2008年10月8日水曜日

asahi shohyo 書評

ちびの聖者 [著]ジョルジュ・シムノン

[掲載]2008年9月28日

  • [評者]瀬名秀明(作家、東北大学機械系特任教授)

■作家の息遣いと体温に同化できる

 昨今のエンターテインメントは、過剰なほど読者に呼吸を合わせてくれる。こちらが何も考えなくても息を吸って吐いてドキドキできるよう、呼吸をおぜん立てしてくれる。だからそんな自動性に息苦しさを感じたとき、私はシムノンの小説を手に取る。

 本書はアメリカの新聞がシムノンの最高傑作と評した長編だ。20世紀初頭、大家族に生まれ育ったちびの少年ルイは、母を手伝い パリの市場で働く。無口で微笑(ほほえ)みを絶やさない彼はきらきらと光るすべての色彩を全身で感じ、やがてささやかな人生の体験を契機に絵を描き始め る。市場の彩りの記憶は彼にとって人間そのものなのだ。第1次大戦と共にルイは才能を開花させ、画家として一歩を踏み出す。その瞬間の描写がなんとまばゆ く、鮮やかなことか。やがて読者はこれがシムノンの呼吸で語られた架空の評伝だと知るが、それに気づいたとき私たちの呼吸はシムノンの体温と息遣いに同化 し、パリの時空を生きている。

 シムノンは生涯で220の長編を著し、最後まで自分の生活の呼吸で執筆を続けた。だから彼の小説はひとりの作家の身体であり、 小説の息遣いそのものである。いまシムノンを読むとは小説本来の呼吸に自分をリセットすることだ。シムノンを読めばどんなに忙しくても小説へと還(か え)ってゆける。

    ◇

長島良三訳

表紙画像

ちびの聖者 (シムノン本格小説選)

著者:ジョルジュ・シムノン

出版社:河出書房新社   価格:¥ 1,785

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