2009年8月28日金曜日

asahi shohyo 書評

ジョルジュ・ブラック—絵画の探求から探求の絵画へ [著]ベルナール・ジュルシェ

[掲載]2009年8月23日

  • [評者]横尾忠則(美術家)

■「表現」を脱し自由な境地に到達

 フォービスムから出発して、セザンヌの影響を経てピカソとキュビスムに交差、マチスをかすめてゴッホに至る、みたいな美術史的図式でブラックをとらえて何が悪かろう。換骨奪胎しない芸術家は真の芸術家ではない、と言ったのはダリだっけ。

 だからブラックが時空を超えて誰と交差しようと驚かない。キュビスムの発明はピカソではなく、ブラックだ。にもかかわらず、ピ カソはまるで特許者扱いされている。それはピカソが飛び抜けた「何者か」であるからで、「表現」よりも他の要素、「人生」が目立つからだ。ピカソの顔は見 えるが、ブラックは見えにくい。そこにある。

 本書ではブラックの作品を掲載図版に即して論じているが、図版サイズが名刺の半分以下、しかも黒一色なので参照にならない(残念!)。というのも、ブラックを認識するには造形よりも色彩だからだ(形は他から借りている場合が多い)。

 ブラックの色彩は軍隊の迷彩色そっくりだ。木の葉っぱの上にコーヒーを垂らしたような反伝統的な色彩に特徴がある。迷彩色(視覚)、コーヒー(味覚・臭覚)、砂やパピエコレ(触覚)、楽器趣味(聴覚)など、とても肉体感覚的なのだ。

 とくに、晩年の作品はタッチ(メチエ)が中心の具象(風景)画に変わる。つまり従来の他者依存からの脱出を図り、誰にも似てい ない真のブラックを獲得する。しかも固定した様式から解放され、自由を手に入れる(この点ではピカソとキリコは早期に気づいていた)。そしてピカソやキリ コのように、手法としての「表現」に固執しない境地に到達したのだ。

 一般的に、評論家は芸術家の「人生」よりも「表現」を重視する傾向がある。だが「表現」に拘(こだわ)っていると、いつか袋小 路に陥る。キリコが形而上(けいじじょう)絵画を捨てたのも「表現」からの脱却だった。よくブラックが最後に初期に回帰したと言われるが、回帰ではなく輪 廻(りんね)したのだ。

 いや輪廻のサイクルから脱輪したと言うべきか。でなきゃ、ブラックは晩年の自由な境地に転生できなかっただろう。

    ◇

 北山研二訳/Bernard Zurcher 53年生まれ。フランスの近代芸術史家。

表紙画像

ジョルジュ・ブラック—絵画の探求から探求の絵画へ

著者:ベルナール ジュルシェ

出版社:未知谷   価格:¥ 4,200

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