2009年8月28日金曜日

asahi shohyo 書評

唐代の人は漢詩をどう詠んだか—中国音韻学への誘い [著]大島正二

[掲載]2009年8月23日

  • [評者]石上英一(東京大学教授・日本史)

■奥深い漢字世界を復元音で探る

  電子辞書の普及で漢和辞典が身近になった。辞典には、日本に奈良時代以前に伝わった呉音(ごおん)、奈良・平安初期に伝わった漢音(かんおん)、宋以降に 伝わった唐音(とうおん)が見える。日本の漢字の歴史と中国の音韻体系との関(かか)わりを知りたくて、本書を手にした。

 著者は、晩唐の詩人杜牧(とぼく)(803〜53)の七言絶句「江南春」(江南の春)を示す。

 千里鶯啼緑映紅

 水村山郭酒旗風

 南朝四百八十寺

 多少楼台煙雨中

 第一句を「千里鶯(うぐいす)啼(な)いて、緑、紅(くれない)に映ず」と訓読し、春、至るところに鶯が啼き、木々の緑と花の 紅が照り映えると光景を詠じても、唐代の音で漢詩を詠む楽しみには及ばない。当時の音を復元して詠むにはどうしたらよいか。それを解決するのが音韻学であ る。

 漢字は声母(せいぼ)と韻母(いんぼ)からなり、意味を区別する機能を有するアクセントの一種、声調(せいちょう)をもつ。声 母・韻母による音の組み合わせ表示を反切(はんせつ)といい、標準的な文字を借りて記される。例えば「東」の音は、徳の声母トと紅の韻母ウで「トウ」と示 す。声調には平声(ひょうしょう)、上声、去声、入声(にっしょう)の四声(しせい)がある。上去入の三声が仄(そく)で、声調を平仄(ひょうそく)とい う。五言、七言の詩には漢字の音、平仄の調和が必要とされた。

 漢詩作りに役立つ反切や平仄を記した韻書もある。内容の伝わる最古の韻書が『切韻(せついん)』(601)で、これをもとに宋 代に『広韻(こういん)』が編纂(へんさん)された。また漢字を音韻で分類し、行列形式の表に配列した韻図(いんず)も作られ、宋代には『韻鏡(いんきょ う)』も編まれた。

 清代に発展した音韻学をもとに実際の発音を解明したのは、スウェーデンの学者カールグレン(1889〜1978)である。 1910〜12年に中国で調査を行い、『中国音韻学研究』を著した。彼は韻書、方言、日本・朝鮮・ベトナムの漢字音を用いて『切韻』の中古音の音韻体系と 実際の発音を復元した。

 最後に中国音韻学の成果をふまえ、「江南春」の唐代の長安の音による詠みが披露される。音韻学を手掛かりに奥深い漢字の世界を探訪するのも楽しい。

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 おおしま・しょうじ 33年生まれ。北海道大学名誉教授(言語学・中国語学)。

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