2008年5月8日木曜日

asahi shohyo 書評

バートルビーと仲間たち [著]エンリーケ・ビラマタス

[掲載]2008年04月27日
[評者]鴻巣友季子(翻訳家)

■書けなくなった作家の饒舌な物語

 今年1年の、いや、いっそのこと、今世紀10年のベスト翻訳書に挙げてしまおう。

 『バートルビーと仲間たち』だって?! まず題名にのけぞった。町田康の小説に「ビバ! カッパ!」と叫ぶ河童(かっぱ)が出てくるが、それを凌 (しの)ぐ衝撃である。この台詞(せりふ)は、本来、単独者である河童が仲間を讃(たた)えることの不条理を表現したものだが、メルヴィルの描いた代書人 「バートルビー」といえば、事務所にいても仕事をせず、対人関係を拒絶し、最後はひっそり餓死してしまう孤独の極北なのだ。「仲間」の反意語と言える。

 本書は、「文学的日食」に襲われて書くことをやめ、世の中に「ノー」と言い続けた「バートルビー症候群」の孤高の作家が一堂に会した異色小説であ る。ソクラテス、ランボー、サリンジャー、ボルヘス、ピンチョン等々。語り手自身も、書けなくなった元作家。彼がバートルビーに直感を得、再び書きだす過 程が作中に盛りこまれる。とはいえ出てくるのは、ボードレールの「書かれなかった序文」や、「書けないこと自体が作品だ」というボビ・バズレンの「本文の ないメモ」や、無限に逸脱した揚げ句、書くのを放棄した作家たち。語り手が架空の著者と架空の手紙をやりとりし、バスの中で女連れのサリンジャーに会った 「実話」などを綴(つづ)るうちに、現実の波打ち際はどこまでも後退し、そのあとには、空漠たる虚構の白浜が広がる……。

 メキシコの作家ルルフォはかの『ペドロ・パラモ』の執筆時を振り返り、まるで誰かの「口述」を書きとる感じだったと言い残し、その後ぱたりと書か なくなった。この代書人タイプの「患者」は、文学史的にも重要な位置にある。「作者=筆生」という考え方は、古代ローマにはすでに見られ、それはさらに、 アリストテレスが「まっ新(さら)な書板」に準(なぞら)えた「思考」の概念へと遡(さかのぼ)る。この書板は未(いま)だ起きぬあらゆる可能性を含んだ ものであり、「何かができる」ことより、「しないこともできる」潜勢力に強調をおく。存在と無の間。肯定でも否定でもないもの。何か頼まれるたびに、I  will not(したくない、しない)ではなく、I would prefer not to(しない方がいい)と拒み続けたバートルビーは、まさにそ うした宙づりに耐え、あらゆる可能性の「全的回復者」となる、と指摘したのは、哲学者のアガンベンだった。

 生涯一編たりとも詩を書かずとも詩人は詩人、などと言うが、私が本書に感じるのは、創造的な非生産力である。書かないソクラテスは弟子を通して 「対話文学」を生み、ランボーは書くのをやめたことで詩神となり、カフカは「書けないということを書くしかない」と言って書き、ホフマンスタールは「世界 は言葉で表現できない」と延々言う『チャンドス卿の手紙』で文学の新世紀を開いたではないか。そして本書。書か(け)ないことについてこれほど饒舌(じょ うぜつ)に書いた書物は滅多(めった)にない。そう、「目に見えないからといってテキストが存在しないわけではない」のだ。未来の萌芽(ほうが)はその中 にある。

 ビバ、バートルビー!

     ◇

 木村榮一訳/Enrique Vila−Matas 48年、スペイン・バルセロナ生まれ。作家。85年発表の『ポータブル文学小史』で広く知られるように。


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