2009年11月3日火曜日

kinokuniya shohyo 書評

2009年11月02日

『グリーン・カルテ』川上亜紀(作品社)

グリーン・カルテ →bookwebで購入

「病気と小説」

 「グリーン・カルテ」がついに本になった。十年前に文芸誌でつり込まれるように読んだときのその不思議な力は、今回の再読でもしっかり確認できた。あのときはなぜつり込まれたのかよくわからなかったが、こんどは多少は説明できそうな気がする。

 筆者の同僚に江川さん(仮名)という人がいる。江川さんは病気が出てくる小説を軽蔑している。「病気をネタに書いてやれ」という狙いを嗅ぎ取っただけで鼻白むという。まじめに読もうという気もしなくなる。学生の卒論も、病気小説を論じているものには冷たいようだ。

 しかし、江川さんと同僚になったおかげで筆者はかえって、「そう言われてみると自分は病気小説がかなり好きだ」と自覚するようになった。探偵小 説、病気小説、思弁小説とならんでいたら、筆者はまちがいなくまずは病気小説をえらび取るだろう。何が楽しくて、わざわざ病気の話を読むのか。

 病気のことが書いてあればいい、というわけではない。つり込ませる病気小説の最大の特徴は、それが恐るべきほどの必然の連鎖によって構成されてい る、ということである。ひとつひとつの細部や展開に、「そうであるしかないのだ」という逃れようのなさがある。語り手も伊達や酔狂で語っているのではな く、「どんどん語らなければ自分はほんとうに滅びてしまうぞ」とでもいうような、藁をも掴むような必死さがある。

 しかし、そのような必死さだけでは、重い。読ませる病気小説は、一種の教養小説(ビルドゥングス・ロマン)にもなっている。病気というのは、生き 物を飼っているようなところがあって、その成長を逐一見届けたいという観察欲や記録欲をかき立てる。数えたり、覚えたり、気に留めたりしたくなる。しかも そうした観察はほとんど自己目的的にもなっていくから、下手をすると、病気を応援しているかのように見えたりする。どこか生命的なのである。前を向いてい る。

 「グリーン・カルテ」は、まさにそういう小説である。内容は病気のオンパレード。鬱からはじまって風邪、下痢、下血、発疹…。中心となるのは語り 手自身の潰瘍性大腸炎という難病なのだが、その周辺でもインフルエンザだの癌だの血圧だの、まさに生きるということは病気になることなのだ、と思わせられ るほどに病いの匂いがぷんぷんとしている。

 しかし、これほどの目に遭いながらも語り手は実にテキパキとしている。どう笑っていいのかわからないくらい個性的な洒落や気まぐれが満載であるに もかかわらず、語りの流れにはしっかり一本筋が通ってスキがなく、抑制の効いた旅行記のような安定した足取りを感じさせる(本書に収録された「ニセコアン ヌプリへの登頂」では、まさに「歩く足」がテーマになっている)。道徳的にふんぞりかえったり、感傷的に落ち込んだりすることもない。あれこれ考えても、 いざとなるとスパッと横っ飛びできるような敏捷さがある。とりわけ冴えているのは——何しろ大腸炎なので——「畜便」と呼ばれる作業を描写するところなの だが、そこは本書を手にとって確認してもらうとして、ここではこの小説の影の主役とも言える曲者の母親を、上手にちらっと登場させている箇所を引いておこ う。急に入院となって、主人公はいろいろ物を整える必要に迫られる。

 そこで、私は新しくガウンを購入することにした。一カ月半のあいだには、ガウンがないために他人から白い目で見られたり、実際 に不自由な思いをしたりするかもしれなかった。問題はガウンの色だった。ガウンはコートなどと同じくらいの表面積を持つので、色に関しては慎重に選ぶ必要 があった。紺色と言って母に任せれば、きっと紺色が見つからなかったと言ってピンク色を買ってくるに決まっていて、もし紺色が見つかったとしても、それが 似合わなかったときに母に文句をつけることになるのがわかっていた。外出は避けるようにという医者の言葉にもかかわらず、私は自分でガウンを買いにいかず にはいられなかった。その結果が、白地に紺とピンクの太いストライプだった。無地の紺色は見つからず、薄い緑色を身体に当ててみたりしていた私に、店員が それを勧めたのだった。こちらの方が明るいと思いますよ……。 

