2009年8月12日水曜日

asahi shohyo 書評

地中海 [著]イバーニェス

[掲載]2009年8月9日

  • [筆者]筒井康隆(作家)

■長編小説にして叙情詩

  多くの全集を処分した父だったが、有難(ありがた)かったのは、世界文学全集、古典劇大系、近代劇大系、漱石全集など、ぼくが読み続けていたものを残して おいてくれたことだ。いずれの全集にもまだ読んでいない巻がたくさん残っていたのである。父はぼくが何に興味を持ち、何を読んでいるか知っていたのだと思 うが、これも父が他界するまでとうとう訊(き)かずじまいだった。

 世界文学全集にはブラスコ・イバーニェスの『地中海』があった。日本でもすでに上映されていたタイロン・パワー主演「血と砂」 の原作者でもあるイバーニェスの最高傑作と言われた作品で、「初恋は、さる皇后様だった。時にウリセス十歳、皇后様六百歳」という突拍子もない書き出しの このロマンは、後半、確かに「血と砂」でリタ・ヘイワースが演じたような、男を不幸にする女との恋愛物語になるのだが、全篇(ぜんぺん)を通じて地中海讃 歌(さんか)の詩になっている。地中海沿岸各都市の歴史や港湾の風景、特に海洋の描写はすばらしく、魚類の説明などはさすがに衒学(げんがく)的過ぎてや や辟易(へきえき)するものの、その知識の凄(すご)さには圧倒される。永田寛定の訳文もまた、海の男である主人公ウリセス・フェラグートの生涯を謳(う た)いあげるにふさわしい詩的なものだ。

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 イバーニェスはスペインの作家で、闘牛士のことを書いた『血と砂』に代表される、スペイン人の民族性を描いた作品が多い。『地 中海』の主人公もまた熱血漢で情熱的だ。折しも第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)、スペインは中立国だったので、ドイツのスパイたちは腕のいいフェラグー ト船長に目をつける。女スパイのフレーヤに命じて彼を誑(たら)し込ませ、ドイツ潜水艦に燃料を運ばせるのである。案の定フェラグートはフレーヤに夢中に なる。ここから悲劇が始まるのだ。

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 原題は「マーレ・ノストルム(われらの海)」だが、「地中海」の意味でもあり、主人公が持つ船もこう名づけられている。この乗 組員で主人公の昔なじみの副船長トーニや、やはり船長の古なじみで賄方(まかないかた)の「まひまひつぶろ爺(とっ)つあん」らがすばらしいキャラクター だ。特に爺つあんの作る地中海料理たるや、今で言えばパエリアとかリゾットとかいった米料理なのであろうが、その旨(うま)そうなこと、まだ食糧事情が悪 かった当時のことだから読んでいてたまらなくなった記憶がある。母なる海の女神アンフィトリータの名を頭の中に呼ばわりつつウリセス・フェラグートが海底 に沈んで行くラストはすばらしい。少年時代から詩は好きでなかったのだが、長篇(ちょうへん)小説でも一篇の叙情詩が書けるということを知った最初だった ろうか。

 学校をサボって映画を見に行き、家では小説ばかり読むという生活だったから、ぼくの成績はどんどん悪くなり、卒業間近の頃はひ どいものだった。それでもなんとか、大阪府立春日丘高校へ進学することができた。だが高校へ入って少しは勉強に身を入れたかというとちっともそんなことは なく、あいかわらず読書三昧(ざんまい)の生活が続くのである。

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 イバーニェス『地中海』 戦後、永田寛定が改訳し『われらの海』上・下として55年、岩波文庫に。現在は品切れ中。





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