2008年5月27日火曜日

asahi shohyo 書評

稲作渡来民—「日本人」成立の謎に迫る [著]池橋宏

[掲載]2008年05月25日
[評者]柄谷行人(評論家)

■だれが、どのように稲作を伝えたのか

 柳田国男は『海上の道』で、南島づたいに日本に稲作が伝えられたと主張した。以来、それを否定する人たちも、渡来した稲作民(弥生人)の技術を、 先住民(縄文人)がどのように受容したかを主要な関心事としてきたといえよう。しかし、と、著者はいう。そのような見方は、一般に、狩猟採集民にとって農 耕への飛躍がいかに困難であるかを無視するものだ。小規模な畠作(はたさく)農業ならともかく、水田稲作のように特殊な技術を要するものを進んで受け入れ ることは考えられない。

 著者は、中国の春秋時代に長江下流域で開始された水田稲作の技術をもった人たちが山東半島に進出し、朝鮮半島南部を経て、日本に渡来したという。 本書は、それを多角的な観点から立証しようとするものである。水田稲作の起源は、日本人の起源・日本語の起源という問題と重なっている。本書は、最新の考 古学、自然人類学、言語学の成果を動員して、それらを一挙に解決しようとする壮大な試みである。

 日本における水田稲作は、少しずつ発展してきたというようなものではない。近年発見された遺跡は、稲作がはじめから完成されたかたちで導入された ことを示している。ゆえに、舟を駆使し移動性に富む稲作民が、水田の適地を求めて渡来し、移動・拡大を続けたとみてよい。だが、ここで、つぎのような謎が 残る。

 自然人類学的調査は、稲作渡来民とともに、日本列島にいた人々の体形や顔つきが根本的に変わったことを示している。それは多くの稲作民が渡来した ことを意味する。もしそうなら、言語も根本的に変わっていたはずである。ところが、日本語は、先住民の言語(縄文語)がベースとなっており、さほどの変化 がない。なぜだろうか。

 かいつまんでいうと、稲作民は小舟で少しずつ渡来した。そのため、言語的には先住民の言語に同化した。だが、稲作民は当初少数であっても、生産力とともに人口増加率が非常に高く、やがて圧倒的な主流派となった、というのが著者の考えである。

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 いけはし・ひろし 36年生まれ。著書に『イネに刻まれた人の歴史』ほか。


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