「紺色が見つからなかったと言ってピンク色を買ってくるに決まって」いるような逸脱的なこの母親、実に母親らしくていい。まさに永遠の母性である。 どう考えてもその母親から逃れられそうにない語り手も、変なフロイトコンプレクスに熱くなるのではなく、ガウンの色に文句をつけたりしながらも、つかず離 れずの曖昧な密着をつづけていきそうである。

 語り手には妙なしぶとさがあるのだ。おそらく病気の種類も関係している。さまざまな病気が出てくるが、芯の部分にあるのは、ストーリーの土台をな す大腸炎の罹患と治療、それからもうひとつ、鬱である。要するに下痢と意気消沈とが、この語りの根本にあるモチーフなのである。どちらの病いにも共通し て、力が入らない、という症状がある。

 「グリーン・カルテ」の最大の魅力は、この力の入らない感じを見事に書ききっているところにある。力が入らないから、思考がさまよったり、変な夢 をみたり、怒りが形にならなかったり、救急車で運ばれたり、人からわーわー言われたりする。しかし、この力の入らなさ加減が、むしろ遠心力のような力へと 転化されていく。詩を書く以外に野心も欲望もなさそうな女性が、あれよあれよとさ迷い流されていく感じを、強烈な勢いとして読ませてしまうのだ。

 作品の最後で、主人公の飼っていた緑亀が死んでしまう。何とも言えない場面である。ずっと一匹だけで飼っていたのだが、退院して家に戻ってから、亀も仲間が欲しいだろう、とお祭りでもう一匹買ってきた。どうやらそれがよくなかったらしい。

 その新しい少し甲羅の尖った亀は、慣れない環境のせいかあるいは性質なのか、めったやたらと動き回るので、古顔の亀も落ち着か ず、時々砂利の上で逆さにひっくり返って起き上がれなくなってもがいたりしていたから、多少気になってはいたのだが、前日には二匹仲よく石の上に乗って甲 羅干しをしていたのだった。

 亀の静かな死に様を目にしながら語り手は考える。

突然、自分の部屋にまったく見知らぬ他人が入り込んできて、朝も夜もがさがさと動き回り、意味もなく身体を接触させた り、挙げ句の果てにはチーズオムレツを横取りされてしまったりすれば、私だってどんなにか疲れ果ててしまうだろう。私は死んだモナイに対してすまないとい う気持ちでいっぱいになった。名前の由来である女友達にも申しわけなかった。彼女は暑い夏を、冷房のない職場で働いていた。

 ほとんど唯一の感傷的なシーンかもしれない。たしかに小説を終わらせるとなると前向きな勢いだけでは難しいのかもしれない。しかし、ここでほんと うに行われているのは、ぐっと反省して「結論」を押しつけてくることよりも、力を入れられない病に取り憑かれたはずの人間が、変に力を入れてしまったこと でかえって死を招いたのだと、あらためて力を抜きながら考えている、ということではないだろうか。だからこそ、締めくくりで絶妙な比喩とともに描写される のは、語り手が、あらためて力を抜いた病気との付き合いに戻っていく様なのである。

私は、医者が「風邪」の診察にとりかかるまでのごくわずかのあいだ、高い熱を解熱剤で急に下げた後に訪れる静かで鮮やかな過去の 時間のマボロシの中を行ったり来たりした。しかし、医者はすぐに、聴診器を私の胸にあてがった。すると、過去という時間が、ただ一塊の土を空き瓶に詰めた ようなものになって、深い谷に落ちていった。
 

→bookwebで購入

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