2009年10月30日
『神学部とは何か』 佐藤優 (新教出版社)
「非キリスト教徒にとっての神学入門」という副題がついているが、佐藤優氏が母校の同志社大学で非キリスト教徒の学生に神学に関心をもってもらう ためにおこなった講演がもとになっており、神学がいかにおもしろいか、神学部の勉強がいかに役に立ったかが力説されている。あろうことか現存する六つの大 学の神学部の入学案内がコラムとして挿入されていて、卒業生の行き先なども書かれている。
神学部の客引きをはじめたのかと思ったが、そういう面は確かにあるものの、すくなくとも第一章「神学とは何か」に関する限り、学問論として出色の文章となっている。
最初に「神学は虚学である」と宣言しているのがうまい。「虚学」というのは著者による造語で「見えない事柄を対象とする知的営為」をさし、普通の 学問=実学の「実」を土台でら支えるのが「虚」の部分であり、ヨーロッパでは神学部がないと university(綜合大学)を名乗れないとたたみかける。
著者によると哲学や文学は神学と比べるとまだ「実学」なのだそうである。その証拠として著者は神学の二つの特徴をあげる。「神学では論理的整合性の低い方が勝利する」ことと「神学論争は積み重ねられない」ことである。
文学は微妙だが、哲学については論理的整合性の高い方が勝つし、三千年にわたってつみかさねられてきた哲学史が厳然と存在する。哲学は間違いなく 学問といえる。ところが神学は「論理的に正しい者が負けて、間違っている者が政治的に勝利する」傾向がある上に、同じような論争が数百年周期でくりかえさ れる。無駄というならこれほど無駄な営みはないだろう。
神学がそうなる理由を著者は「絶対的な結論が出ない問題について議論している」からだと喝破する。それは神学は真理の探求ではないと言っているに 等しい。神学論争とは真理に到達するための論争ではなく論争のための論争であり、神学的思索もまた思索のための思索だろう。しかし、真理を求めない学問に 何の意味があるのだろうか。
著者はだから神学は役に立つと開き直る。人間は有限で、いつかは死ぬ。人生とは何かと考えても、答えは出るはずがない。人生とは何かを考えなければならなくなった時に、答えのない思索をくりかえしてきた神学こそが役に立つというわけだ。
(実にみごとな弁証法で、こういう黒を白といいくるめる技術を身につけるには神学が一番だという見本を見せてくれている。)
神学の四分類(聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学)が簡潔に紹介してあるのはありがたい。佐藤氏によってにわかに知られるようになった「組織神学」とは言語学における共時言語学のようなものらしい。
第二章「私の神学生時代」の最初と最後は『私とマルクス』と『自壊する帝国』の二番煎じでどうということはないが、真ん中の部分はボンヘッファー、カール・バルト、フロマート力という現代を代表する神学者の仕事を紹介していて勉強になる。ナチスが「ドイツ的キリスト者」という国家教会運動を推進していたとか、興味の引かれる話が出てくる。
第三章「神学部とは何か」は神学業界の話で、これがおもしろい。
前半は欧米の、後半は日本の業界事情で、全共闘運動以降、日本の神学は聖書神学一辺倒になり、組織神学が著しく縮小したことを「神学が本来持っていたはずの大事なものを落としてしまった」と批判している。
部外者もそれは感じている。田川健三氏の影響が大きいと思うが、非キリスト教徒の目にはいる神学書は聖書神学の本ばかりで、組織神学という分野があることを佐藤氏の本ではじめて知ったという人は多いと思う(わたしもその一人だが)。
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