2009年8月11日火曜日

asahi shohyo 書評

今日の宗教の諸相 [著]チャールズ・テイラー/神と仏の倫理思想 [著]吉村均

[掲載]2009年8月9日

  • [評者]苅部直(東京大学教授・日本政治思想史)

■社会の変遷と信仰 どう理解すべきか

 今日、宗教の意義について正面から語るのはむずかしい。先進諸国ではどこでも、決まった信仰をもたない人の割合がいちじるしく増える他面で、突出した宗教集団の政治運動や、テロリズムとのかかわりが注目を集めている。この現象をどう理解すべきなのだろうか。

 カナダ、というより英語圏を代表する政治哲学者、チャールズ・テイラーの著書は、西洋社会は近代になって世俗化したとする、通 常の理解を批判している。むしろそこで進んだのは、キリスト教信仰が教会の儀礼から解放され、個人の選択によるものに変わる動きであった。また、アメリカ 合衆国に見られるように、本来は神が秩序を創(つく)ったとする信仰が、市民社会の紐帯(ちゅうたい)を支え続けてもいた。

 一九六〇年代以降、消費社会がめざましく発展すると、人々の関心は自身の世俗での幸福の追求と、「自分探し」に集中してゆく。 それは一方では宗教からの離脱を生むが、同時にまた、ひたすら内面の経験に収斂(しゅうれん)する、新しい宗教意識も広まるようになった。テイラーは、ア メリカの哲学者、ウィリアム・ジェイムズが、すでに二十世紀初頭にこの動きを見とおしていたとして、高く評価するのである。

 テイラーの本は、二〇〇〇年にウィーンで行った講演に基づいている。もし翌年の九・一一テロ事件のあとに構想していたら、諸宗 教の相剋(そうこく)と共存といった問題にも、もっと踏みこんで議論していたかもしれない。そしてまた、日本社会については、どう考えればいいのか。倫理 思想史家、吉村均の新著は、オウム真理教の犯罪によって受けた衝撃から出発しながら、日本の伝統思想における神道と仏教との関係に切りこんでゆく。

 古代と中世に展開した神仏習合は、異質な信仰をいいかげんに混ぜあわせたものでは決してなかった。在来の神の信仰は、人がふだ ん生きている狭い時空をこえ、すべてを見とおし包みこむような、新しい知を求めていた。仏教の側は、あらゆる生物を苦しみから解放する仏陀の知を得る前の 段階として、一般人にむけた教説を必要としていた。二つの要請がたがいに補完しあう、筋道だった体系を、神仏習合はもともと備えていたのである。

 徳川時代における儒学の支配、さらに近代の神仏分離と仏教理解の西洋化は、そうした体系を打ち壊してしまった。しかし吉村は、 近代にも柳田国男と折口信夫の民俗学が、文献としては残らない伝説や習俗の世界に、日本人の本来の信仰のありようを探ったことに、意義を見いだす。

 そしてまた、文字など読めないにもかかわらず、仏教の高度な知恵を体現した「妙好人(みょうこうにん)」たちが、庶民の世界に は出現し続けたことに注目している。この細々とした系譜に基づいた、あらゆるものを共存させる倫理。その可能性にむけた賭けが、叙述の背後から顔をのぞか せているようである。

    ◇

 『今日の宗教の諸相』伊藤邦武ほか訳/Charles Taylor 31年生まれ。カナダの社会哲学・政治哲学・倫理学者。▽『神と仏の倫理思想』/よしむら・ひとし 61年生まれ。財団法人東方研究会研究員。

表紙画像

今日の宗教の諸相

著者:チャールズ テイラー

出版社:岩波書店   価格:¥ 1,995

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