2009年10月31日
『ロシア 闇と魂の国家』 亀山郁夫&佐藤優 (文春新書)
『カラマーゾフの兄弟』の新訳で一般読書界にも知られるようになった亀山郁夫氏との対談本である。
亀山氏も佐藤氏も今ではジャーナリズムのスターであるが、もともとロシア語業界というマニアックで狭い世界の住人だけに、『罪と罰』のソーニャの聖書というディープな話題にいきなりつっこんでいく。
ソーニャがもっていた革装の聖書については故江川卓氏が古い訳だったことをつきとめ、分離派(ラスコーリニキィ)の 影響説の傍証としたが、分離派の共同体の中で育った「黒い大佐」ことアルクスニスをよく知る佐藤氏は分離派は動物の革を教会にもちこむことを嫌うから、江 川説は無理だと指摘する。そして当時の聖書はいつでも換金できる高価な商品だったので、ソーニャは財産保全か投機のために革装の聖書をもっていた可能性が あるとつづける。いざという時のために純金の十字架を身につけておくようなものだろう。
こういう話にぞくぞくするかどうかで、本書を楽しめるかどうかが決まる。わたしはぞくぞくする方なので舌なめずりしながら読んだが、佐藤氏に実学の知識を期待する人にとっては無用の本かもしれない。
無用の話をつづける。ソ連時代はインテリにとっては息苦しかったが、庶民にとっては幸福な時代だったらしい。スターリン時代はいつ収容所送りにな るかわからない緊張感があり、フルシチョフ時代もその緊張感が残っていたが、ブレジネフ時代になると規律がゆるみ、一日三時間しか働かなくても食うには困 らない「甘い腐臭」のただよう社会ができあがる。ウォッカでへろへろに酔った時の陶酔感とか、ユーフォリアの時代とか、貧しい平等とか、両氏はさまざまに 形容して思いいれたっぷりに語り、亀山氏にいたっては「あの時代のソ連なら、住んでも悪くない」とまで述べている。
ブレジネフ時代が一種の「黄金時代」だったことについては『国家の崩壊』 に冷静な分析がある。オイルショックの結果、産油国であるソ連には潤沢なオイルマネーがはいるようになったが、ブレジネフ政権は肉とウォッカとパンの価格 をひきさげ、国民にたらふく食わせて飲ませる愚民政策をとっていたというのである。愚民政策の時代を本書では手放しで賞賛し、懐かしがっているわけで、両 氏ともすっかりロシア人の気分になっているようだ。
キリスト教の美徳であるケノーシスがロシアでは集団主義と融合して独特の発展をとげているという指摘も興味深い。ケノーシスは「謙遜」とか「へり くだり」と訳されることが多いが、ロシア的なケノーシスに佐藤氏は「他者のための奉仕」、「まこと心」、亀山氏は「おバカさん」という日本語をあててい る。欧米人には日本の「神風の精神」は理解不能だが、ロシア人はドイツとの大祖国戦争をケノーシスで戦ったので理解できるというのである。中国や韓国・北 朝鮮が靖国に神経をとがらせるのに、同じ隣国でありながらロシアが不問に付しているのはケノーシスのためではないかという。
本書は佐藤氏の著作の中では密教系に属する本だろう。深い話が読めて満足だったけれども、誤解を招きそうな部分もすくなくない。
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