2008年5月22日木曜日

asahi shohyo 書評

ユダヤとイスラエルのあいだ—民族/国民のアポリア [著]早尾貴紀

[掲載]2008年05月18日
[評者]奥泉光(作家、近畿大学教授)

■建国と現在の矛盾に立ち向かいつつ

 今年はイスラエル建国から60年にあたるそうだ。しかしめでたいと思う人があまりいないのは、パレスチナ領有をめぐる紛争がいまだ解決されぬどこ ろか、一時は希望と見えたオスロ合意と、これに基づく和平プロセスが完全崩壊するに至って、出口の全然見えぬ状況にあるからだ。どうしてそうなってしまう のか? これを政治史に即してではなく、ユダヤ民族国家として出発したイスラエルが抱える諸問題に限定してとりあげ、政治思想、政治理論の水準で論じたの が本書である。

 著者の関心は、近代の「ナショナリズム運動のいわば臨界点で誕生したイスラエル国家」に、日本を含む国民国家がはらむ矛盾点を透かし見るととも に、それら矛盾に向き合った知識人たち、マルティン・ブーバー、ハンナ・アーレント、エドワード・サイードといった人々の思索を俎上(そじょう)にあげ分 析することで、問題点を掘り下げるところにある。

 離散(ディアスポラ)のユダヤ人が、ホロコーストの経験を経て国家を建設する。となれば、その国家は「ユダヤ人国家」でなければならないと同時 に、非ユダヤ人を排斥し抑圧する国家であってはならない——矛盾の一つは、たとえばこれだ。もし一つの地域に住む、文化民族を異にする人々が共存する国家 を目指すのなら、わざわざユダヤ人国家を作る必要はない。イスラエル人、パレスチナ人が別々の国家をなすのか、それとも二民族が共存する一国家の建設か。 現実には前者の方向が勝利し、いまにいたるわけだが、そこに費やされた知識人の思索は、国境を越えて多数の人間が移動を開始した21世紀において、離散 (ディアスポラ)の政治学として有効性を帯びつつあると、筆者はやや遠慮がちに主張する。

 遠慮がちなのは、次のような声がたちまち聞こえてくるからだろう。現実政治の世界に置いてみれば、そんなものはただの知識人の玩具じゃないのか?  たしかにそうだ。そのことは十分に認めた上で、しかし日本という自分の場所で、自分たちの生の問題として、考えられるだけのことを考えようとする筆者の 構えには共感できる。

    ◇

 はやお・たかのり 73年生まれ。編著に『ディアスポラと社会変容』など。

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