2009年8月28日金曜日

asahi shohyo 書評

終(つい)の住処(すみか)/世紀の発見 [著]磯崎憲一郎

[掲載]2009年8月23日

  • [評者]鴻巣友季子(翻訳家)

■巧みな文体 輪郭ぼやけた時間

 磯崎憲一郎の小説に流れる「時間」はふしぎな形(なり)をしている。時間はある処(ところ)では無いがごとく希薄であり、ある処では異様に凝縮されているのだ。

 芥川賞受賞作「終の住処」の勤め人の妻は、結婚以来ずうっと不機嫌。月はいつでも満月だ。家族3人で観覧車に乗った日から、妻 は11年間口を利かなくなり、夫は次々と浮気をするが、結局、娘の存在によって女たちは一つの人格になってしまう。彼だけが狂っているのか、狂っていない のは彼だけか? 何かとんでもないものに本意ならず巻きこまれている、自分はそいつの理不尽な要求に一件一件、孤独に対処しているだけだという、生真面目 (きまじめ)さとも、奥ゆかしさとも、ふてぶてしさとも言えるものが男の生き方には漂っている。「何かとんでもないもの」とは、恐らく人生のこと。人が普 遍に持ちうる感覚であり、非常にカフカ的だ。

 「世紀の発見」ではそれがさらに顕著であり、幻想味がもう少し強い。「私」は子供の頃、対岸を走る機関車を見たり、森の妙な空 き地を発見したりするが、何もかも母が仕組んだことのように思える。飼い犬はどれもポニーと呼ばれ、一家は「ポニーという流れ」の中を生き、長じた「私」 は駐在先の異国で『城』のように不条理な目にあいながら11年(ここでも!)の歳月を瞬く間にすごす。終(しま)いには幼い娘の一言で、時間の枠組みは あっけなくほどけ、長い夢を見ていたような気が……。

 書かれているのが、具体的な出来事なのか、ある状況の抽象的なまとめなのか、いっそ喩(たと)え話なのか、境目をあえてぼかし た巧みな文体だ。細かい描写のリアルさとは裏腹に、茫洋(ぼうよう)とした輪郭の時間の中で、すべてが起き、起きなかったこととして流れていくような、そ う、本作から引用するなら、まさに「俺(おれ)は、誰のものでもある、不特定多数の人生を生きている」ような寓話(ぐうわ)的体験を読者はするだろう。時 間の曖昧(あいまい)さということを、概念上も技法上もこれだけ意識的に書ける作家はあまり類を見ない。小説の理念と手技が幸福に融和した快作である。

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 いそざき・けんいちろう 65年生まれ。

表紙画像

終の住処

著者:磯崎 憲一郎

出版社:新潮社   価格:¥ 1,260

表紙画像

世紀の発見

著者:磯崎 憲一郎

出版社:河出書房新社   価格:¥ 1,470

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