこうという形ができたのが、「雪国」だったと思うんですよ。それに比べると、近代の日本の小 説家はあまりにも早く小説に乗り過ぎている。小説以前の迷いとか懐疑が薄い。小説にリアリティを持たせたいという欲求にひっぱられ、小説を書く自分の精神 を検討しなかったところがある。なぜ世間が小説家にこうも甘かったか。たぶん口語文を使うパイロットとして見られたんでしょうね。

こうした発言は、下手な外国文学研究者相手だと、「小説への懐疑というのは、メタフィクションのやっているようなことですか?」といった的外れな反応を呼びそうな心配があるが、もちろん、そういうことではない。

「そういうことではない」という暗黙の空気を漂わせるのは、なかなか難しいことだ。しかし、そういう空気がなければ、作家も批評家も安心して語るこ とはできない。そこを、作家の顔を見ながらポイントを変え、議論の水準を操作し、くつろぎの香を焚いたり、ゲストと一緒に怒ったり、笑ったり、妙な想い出 を投げ込んだり、作品を引用したり、姿を消したり不意に現れたり、と坂本が巧みに調節しているのである。つくづく編集者とはあやしいものだ。

 『文学の器』はサロンの世界である。文学エリートの世界である。「わからんやつには死ぬまでわからない」という冷酷さがその場に漂っていればこ そ、古井の「作家を殺すのはたやすい。引用で殺せばいいんです。一番苦しいところを引用する意地の悪い人がいるんだよねえ(笑)」みたいな発言が本当に生 きてくる。次のようなコメントも、特有のくつろぎの中でしか言えないことではないだろうか。

言葉の推敲と人は気安く言うけれど、本当は人の背後に審判(ジャッジ)がいないと推敲は恣意になるんです。あるいは、他者と本当 に他人との関係というか、打算や計算のような関係で決まる。だけど、推敲に人が夢中になるのは、どこかに人間を超えるジャッジがいるからだと思う。それ で、文章が成り立っているわけですよ。小島さんがそのジャッジを無限の遠くに遠ざけたのに、本当に作家としてよく書けたと思う。

「研究」の言葉には乗らないし、「批評」にするのも難しい。そういうすれすれの言葉を拾っていくのはまさに古井の得意とするところだが、それも、信頼に値する聞き手がいてはじめて可能になる離れ業だ。

 本書を読んでひとつだけ心配になるのは、世代間の隔絶である。作家たちが「昭和」という設定だから、ある程度は仕方ないのかもしれないが、ゲスト たちの年齢層がかなり高い。柳美里(1968年生)、中島一夫(1968年生)、角田光代(1967年生)が最若。もちろん福田和也は弱冠(?)四十数歳 で八面六臂の大活躍だが、それにしてもこれが「サロン」に参加できる年齢層の下限なのだろうか? 現在の40代半ば以下は、筆者を含め、批評理論がごくふ つうに流通した世代で、それだけに文学を語るための言葉を、自分なりに苦労して探すという経験をしないですんでもきたのである。翻訳批評用語の醜さやトン チンカンさに何の違和感も感じないそういう世代の人々が、この「サロン」での会話に反発するはおろか、そもそも反応すらしないのだとしたら、ちょっと薄ら 寒いなあ、と思ってしまう。今こそ、あやしい編集者の出番なのである。


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